再会
「ありがとうございます、柊さん。その――無事を祈っています」
「こちらこそ、話せてよかったよ。
そのまま柊の元を去ろうとした夜だったが、ぱっと柊の手を掴んで、握手を交わした。視線が交差し、お互い、頷く。
今度こそ夜は例のビルを背に、ゆっくりと歩き出した。
(異界は酷い。現実だって辛い。でも――いや、だからこそ)
奪われてなるものか、と。
異界の悪辣に揺さぶられ、どこでもないここからどうしようもなく逃げ出したくなっていた夜の足取りは、次第に軽やかになっていく。跳ねて、走って、駆けて、来た道を引き返す、その異界の重みをもろともせずに。
会いたい、そう思った。
「和……!」
どこか晴れやかな顔で、そう笑った夜はしかし、まだこの異界を、あまりにも知らない。
――ズドォン!
「ひっ!?」
今しもまさに通り過ぎようとしていた飲食店の壁が、破壊された。瓦礫がまるで塵のように道路へと飛んでいき、異界の夜闇の中を土煙が重たくもうもうと立ち上る。
怨嗟を引きずるような奇妙なまでに甲高い音を響かせる足取りが、煙の中からゆっくり、ゆっくりと這い出てきた。地面を掴んで、その輪郭を露わにしたのは、
「異界の者……でも、泥の塊、じゃない」
五線譜の上から画鋲の入った瓶をぶちまけ、画鋲の着地点に対応するピアノの鍵盤を叩きつけたような、耳障りな咆哮と共に、それは現れた。全長は3メートルはあろうかという体躯、その半分以上が、鋭い鱗で覆われた尻尾。
鋭利な前脚をコンクリートの地面に食い込ませ、前脚の数倍はずっしりと太い後ろ脚で瓦礫を掻き分けるその姿。爬虫類の頭部から後ろ足のある臀部にかけてのクレッシェンドを描く体型は、跳躍するあの有袋類にも見える。
全身を泥の塊と同じ奇妙な色彩の鱗で
「トカゲ、でいいの……かな」
使えるかもわからない能力――あの折り畳み傘をお守りのように抱きしめて、夜は一歩、二歩と音を立てずに後ずさった。衝動のまま駆けだしてしまったから、柊に助けを求めに行くまでにきっとあのトカゲに追いつかれてしまう。
かといって、逃げ出さなければ――
「……いや、だからこそ」
夜は三歩目は、引かなかった。
代わりに体勢を低く保ち、出来るだけトカゲから目を離さずに出方を窺う。泥の塊と相対した時、その動きを追うことは出来た。和や紅の方が圧倒的に早かったくらいだ。
見るからに鈍重なあの脚じゃあ、素早く動くことなんて――衝撃。
衝撃、衝撃、熱、熱、熱、衝撃。
「……あッ!!」
何が起きたか、理解が及ばなかった。
だが、次第に全身を覆う熱に痛みが追随してきて、ついさっきまで立っていた己が地面に倒れ伏していることが分かって。それで、ああ、蹴られたんだと理解した。
(全く見えなかった……!?)
