逃避

 ナゴミから、「模倣品コピー」と言われた時は驚いた。けれど、自分と、和と、一緒に戦って、魂を取り戻そうと、自分でも驚くほどあっさりと言葉が出てきて、それをよすがに落ち着きを取り戻して。

 結局、泥の塊のせいですぐには言えなかったけれど、ちゃんと伝えられて。だからもっと仲良くなって、話をして、それで、一緒に戦っていければいいなって思った。


「はっ、はっ、くっ……なんでっ」


 それなのに、ヨルは走った。カフェから、和から――この異界から、遠ざかりたくて。

 頭では分かっている、という時のの正体を考えてしまう。異界の悪辣さに、ああ、だからクレナイはあんなに表情を歪めていたんだ。決して「治療」を言い換えなかったのは、抵抗なんだ。

 今さらそう気づいても、もう夜は止まれなかった。


「……はは」


 めちゃくちゃに走って来て、脇腹が痛んで、その痛みすら疑いかけて、疲れ果ててやめた。見上げた先、S区の入り組んだ急勾配の坂道が見えて、夜は遠ざかりたいのに、逃げたいのに、その坂を走ってまで上る気力が、湧かなかった。

 それでも引き返したくなくて。転がるように駆けて来た、でも一度も曲がっていないからカフェまでは簡単に戻れる。いや、だからこそ、引き返したくなかった、だろうか。


「私、何がしたいんだろ」


――すとん、と。


「えっ」


 膝に手をついて、肩で息をしながらそう零した夜の、ちょうど目の前に、急に何者かが現れた。一瞬、異界の者かと警戒したが、見るからに人間で――つまり、いやたぶん、同じS区崩壊境界線の人で。

 そうと分かると夜は前にも後ろにも、動けなくなってしまった。


「あれ、君、見ない顔だ」


 その人は、何事もなかったかのように夜を振り向くと、目を丸くしていた。

 上から黄色、白、紫、黒の横縞模様の入った長方形の旗のようなイヤリングを左右に着け、闇に溶ける黒いパーカーにショートパンツを履いた人物。怪しさは感じなかったし、いやむしろ――

 夜はちらり、とイヤリングを見つめ、それから1度深く頷いた。


「はい、私、ほんとに数時間前に異界に来たばかりで。他のS区崩壊境界線の人にも、まだあんまり会ってなくて」


 そういえば和や紅のように友好的な人ばかりではなく、新入りに敵対的な人もいるかもしれないな、と言ってから気づいた。後悔と共に、恐る恐る様子を窺った夜は、その人が浮かべた柔らかい笑みに安堵した。

 その人は一度イヤリングを撫でてから、


「そっか、親切な人に出会ったんだね――もしかして、紅さんと和さんとか」

「えっ、そうです。有名なんですか?」

「いや、まあ多分有名、なのかな。僕も他の崩壊境界線の人のことは良く知らないから。僕も1か月前にここに来た時、あの人たちに助けてもらってさ――ヒイラギって呼んで」

「あっ、はい。えと、私のことは、夜、と」


 柊は軽く埃を払うと、「さっきは驚かせてごめん」と謝って来た。


「ちょっとトレーニングをしててさ。ほら、上見える?あのビルからちょうどここに着地したんだ」

「あー……なるほどです」


 「あー」と「なるほど」の間に、夜は和と紅の戦いを思い出していた。紅の超人的な怪力、結局説明されなかったが突如現れた謎の植物の蔦。それから和のあの身体能力。

 夜がまだ教えられていないだけで、異界のS区崩壊境界線の人々は、何かの特殊能力を使えるのか――夜の、あの蒼い光も関係しているだろうか。カフェで手にしていたまま捨てることも出来ずに持ってきている折り畳み傘も、役に立ってくれたらいいのだが、と。


