巨躯
――数時間前、泥の塊に破壊されたカフェの店内。
和の治療に拾ったぶん以外にはほとんど残っていないが、会敵したあの瞬間に捉えたある違和感が、わずかに残った欠片を吟味することでさらに強まっていった。覚えず、胸を撫でる。
「これは……確かめる必要があるね」
握りつぶした泥の欠片が、ぐにゃりとその奇怪な色彩を曲げて、嗤った気がした。
※※※
紅の長い異界での日々の中で最も巨大な異界の者の体躯を遥かに上回る、その威容。S区のビルの間に佇む小山のような巨体はけれど、紅の目には脅威には見えなかった。
図体の大きいだけで、紅が相手にしてきた異界の者ほどの俊敏さはないだろうし、紅の実力なら倒すことも可能だろう。実際、半分はそのつもりで〈巨躯の化け物〉の元までやって来た。
「探す手間が省けるのはありがたいことだが。出来れば、あたしの妄想であってほしかったね」
溜息と共に飴を嚙み砕いた紅は残った棒を指で遊んでから耳の後ろにひっかける。例によってここまでの道中に拾っていたコンクリート塊を片腕に抱き、鋭利に目を細めた。
見据える先の異様は紅の放つ気配に鎌首をゆっくり、ゆっくりともたげて、異界の闇に影を作る。その下、紅が立つ場所をめがけて――
「……ッ!?」
意識するよりも先に、身体が動いた。
紅がほんの一瞬前までいた地面が、鋭利な泥の槍に貫かれている。地面を突き破り、その衝撃で周囲数メートルを吹き飛ばしたその攻撃は、紅ですら見えなかった。
「――はッ、遅せぇのは図体だけってか」
〈巨躯の化け物〉は間髪入れずに2発、3発と槍を放つ。その全てを神がかった直感で回避しながら、紅は槍の形状を観察した。
カフェに現れた泥の塊と根っこは同じだろうが、その強度が明らかに異なる。和のシャベルでは「トカゲのしっぽ」をするまでもなく弾かれるだろうと目算する。
「和の素のシャベルなら、な――ッてことはよ」
紅はジャケットを翻し、今しも槍を放とうとしているであろう〈巨躯の化け物〉めがけて、抱えたコンクリート塊を投擲した。〈巨躯の化け物〉の攻撃にこそ及ばないものの、「投擲した」という事実を認識した時には既に、
――くんッ……!
「まあ、そうなるよな」
既に、〈巨躯の化け物〉を直撃している。「トカゲのしっぽ」をする時間すらなく、文字通りの
ものの数秒で、コンクリート塊に貫かれて出来た風穴がふさがってしまった。
「だが、聞きたい声は聴けた」
紅の攻撃をもろに食らった〈巨躯の化け物〉は、夜であれば名状しがたい奇怪な悲鳴、と捉えるであろう例の声をまき散らした。だが、紅には。
そして和や、柊にさえ、それは別の声に聞こえている。
「そこにいるんだな、夜」
夜が異界で既に幾度も聞いた、異界の者の声。それは決して意味を持ち得ない音の豪雨だと、異界に来たばかりの者は思う。
だが、それは違う。
あれは――魂の叫びだ。
集中して聞けば、その声は人の声を象る。そして、この〈巨躯の化け物〉は。
「だが、妙だな。カフェで聞いた時は夜の魂を食らったヤツがお前か、確かめたかったんだが――夜の声しか聞こえない」
紅が〈巨躯の化け物〉を追ってきたのは、その残滓から夜の声を聞いたからだ。もっとも、紅でやっと聞き取れるくらいの小さな声、和にすら届いていなかっただろう。
だから、夜が戦わなければならない相手の強大さに、紅は歯噛みしたのだが。通常、異界の者は魂の声と、異界の者自身の声とを同時に発する。だからこその、あの異音だ。
耳を研ぎ澄ませば、異音の中の人の声を聞くことが出来るが――人の声だけ、というのは。
「……さすがに、そいつは冗談じゃきかないぞ」
簡単に押しつぶせると思った相手から貰った攻撃にしばし、様子を窺っていた〈巨躯の化け物〉は再び身構えた。だが今度は、槍を放つのではないようだ。
槍が砕いたおかげでコンクリート塊はいくらでも転がっていたから、手近なものを拾う。その視線の先で、質量の暴力を存分に活かした〈巨躯の化け物〉が、ぼとりぼとりと、何かを地面に落としているのが映る。
