帰還
固い何かがこつこつとぶつかる音。
「はい、じゃあここの活用形と現代語訳を……」
聞きなれた声、けれどそれは遠い遠い記憶の向こうに、置いて来た声。
情報を処理しきれないまま隣を見る。友だちがいる。高校に上がってから出来た友だち。ああそういば、この子彼氏が出来たとか言ってた。
前を見る。教師が書きつける古文の文章と傍線、名簿表を見ながら指名する生徒を考えている時間。
ありふれた、授業風景――
「……
千葉夜は椅子を蹴って立ち上がった。1か月の鍛錬で鍛錬前とは比べ物にならないほどに飛躍的に動けるようになった模倣品の身体。その感覚で立ち上がったから、静かな授業中にはふさわしくない机と椅子の悲鳴を上げてしまう。
一番後ろの席でよかった――と思うよりも前に、千葉夜は窓に駆け寄った。
闇の遠い、紺碧の昼の空。
千葉夜の通う学校の、午前の風景が、そこにあって。
S区など、異界など――どこにも、なくて。
「ちょ、ちょっと千葉夜?どうしたの」
心配してくれる友人を一瞥する。ああ、私、ねえ、和沙――
「今、何月?」
答えは、千葉夜の記憶よりも1か月後で。
「最近の私、どうだった?」
「え?なんか……よくぼーっとしてるな、とは思ったけど」
ああ、そうかと思う。
魂だけ取られたのだ。どういう原理かは知らないが、悪辣な異界は
少なくとも、戻っては来られる。
「……ッ!!」
千葉夜は心配してくれた友人も、怪訝そうに見つめる教師も、クラスメイトたちの注目も、全部無視して、自分ではない自分が持ってきていたスクールバッグも全部置き去りにして、廊下へ駆けだした。
走って、走って、上履きのまま外に出て。
校門を出て、駅へ走って――転ぶ。
「つっ……ぁ」
擦りむいた膝から、赤い血がぽろり、と。
「――ぁ」
それを見た千葉夜は、ああ、現実に戻って来たんだと今更、頭でも、心でも、理解した。
脳裏に浮かぶ、最後に見た和沙の顔。確かに聞いた、「千葉夜」の名前。
「私も、一緒に」
最後まで、戦いたかった。
「……あああああぁあぁぁッ!!!!!」
裂帛が、伸びやかな青空の下に、木霊した。
※※※
少し遡り、
そろそろちょうど1か月になる――あいつに似た顔の、新参者。
「柊、久しぶりだな」
「あっ、紅さん。お久しぶりです」
ちょうどビルから出て行くところの柊と会った。
(この目……やっぱり、)
「何か用ですか?ごめんさい、僕実はこれから――行くんです」
「……!そうか、それは――幸運を、祈っている。いや、そろそろだと思ってな。最後に顔を見ておきたくて」
言えない、と思った。
ただ、柊が己が愛した、今も愛しているあの人に似ているというだけで――もしかしたら、親類なんじゃないか、って。だが、だとしたら。
だとしたら、柊に何を言うつもりだったのだろうか。
(助けられなくてごめんさいとでも――いうつもりだったのか、お前は)
紅の内心の懊悩を知ってか知らずか、柊はそっと頭を下げると、穏やかな声で告げた。
「……姉のこと。ありがとうございました」
「――ッ!柊、あんた……」
「初めて会った時、紅さん、まさか、とか似てるだけだとか、ぶつぶつ言ってましたよね。それで、もしかしたらって」
まさか口に出ていたとは。
紅は己の弱さを恥じたが、それよりも、柊の言葉が理解しがたかった。だって、だってあたしは、お礼を言われるようなことなど、と。
唇をかみしめる。痛い。血など、流れない。
「あたしは、あいつを救えなかったんだ。礼なんて、言われる筋合いは」
『紅!ねえ、この、魂奪還戦線って名前、変えたいと思わない?』
『どうしてだ?』
