再懐

 ナゴミに案内された場所はあのカフェやヒイラギと話したビルと違って、非常に入り組んだ経路の先にあった。そこにあると知らなければたどり着けないであろう場所。

 S区にある、そこは楽器店だった。


「実は、このシャベルもここで見つけたんだ」


 そう語る和は寝室兼居間として整理されたスタッフルームのソファの背をそっと撫でていた。無骨な壁紙や奥にひとまとめにされてある道具類を見ると、現実世界のこの場所は事務仕事に当てられた部屋らしい。

 そこにベッドやら家具やら服やらを持ってきているようで、


「なんか、秘密基地みたい」

「勝手に使わせてもらっていて少し、申し訳なかった――のは、最初だけだったよ。今は、ヨルが言う通り隠れ家みたいで気に入ってる」


 和の「一番安全な拠点」に着いた後、夜はどっと疲れてしまった。異界に来て早々の邂逅を果たしたあの巨躯の化け物。恐怖と疲労で気を失ってすぐ泥の塊と遭遇し、逃げて、その先でトカゲと戦って。

 今度は何も起きてくれるなよ、と夜は目を閉じた。


「――寝る?」

「ううん。今日のことを、思い出していただけ。それに寝たら和の伝えたいこと、聞けないでしょ」


 夜は和が自分の隣に腰かけて来る気配を感じた。柊よりも、近い距離。

 肩が触れない、ぎりぎりの距離。それが何故か、嫌じゃなくて。

 異界で出会った同い年の、助けてもらったから、吊り橋効果で――泡沫のように浮かんでは消えてゆく言葉のどれも、正しくないように思えた。


「ありがとう。あー、話、だったね。ええと……ああもう、ねえ夜」


 神妙な面持ちで話を始めようとした和だったが、言葉に詰まってしまったようだ。もどかしそうに頬を掻くと、座ったばかりのソファを勢いよく立ち上がって、夜にスタッフルームの外を指さした。

 ここなら休めるから、と招いたのは和だったが、


「ごめん、やっぱり向こうで話してもいい?」


 夜は唇に指を当てて「んー」考えるふりをしてから、右手を和に差し出した。困惑する和に、夜は片目を瞑る。

 颯爽と現れて助けてくれるかっこいい姿ばかり見ていたから、年相応な表情を見られて嬉しくて、だから。


「じゃあ、連れてって?」

「えっ、て、手を引いて、ってこと?」

「うん。私、また逃げちゃうかもよ?」

「……はあ、分かったよ。ほら、行くよ、お姫様」


 もっと色んな顔が見たくて、夜は和に手のひらを見せて笑ったのだ。

 和は水の上を歩くような流麗さで夜へ近づき、そっとその手を取るとスタッフルームを後にした。


(私には、和の方がお姫様に見えるけどな)


 後ろから見る和。

 夜よりも少しだけ背が高くて、綺麗で長い髪が揺れるのがよく見えて、左右の紅と藍が素敵で、手の熱が心地よくて、声が、好きで。

 ああ、きっと照れてるだろう顔を、後ろからだと見れないな、なんて。


「ここ、かな」


 和はドラムセットの展示ブースまでやって来ると、ゆっくりと、と夜の手を離した。「ありがとう」と微笑みかけ、夜は腰の後ろで手を組んで和の言葉を待つ。

 和は襟足を掻いて、ちら、とドラムセットを見やって、それから、夜の目を真っすぐ見つめる。巨躯の化け物から助けてもらった時も、カフェでの戦いの時も、トカゲの時も。そういえば、和とこうやって向き合ったことはなかったかも、と。

 その吸い込まれそうになる真っすぐな眼差しに、夜は胸が苦しくなって。


「わたしは、夜。君に、救われたんだよ」


 うるさく足早に胸を叩く心臓を意識していた夜は、和の予想外の言葉に思わず、「助けられたのは私の方だよ」と、言ってしまいそうになった。けれど、それは。

 冗談でこんなことを言うはずない和の言葉を否定してしまうそれは、口に出してはいけないと慌てて息を整える。


「あの時、君が言ってくれた言葉が――」


模倣品コピーなんかじゃ、ない。私にとってはだから――私の腕の中にいる和だけが、和なんだ』


「模倣品じゃないって、言ってくれたあの言葉が、名前も、大切な記憶も、全部失くして暗がりを彷徨っていたわたしを、連れ出してくれたんだよ」

「――!」


 本心から出た夜の真っすぐな言葉が、和には重く、熱く、響いていた。そうと聞かされた夜は想像する。自分に記憶が、名前が、「崩壊」が進んで――全てなくなってしまったら。

 何を縁に、戦えばいいのだろう。

 和は、どんな気持ちで――


「わたしは、紅と助けが必要そうなに手を貸しているんだ。中には、ここに来てすぐ暴力的になったり、説明も聞かずにどこかに消えてしまうような人もいるんだけど、ほとんどは必死になって頼ってくれてさ」

「もしかして、私をすぐに助けてくれたのは、偶然じゃなくて……?」

「うん、紅に頼まれてね。新しい魂がこっちに来たから、って。見に来た時に見つけたんだ」


 紅がどのような原理でそれを知ったのかまでは、夜は聞けなかった。


「――わたしがよっぽど冷たく見えるのかな。結構な人がね、無茶を言ってくるんだ。そんなに強いんだからここから出せ、とか、親切にして襲うつもりだろとか」


 和は俯き、紅の言葉をつづけた。

 こんな場所に突然連れてこられて、パニックにならない人間などいない。、和が子どもであるからと信頼しない者もいるだろう、と。

 ただ全員が全員そうではなくて、最初に無茶を言ってきた者も、時間が経てば和に謝り、礼も言ってくれる。だが。


「わたしが既に崩壊してるって伝えた後も態度を変えずに接してくれる人は少なくてさ」


 そうしてやがて能力を鍛え、魂を取り返し、現実へと戻る。 

 異界にやって来る者の数はそう多くないものの、和や紅のようにすべてを失くした後も残り続けている者もまた少ない。現実へ戻るか、あるいは。


「だから、夜が模倣品じゃないって言ってくれて――って、言ってくれて。わたしは、本当に……」


 一歩、夜に近寄った和は夜の右手を両手でそっと包むと、少し屈んで自らの額にその手をそっと押し当てた。祈るように、願うように、和は視界の裏で夜を感じながら、静かに触れ続けた。

