図形

 抱きかかえたナゴミの髪の紅と藍が、自分の腕に垂れる。

 この色彩も、和のあの表情も、声も、全部――


模倣品コピーなんかじゃ、ない」

「……え?」

「少なくとも、私はまだ、和の魂を奪った化け物を知らない。現実の和を知らない。私は、私にとってはだから――」


――ひゅおん、と風切り音がカフェを裂く。


 1本では足りないなら、と、泥の塊が放った槍触手。


「私の腕の中にいる和だけが、和なんだ」

「――っ、ヨル


 夜は散乱したカフェの中に落ちていた折り畳み傘を拾って、それを展開する。

 飛来する槍触手に対してはまるで意味のない行為に思えたそれだったが、


「泥程度で、私は損なわれないんだよ」


 槍触手が傘に触れる瞬間、煌々と蒼に輝く光が傘を、2人を包み込んだ。それとほとんど同時に、泥の塊からあの不協和音が響き、がきぃん、と甲高い音と共に次々と槍触手が弾かれるのが視界に映る。

 否、弾かれるだけではない。傘に触れた触手は次々と、破裂している。和の攻撃を避けた「トカゲのしっぽ」では明らかにない、その霧散。


「――夜、君は」

「和。私も、貴女と一緒に戦うよ」

「え……?」


 夜は相合傘の中で、そっと和に微笑んだ。

 蒼い光を背負った夜の笑みは、良く晴れた空の下で交わされたもののように、和には思えて。


「さっき言おうとしたこと、今言う」


 和が、既に全ての記憶を失っていると知った夜が、和にかけようとした言葉。


『私、』


「自分の魂だけじゃなくて、和の魂も一緒に取り戻したい」

「……よ、る」


 泥の塊に邪魔をされたが、夜は自分でも不思議に思うくらいに、「そうしたい」と強く思ったのだ。最初こそ、早く家に帰りたい、と異界の理不尽にパニックになるばかりだったけれど。

 和に出会ってまだ、数時間も経っていない。なのに、彼女の見せるその微笑に、心がざわつくから。


「だからアイツは私に任せてよ。なんか今、すっごい力感じるし――それと今更だけど。なんかどさくさに紛れて呼び捨てにしちゃってたけど、いい?」

「……ふふ、ははっ」

「えっ?」

「ほんと、今更だね、夜は。わたしだって呼び捨てにしてるのに。構わないよ――それと、ありがとう」


 任せて、と言われたのにそれでも立ち上がってシャベルを構えた和に、夜は手を差し出した。意図が分からず首を傾げた和を、夜はぐいっ、と抱き寄せる。

 ふわり、と目の前を舞う髪が、泥の塊を押しのけて、夜の目を奪う。


「あんまり私から離れると、


 未だ蒼い光を纏ったままの傘をちょいちょい、と揺らしてはにかんだ夜に、和も笑みをこぼした。


「そうだね。せっかくだから、お邪魔、させてもらうよ」


 負傷した和と、戦闘経験のない夜。

 対して、ようやくダメージが通ったと言えどたかだか細い触手を10本削っただけ。未だ健在の泥の塊。勝機は薄かったが、それでも、この相合傘の下に居ればなんとかなる。そんな気が、して。

 10本から数十本へと数を増やした槍触手を、無感動に放って来た泥の塊を前に、2人はそれでも目を開いたまま――


「おっと、そこな異界の者は新参かな?道理で、このカフェはだって知らなかったみたいだ」


 よく響くアルトの声を、その耳で捉えた。

 瞬間、2人は槍触手が空中で停止しているのに気が付く。それもそのはず、数十本全ての槍触手を絡めとるように、植物の蔦が地面から伸びてきていたから。


「それと、おっと――和、また怪我か?後で治療しよう。それと、そこの子は……ああ、なるほど。君も新参か。ようこそS区崩壊境界線へ、と」


 アルトの声の主は、カフェに豪快に開いた穴から堂々と入って来た――その細腕でおよそ人間が扱うには大きすぎるコンクリートの柱を担ぎながら。


「……クレナイ、それは何ですか」

「ん?ああ、これ?その辺で拾ったのさ。何かに使えると思って。小さいころ、公園とか探検するのにちっちゃい枝とか拾わなかった?あたしああいうの結構好きでさ」


 泥の塊は触手を切って落とし、夜と和からあっけなく離れ、現れたアルトの声の――紅の方に近づき、今度は触手ではない、何かを泥で象ろうとして。その試みを遂げることなく、


「ほら、やっぱり拾っといて正解だった」


 紅が投げ飛ばしたコンクリートの柱に押しつぶされて、あっけなく、姿を消した。

 「トカゲのしっぽ」をする暇も、分裂して避ける暇もなく。あったとしても、衝撃を緩和させるのも馬鹿らしいくらいの、圧倒的物量で。


――どごぉん!