『だって、私たちは戦争をしているわけじゃないよ。戦線なんて、軽々しく使えない。だからさ、私考えたの!ねえ、S区崩壊境界線とか、どうかな!』
『……はっ、なんだ、それは』
そう、救えなかった。
紅は共に異界を生き抜いてきたパートナーと挑んだ異界の者との戦いで、彼女を失った。そして。
(異界の者に成り果てたあいつの腕だけ、持って帰って来れて。形見みたいに、して)
図形的なふるまいとは、よく言ったものだと紅は自虐的に嗤った。
喪失に耐えられなくて、自分の腕を切り落として、彼女の腕をつけて――それで引き継いでしまった、彼女の尋常ならざる怪力の能力。植物を操る――生み出すではない、操る――能力を十全に使いこなせなかった自分が得た、戦う力。
自分でも理解している、その歪みを――柊は知らないだろうけれど。
「僕はここで姉さんと親しくしている人が居たっていう事実が、嬉しいから。きっと最期まで隣にいてくれたんですよね?だから――ありがとうございます」
「……違う、あたしは」
去り行く柊の背中が、遠い。
魂を取り戻すために必死に足掻くその姿が、眩しい。
「あたしは、あいつを……」
片腕を抱く。
そこにはもう、彼女はいなくて――
※※※
偶然だった。
トレーニングのためにS区を走っている時に、柊は自分の声を聞いた。その時点で数週間後に戦うことになる相手だ、と思って様子を見に行ったのだ。
だが、目の前には高いビルが聳えているだけで、異界の者の気配は一切なかった。それでも絶えず聞こえてくる自分の声は、なぜかビルから聞こえてきて。中に異界の者が潜んでいるのだろうと考えた柊は、次の瞬間、自分の戦うべき相手が誰か、理解した。
――ビルそのものが、襲ってきたから。
「僕の相手、もっとドラゴンとかかと思ってたのに」
柊の魂を食らった異界の者。それは、ビルそのものだった。
発声器官などありもしない無機物の塔が、轟、と咆哮に似た音をまき散らす。その中を確かに響く柊の魂の声。
「この1か月、溜め続けたんだ」
プランは練って来てある。柊の能力は拳に力を溜めることによって、その1発を強化するというシンプルなもの。要所要所に能力の一撃を叩きこむ使い方――など、出来ようもない。
柊は、この1か月間力を溜め続けたのだ。魂を取り戻すこの戦いに、失敗は出来ない。ありったけの、渾身のそれを――1発を叩きこむ。
「奪われたものを、取り戻す」
かくして、柊の最後の戦いの火ぶたが切って落とされた。
柊はこの1か月の間、鍛錬を積むほかにこのビルの攻略法を考えていた。その規格外の体躯――鉄の塔を相手に、生身の身体でどう立ち回るべきか。
この〈ビル〉、つまり柊の魂を食った異界の者はS区で最も高いビルであり、屋上には展望エリアを擁する駅に近い場所にある複合施設。現在、このビルは異界の者と化している。
この異界は、まるで生命であるかのように傷を修復する。紅など派手な戦い方をするS区崩壊境界線によって破壊された街も、1、2週間もすれば元に戻ってしまう。この〈ビル〉は、柊がやって来る前に破壊され、そして修復された際に、ただのビルではなく異界の者として現れたのだ。
「かえって僕の能力は有利、かもね――!」
柊は〈ビル〉の入り口から放たれた鉄筋の柱をすんでのところで交わしながら、その機を窺っていた。〈ビル〉は、たとえるなら洗濯機のようだ、と柊は思う。
外観こそ変化させることは出来ないようだが、その中身は、稼働中の洗濯機のように中でぐちゃぐちゃに混ざって渦巻いているのを、入り口に空いた穴から覗くことが出来る。柊の後背のビルに突き刺さった鉄筋も、その中身の1つだろう。