「ん?その様子だと能力については聞いていないのかな」

「えっ、と。はい、そうです。紅さんのあの怪力とかは、見ましたけど」

「あはは、そっか。最初は戸惑うよね。うん、よし、同志のよしみってことで、ちょっと話していかない?」


 柊は、今しがた飛び降りて来た、というビルを指さしながら人懐っこい表情で破顔した。



※※※



 案内されたのはビルの一階、エントランスロビー中央の柔らかいソファ。


「ここのソファの座り心地が良くてさ」


 とのことらしい。なるほど確かに、走りつかれた足腰に優しくリラックスできる座り心地だ、と夜は頬を緩める。不思議な雰囲気の人だな、と思った。

 柊は1人分離れて腰かけ、座面に両手をついて天井を見上げた。


「能力の話だよね」

「は、はい」

「紅さんは植物を操る能力。あれで身体に植物を巻き付けて筋力を強化してるんだって。それで車とか持ち上げてるの見たら、ちょっと意味わかんないけどね」


 意味分からないと言えば、夜はが分からないのだが、と視線で訴えてみると、柊も気づいたようで、


「ああ、ごめんごめん。なんか話した気になってた。えーと、S区崩壊境界線、この異界に来た人はね、特殊能力を一つ使えるんだ。洋画とかアニメの世界みたいでしょ」

「――私、この傘を開くと蒼い光が出て、それで異界の者の攻撃を防いだのを見ました。私の能力、なんでしょうか」

「ええ、すごい!きっとそうだよ!能力は慣れないと自由には使えないんだけど、でも」


 そこで言葉を切った柊は、一転、重たい表情をその横顔に浮かべた。天井に手を伸ばし、噛みしめるように言葉を紡いだ。

 この重みは、和が目蓋を閉じた時に感じたものと、似ている。


「でも、能力が使えないと、さ。僕たちの魂を奪っていった異界の者には勝てない」

「――魂を、本当の名前を取り戻さないと、帰れないから。勝たないと、帰れない、から」

「うん」


 柊は開いた手を何かを握りつぶすように一息に閉じ、深く、深く息を吐いた。ぱっ、と表情を明るくしてから、夜を振り向く。

 半歩分だけ、距離を詰めて、少し照れたような頬の赤に、目じりをほんの少し濡らして。


「異界に来てしばらくさ、僕、どうしようもなくなっちゃって。だって、こんな所、早く抜け出したいって思うのに――現実世界はさ、相応にキツイじゃん」


 イヤリングが、揺れる。


「それに模倣品とか、図形的ふるまいとか、この異界は本当に性格が悪くて、正直かなりこたえたんだよ」


 同じだ、と思った。

 和が、紅が、最初に出会った人たちが強い人たちだったから気づけなかっただけで、夜のように感じる人もまた、いるのだ。それが夜は、どうしてかとても心強かった。


「――でも。向こうで僕は、生きたいから。現実に抵抗して、きつくても生きて。それが僕の生だから」


 まっすぐと、夜の目を見つめて語る柊の声は震えていたが、その双眸には確かな光が宿っていた。夜闇を照らし射貫く光が、夜は心強かった。

 そうだ――この悪辣な世界のいいなりになんて、なりたくない。


「柊さんは、戦うんですよね。魂を盗った相手と」

「うん。トレーニングも、そのためにしてる。万全の準備をして、挑むつもり。それでね、実は――そろそろ、戦いに行こうと思ってたんだ」

「えっ、そうなんですか」


 柊はこくりと頷くと、再び天井を見上げる。


「正直ちょっと怖いけど。でも、盗られたままじゃ、納得できないから。まだ、名前、覚えているんだ。でももう少しで忘れそうな予感がある――その前に」


 柊は立ち上がると、夜に手を差し伸べて来た。ほんの数十分前、S区の坂を――異界を、前にして立ち尽くしていた夜には、その手が先へ進むための導きに思えた。

 1か月、と柊は言った。

 その間に考えて、悩んで、立ち止まって、そうして柊が出した、答え。


「その前に、僕は戦うんだ」


 握り返した手は、夜の道行を灯す光を感じさせる熱を孕んでいた。

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