「確かめる――そうだろ?」
紅はコンクリート塊を抱えている方の腕をそっと撫でると、口角を釣り上げて〈巨躯の化け物〉を睨む。ああ、昔もこうしていたっけ。
今はもう隣に居ない誰かを想いながら、紅は異界の夜に包まれたS区を駆ける。
相対するは、〈巨躯の化け物〉が生み出した泥の傀儡たち。数で押し切ろうという魂胆らしい。傀儡たちは狼のような姿、人間のような姿、車やバイクのような姿、あるいは槍や純粋な泥の塊を射出するためだけの固定砲台の姿をしていた。
「雑兵をいくら増やした所で無駄無駄――!」
紅は手にしたコンクリート塊を鈍器のように振り回しながら、時に遠心力を利用した蹴りやコンクリート塊の投擲で傀儡を蹴散らしていく。その一騎当千の様を見てか、例の槍を放つ〈巨躯の化け物〉だったが、
「無駄だって言ってんのよッ!」
引き抜いた槍を正面から投げて、紅は槍の一撃を相殺した。
来る、と分かっていなければ到底出来ない芸当――否、分かっていても紅以外には、決して出来なないだろう。それを容易くやって見せた紅は、すぐさまその場を離脱し、まっすぐ、〈巨躯の化け物〉の足もとへと走っていく。
続々と生み出される雑兵たちをなぎ倒しながら、あっという間に距離を詰めた紅の、狙い。
「コイツならよ、お前なんざ一瞬で塵に出来るよな!」
戦いの最中、半ばから折れて地面に横たわる、S区の駅につながる連絡橋の残骸。カフェの泥の塊を倒したコンクリートの柱の数十倍はあろうかという、その無機の骸。
紅は再び槍の相殺を、けれど今度は2度続けてやってみせ、〈巨躯の化け物〉がひるむ隙を作った。そして、触れる。
紅の片腕、その指先が、骸へ。
「約束ってのはよ、異界の化け物。守るために、あるんだぜ。なあ、――」
最後の呼びかけを、口の中だけで済ませた紅は、あろうことか、そのコンクリートの骸を片腕だけで持ち上げると、〈巨躯の化け物〉を真っすぐにとらえて、不敵に歯を剝いた。
そして、呼びかけに祈りを込めて、放つ。
『紅!貴女、また無茶をして……!貴女の能力は戦闘向けじゃないんだから、戦う時は私と一緒って言ってるのにっ』
『分かってるよ、――。でも、あたしは倒さなきゃならないんだよ、だから』
「――ありがとう」
紅は、己のモノではない腕に、そっと口づける。
大質量の骸は〈巨躯の化け物〉と衝突し、凄まじい轟音を異界の街に響かせた。さしもの〈巨躯の化け物〉でさえ耐えられずに上体のほとんどが欠損し、その重量ゆえに高さを稼がないまま街の中へ沈んだ骸の後を追って、泥の雨を降らせる。
もはや再生すら叶わないほどに泥の身体を失った〈巨躯の化け物〉は、最後まで、夜の声だけで悲鳴を上げながら、事切れる瞬間を迎えた。
「……さて、じゃあ、お前が居たせいで行けなかった場所に行って、確かめるとするかね」
魂を食った異界の者から、人間の声しか聞こえない場合など、紅は知らない。だが、泥の塊のようにそれが分裂した一部だったから、本体の――異界の者の声が聞こえなかったのだとしたら。
〈巨躯の化け物〉でさえ、分裂した一部に過ぎないと、したら?
「この異界に、お前よりもでかいヤツなんてそうそういないさ。もしいるとしたら、それこそ――」
紅は〈巨躯の化け物〉が塞いでいたその先、夜がやって来る前、〈巨躯の化け物〉が現れる前には問題なく行き来出来ていたS区の駅舎へと向かう。十数時間前に、紅が通ったばかりのそこへ。
そう、もし、そんな巨体がいるとしたら。
「異界そのもの、くらいしか、考えられないよな」
紅は泥の塊と同じ色彩の壁で一面を閉ざされた、S区の駅構内に立って、笑った。
「まさか、いつの間にかあたしらは異界の者の腹の中にいたなんてな」
――S区そのものを食らった、それからは、確かに異界の者の声と夜の魂の声が、聞こえてきたのだった。
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