〈ビル〉には欠かせない骨組みから、中の施設の道具、事務室の家具調度から排水管を流れる水まで、あらゆる中身を自在に操る異界の者。
「今度は大玉!?粘土みたいだね……!」
〈ビル〉は中身をそのまま射出するだけでなく、柊の言うように粘土のように自在に合成することも出来るらしい――大型のトラックでさえ一たまりもないであろう直径数メートル大の球状塊を、ピッチングマシンかのように放ってきた。着弾するたびに地面を穿つ合成球を避けながら、柊は〈ビル〉と正面から向かい合う位置取りを維持しながら疾駆する。
〈ビル〉は合成球を放ちながら、地上10メートルまでのフロアの窓を一斉に開くと、中から中身で作った小型の傀儡たちを送り出した。どこかの施設にあった配膳ロボットを真似たのか、人型の1メートル弱の傀儡たち。
「全く、手を変え品を変え――!!」
しかし、その傀儡たちを以てしても、柊には届かない。柊は、能力の「一撃」に全てを込めるために、この1か月、逃げることに徹底的にこだわった。
S区の地形は子細に頭に叩き込んでいる。加えて、この
「和さんたちがあんなに動ける理由……ッ!!」
模倣品の身体は、異界の作り出した図形。
異界の者たちのような常軌を逸した動きが、では、S区崩壊境界線たちに出来ない理由はあるだろうか――と。柊が異界にやって来た日に襲い掛かって来た、頭部が細く後ろ脚が膨らんだ見た目のトカゲのような異界の者。夜が相対したあのトカゲを彷彿とさせる速さで、柊は駆ける。
傀儡たちをいなしながら、降り注ぐ合成球や鉄筋の柱を避けながら、柊は狙っていた。このS区の、入り組んだ地形――そして駅の周りの、ビル群。
〈ビル〉のような異界の者と化した建造物は数が少ないらしく、紅をしても驚嘆の例。その〈ビル〉の攻撃が、周囲に及ぼす影響。
――ごぉん!!
「……来た」
ついに、〈ビル〉の攻撃の余波を受け続けたS駅正面のビルが、足元から倒れ始めた。その方向は――〈ビル〉の、正面。
柊は、〈ビル〉が合成した手足を窓から生やして上へ上へと自己増築を行っているのをたまたま目撃したことがある。その時から考えていた、その機。
「あんなビルにさぁ、倒れてこられたら、当然ひとたまりもないよね」
その巨体ゆえに動きが緩慢に見えるが、実際にはものの数十秒でS駅の側へと、異界の者へと倒れこむコンクリートの塔。柊は〈ビル〉が防御に徹し、窓から合成した触手のような手を無数に伸ばして倒れ行くビルを受け止めようとしている隙に、〈ビル〉から遠ざかった。
これが、柊の狙い。
「僕を襲ったトカゲとか、もっと小さい異界の者ならさ、弱点だって分かりやすいかもしれないけど」
異界の者の悲鳴に混ざる、柊の魂の叫び。
待ってて、と内心で呟く柊は、今まさに倒れ行くビルへと、飛び移った。
「君みたいにデカいとさ、どこを狙えばいいかわかんないよね」
〈ビル〉は見えない。
己に倒れて来るビルを止めるのに必死で、その上を駆け上って来る、〈ビル〉からすればあまりに矮小なその姿が。
「でもさ、こうやって君に橋を架けて、上ってさぁ――!!」
〈ビル〉が直撃を嫌って早い段階で合成腕を伸ばしてくれたおかげで、倒れこむビルの屋上まで到達した柊はかなり高度を稼ぐことが出来た。ここでようやく柊を視界に捉えた〈ビル〉は、傀儡や柱、合成球ではなく、合成腕を伸ばして柊を狙ってきた。
「そうだよね、君はそうするしかない」
柊が攻撃を避け、ビルに直撃してしまった場合、〈ビル〉もただではすまない。
だからこそ、直接腕を伸ばして――けれど、これで。
「これで、届くんだよね……君の頭までさ!」