トカゲは何食わぬ顔で顔をきょろきょろと動かしている。その気になれば、もう1秒もあれば夜は。
胸に抱えていた折り畳み傘は無事だが、あの蒼い光をもう一度出来るかは分からない。なにより、蹴られて、障害物のない長い道路を吹っ飛んで転がった後、全身を襲う傷の痛みですぐには立ち上がれない。
しかし、不思議だった。建物の壁を蹴破るほどの脚力で蹴られて、己が形を保っていることが。
「あ……光ってる」
見ると、傘ではなく自分の身体が薄蒼く発光している。
この光が、「護る」光だとすれば。あの時泥の槍を防いだのも、傘を媒介して光が護ってくれたのだとしたら。今、夜は恐らく本能で自分を光で護ったのだろう。
だから、傷も地面を転がったせいでついたもの程度で済んでいる。
「はは。護る能力って。攻撃に使えないじゃん」
眉間にしわを寄せてみたり、お腹に力を入れてみたり、手を開いて閉じてを繰り返してみたりしたが、光は既に消え、再び灯ることはなかった。折り畳み傘を開いて念じてみても結果は同じ。
その間トカゲはその場でこちらを凝視するのみで、攻撃や移動の素振りは見せない。
(舐められてる)
そうと分かって夜の心に湧き上がって来たのは、理解だった。和や紅の人間離れした動きは、能力によるものだとばかり思っていた。だが、違う。いや、それもあるだろう。だが。
異界の者と渡り合ってきた、それは証左だ。
紅は「S区崩壊境界線」の命名者と言うし、その紅と親しく、既に記憶を失くしてしまっているという和もまた、経験が長いだろう。その間、こうして模倣品の身体すら奪われることなく生き続けている、その、彼女たちの強さ。
「……はは」
どうやっても、ああ、勝てない――
そう思った、刹那。夜の聴覚は2つの音を捉えた。
ひとつ、迫りくる衝撃。
ひとつ、振りぬかれた裂帛。
「――ああッ!!」
でたらめな画鋲の鍵盤がまたしても奇怪な音で叫んでいる。
それは攻撃のための
――風にたなびく、純黒。
「よく、無事だったね、夜」
「な、和……どうして」
「――謝りたくて。わたしたちの身体が図形的、っていうのは紅さんの表現だけど、ああなの、もう少し夜が整理できてからにしようと、思っていたから。だから。困惑させて、ごめん」
皮肉にも、トカゲは血――なのか、あの泥と同じ色彩の何かを切断面から噴出させている。身体を、鱗を震わせながら切られた後ろ足をかばうようにじりじりと後退している。
夜は和に手を貸してもらって立ち上がり、その様を眺めた。傷の具合に差こそあるが、さっきの構図と正反対だ。
「急いで来たんだよ、夜。ここは――ああいうのが居て危ないから。わたしたちは拠点をいくつも持って、出来るだけ安全な場所を行き来してるんだ」
言いながら和は夜をかばうようにトカゲと正対し、シャベルを構える。ホームラン宣言をするバッターのように、先端をトカゲに向けて、蹴ってみろ、とでも言うように。
あのトカゲの速さにどう反応しているのかは分からないが、和ならきっと。否、絶対に、このトカゲを倒してくれる、と思った。泥の塊相手には不利でも、こいつなら。
「……ああ、なるほど。アイツ、そういえば前も新参者を襲ってた。その音を聞きつけた紅とわたしで返り討ちにしたの、もしかして覚えてるのか」
夜はそれがきっと返り討ちというよりもほとんど一方的に紅たちがトカゲを圧倒したのだろうと、苦笑した。
新参者、ひょっとして柊だろうか。
「今ここで倒――ああ、また逃げて行った。まあ、今は、夜の方が大事かな」
「えっ」
「夜。君に、伝えたいことがあるんだ」
スコップについた色彩を払い、背中のホルダーに仕舞った和は、夜を振り返って口角を緩めた。その表情に、夜は胸の奥がうずくのを感じる。
なぜだろう、何か、どこか、引っかかる。
「とりあえず、わたしの一番安全な拠点まで一緒に来てほしい、んだけど……」
颯爽と現れて、「伝えたいことがある」と告げた割に、最後が尻すぼみになる和に夜は胸に薄膜を張っていた違和感を忘れて脱力した。まだ出会って数時間の彼女、知らない顔が沢山あって、ああ、
「ふふ、和。さっき、言った通りだよ。私も、貴女と一緒に戦う。だから、どこへだってついていくよ」
そう言って、不安げに自らの頬の横をうろうろしていた和の手をそっと握って、ああ。
その和の手の熱に、夜は。
なんだか、懐かしくなって。
「――あれ?」
けれどそれは、トカゲの起こした土煙の全てが去るよりも前に、どこかへ消えてしまった。
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