 2人の熱が溶けて混ざったころ、ゆっくりと手を離した和は、ふにゃりと口角を緩めて。


「本当に、救われたんだよ」


『※×▲!ありがとう!』


(……え?何、今の――記憶?)


 和の告白を聞いた刹那、夜の脳裏に響いた声。懐かしくて、愛おしくて、大切な、気がする声。

 その声が、


「改めて、ありがとう、夜」


『また一緒に遊ぼう!』


 次第に和の声と、


「えっと、こ、これが……伝えたかった、ことなんだけど」


『ふふ、※は▲はやっぱり可愛いね』


 輪郭を重ねていって、


「あの……どう、かな。いや、どうかなって言うか、その」


『ちは▲もそう思ってくれるの?えへへ、嬉しい』


 そして、和の、その照れくさそうに頬かく仕草が。


「……夜?」

?」


 記憶の中の声と、重なって。


「……ぁ」


 ああ、どうして忘れていたんだろう。

 あんなに好きだった。初恋だった。ずっと想っていたのに。

 こんな場所に来るまで、忘れていたなんて。



 夜は、胸の中で、そう呟いて。



※※※ 



 日が傾き始めた公園。ブランコ。2人の笑い声。

 穏やかな日々。跳ねる心。その名前。

 めての、



※※※



 夜は和の首に腕を回し、今にも嗚咽を上げてしまいそうな喉を必死にきつく絞って、息を嚙み潰した。動揺を悟られないようにそっとハグをする。

 和の裏返って跳ねた声はけれど温かさに満ちていて。それが、記憶の中の姿と重なって。


「ねえ、和。気持ちを伝えてくれてありがとう」

「う、うん。あ、あの……夜?なんで、抱きしめて」

「驚かないで、聞いてね」

「――夜?」


 夜は和の顔を見たら話せないと確信していた。だから、抱きしめたまま、耳元でそっと、囁く。

 それが夜にどれほどの衝撃をもたらすかを、知っていながら。


「私、現実世界の和と昔、仲良かったの……ごめん。今、思い出したんだ。ううん、和の声で、気づいたんだ」

「――え」


 ああ、ずるいな、私は。


「ねえ、夜。聞かせて。わたしと、どんな関係だったのか」


 夜の耳にそう囁いた和は、自分の肩に回された腕を丁寧にほどきながら、夜と向き合った。その目は、夜が思ったよりも揺れていないように見えた、けれど。

 夜は気づいていた。腕に触れた和の指の、その震えを。


「……和、とは」


 夜は一文字目を口で象り、続けて2、3、4文字目を続けた。

 2人の間でその言葉はそっと落ちて、溶けて、意味を持って。


「ふふ、ははっ」


 夜の返事を聞いた和は声を上げて笑うと、晴れやかな表情を浮かべた。夜に言葉を返すでもなく、ドラムセットの1つに近寄った和は、スネアドラムの上に横たわっていたスティックを手に持つと、じゃりん、とシンバルを叩いた。

 音に驚いて肩を跳ねさせた夜は、和の突然の行動に、言うべきではなかったか、と後悔の念が胸に押し寄せてくるのが分かった。


「――夜!!」


 だが、それは杞憂だった。


「ありがとう、夜!」


 右手でスティックを回し、左手のスティックにかつ、かつ、かつとぶつけた和は、腹の底に響くバスドラムのキックに負けない声で続けた。


「わたしを連れ出してくれただけじゃなくてさっ」


 流れるように刻むスネアのリズムに、シンバルが割り込んで、ハイハットの上をタップダンスするスティック。揺れる長髪は楽し気に、タムを転がるスティックに追随して踊る。

 

「わたしが忘れても、わたしのこと、覚えててくれた……!」


 走るリズム、でたらめなビート。

 響く、まっすぐな想い。


「わたっ、わたし……!」


 かぁん、とスネアの縁を叩き、スティックを置いた和は、夜を振り返る。


「……わたし、んだね、ちゃんと」

「和――うん。ここに、いるよ。私の中にも、ずっと」


 己の魂を奪われ、本当の名を、記憶をなくす「崩壊」で失っても、ここに、自分を覚えて居てくれる人が、いたのだと。

 和の感情の発露を見つめていた夜は、もう一度深く抱擁を交わしてから、その手を取って展示ブースの隙間へと躍り出た。


「会えたんだ、私、和に!」

「わたしも!夜を見つけられたっ」


 ビートを刻んでいたドラムよりもずっとずっとでたらめなステップで、2人は手を取り合って踊った。言葉だけでは交わしきれない熱が、想いが、交わった靴の音の数だけ互いへと伝わっていく。



 誰もいないS区の楽器店。

 踊りつかれて床に倒れこむまで、想いを交わし続けた2人のその笑みを、誰が模倣品と言えるだろうか――



※※※



 大切な日々があって、大好きな人がいて、その気持ちを教えてくれて。

 なのに、どうして――どうして、私は。


 もう、


 この、崩壊してゆく異界で。

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