柊は、向かってくる合成腕に飛び移り、模倣品の身体に鞭打って全力で〈ビル〉の腕を駆け上っていく。これなら、〈ビル〉まで近づくことが出来るが、攻撃を受けてしまっては一たまりもない。
そのために、逃げる術を磨き続けたのだ。
「君の攻撃なんか当たらないんだよ――」
今の柊は、紅や和すらも凌駕するほどの速度で、〈ビル〉の腕を駆け上っていた。その速さに追いつくことが出来ず、合成腕を伸ばし続けるも柊を止めることは能わない。
途中で何度も異なる合成腕に飛び移りながら、〈ビル〉を駆け上った柊は、果たして――
「ふふ、君の頭がよく見えるね」
〈ビル〉の自己増築されて屋上の展望エリアからさらに数階層延びた屋上を見下ろす高さで、空中に飛び出した。このままではただ自由落下するだけのこの身体は――
否、その拳には、柊の全力がこもっている。
「どこが弱点か分からないからさ、上から全部壊せば――僕の、勝ちだよね」
無限に引き延ばされた感覚の中、柊は、異界に来て、能力が判明してからの1か月間溜め続けた力を拳に込める。その究極の一点に、全ての想いを乗せて。
〈ビル〉を上から見下ろす位置で、柊は咆哮した。
「いけえええええええええ――ッ!!!!」
〈ビル〉は、見た。
己に降り注ぐあの小さな拳は、ああけれど。
遥か宇宙の彼方から飛来した、それはまるで巨大な彗星のようで。
――直撃、次いで世界を割る轟音。
「ああああああッ!!」
およそ振りぬいた拳の一撃とは思えぬ凄絶な衝撃で以て、〈ビル〉は屋上から1階までを貫かれる。中身をまき散らしながら、倒壊するビルをついに支えきれずその身体で受け止めながら。
己を貫く彗星に、〈ビル〉は――息絶えた。
「はぁ、はぁ――くっ」
〈ビル〉ひとつを葬ってぼろぼろになった模倣品の身体を眺めながら、柊は振り返る。
その先に存在していたはずの異界の者は、今や跡形もなく――
「……ははっ。これが、爽快ってやつか」
奪われた魂を取り戻した柊は、ここに、異界から帰還したのだった。
※※※
その規格外の一撃は、紅だけでなく、またS区崩壊境界線だけでなく、あらゆる異界の手練れたちを驚愕させた。
それから1週間後には元通りの街並みを再現して見せ、そして奇しくも同じ場所で夜と和を迎え撃つ泥の塊が再び姿を現して。
まるで、柊の一撃が何事もなかったかのようなふるまいを見せる、異界だが。
異界そのもの、さえも――
※※※
喉が枯れるまで叫んだ千葉夜は、気が付くとS駅の改札前に立っていた。
「……ああ」
和沙を想うあまり、やって来てしまったのだと気が付いて、けれど真昼のS区は活気にあふれ、異界の気配など一切なく。ただ立ち尽くす千葉夜だけが、置いて行かれていた。
和沙を信じたいし、信じているけれど、和沙は相棒のシャベルを失ってしまったし、和沙の相手は。
「知ってて、黙ってたんだ」
やるせない想いに、千葉夜は膝から崩れ落ちる。
ぎょっとした表情を浮かべた通行人たち。中には心配して駆け寄ってきてくれる人たちもいて、けれどその声に何も返せなくて――「夜、さん?」
目が、合って。
「……ぁ」
見覚えのある、黄色、白、紫、黒の横縞模様の入った長方形の旗のようなイヤリングを目にして、ああ、あの日とは服装は違うけれど、この人は、この声は。
「――柊、さん?」
異界を割った者と、異界に青空を呼んだ者は、現実で静かに再会を果たした。
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S区崩壊境界線 音愛トオル @ayf0114
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