 未だ外にいる紅の元に泥の塊が近づいたおかげで、紅が放ったコンクリートの柱はカフェの店内を破壊することはなかったが、遠くどこかで盛大に弾ける音が聞こえて来た。呆気にとられる2人の気を知ってか知らずか、散歩ついでに友人の家に寄ってみた、というような足取りで、紅は相合傘をする2人の目の前までやって来た。

 深紅に染め抜いた髪を高い位置でポニーテールに縛った、ジーンズに皮のジャケットを羽織ったパンクな格好が良く似合う、長身の人。


「夜。この人は紅。他ならない、S区崩壊境界線の名付け親にして、一番長くこの異界で過ごしている人だよ」

「え、えと……」

「どーも。あたしが紅だよ。なんか困ったことがあったら遠慮せずなんでも言って」

「――!じゃ、じゃあ、さっき言ってた……っ、和の治療を、早くしてあげてくださいっ」


 初対面のインパクトがあまりに大きい出会いに萎縮していた夜が、突然そうまくしたてるのを聞いて、紅は眉を上げた。それから意味深な視線を和に送ると、なんと、夜と和を2人一緒に抱きかかえてしまった。

 ついでに、シャベルと折り畳み傘も。


「ははっ、あんた、面白いね。名前は」

「――夜、です」

「そうか、夜。安心しな。この子はあたしが治してやるから」


 そう言って、カフェの中を破片を掻き分けながら厨房へと歩いていく紅の腕の中、2人は見つめ合って、ただ揺られていたのだった。



※※※



 厨房の中のソファベッドに寝かされた和の手を握りながら、どこかに行ってしまった紅を待つ間、和はなぜか目を合わせようとしなかったし、夜の話にも生返事を返すばかりだった。不審に思った夜だったが、戻って来た紅の手に握られていたものを見てそんな不審も消えてしまった。

 だって、その手には、


「紅さん。


 豪快で溌剌とした話し方をする紅は、この時はじめて声のトーンを落として、心底口にしたくないという重い表情で言った。


「あたしら模倣品コピーがこの世界で負傷した時の治し方は、簡単なんだ。ただ、使

「そんな……っ!だって、そいつがさっき、和を!」

「――仕方ないんだ。この異界ではあたしらの身体は所詮は模倣品に過ぎない。この身体も、図形的なふるまいをしているんだ」


 紅はすっ、とソファベッドの隅に泥塊を置くと、夜の目の前に手のひらを突き出した。そしてポケットから取り出したナイフで、手のひらを裂いて見せる。

 ひっ、と声を上げた夜は、けれど、一切の血を流さないその身体を見て、紅がしたかったことを理解する。


「そりゃ切ったら痛い。和も、もっと痛い。でも、この異界じゃ模倣品で作られた身体に血なんぞ流れてないんだ……積み木みたいに、図形みたいに、傷ついた部分を交換すればいい。クソ忌々しいよ、全く」


 少量の泥をすくった紅は自信の手のひらにそれを押し当て――ものの数秒で、傷口がふさがってしまった。図形、とは言いえて妙だな、と認めたくない現実を前に、夜の頭は冷静に判断した。

 頭……これも、模倣品なのか?


「今、和の身体も治す。血は流れてなくても、傷は傷だ。早く治療した方がいいからね」


 紅は夜に説明した時のような「交換」や「図形」といった語彙を一切使わず、頑なに「治療」と言っていることに、けれど夜はまだ気づけない。ただ、この異界の在り方への憤りと恐れとが、胸中を占めていて。

 気づいたら、和の手も、放していて。


「……夜」

「――なに?」


 離れる手を名残惜しそうに目を細めて追った和の一言に。


「ありがとう」

「……っ!」


 自分でも分からないほどに動揺した夜は、和と紅に何も告げずに、カフェの外へと飛び出した。



※※※



 すっかり元通りになった身体を見下ろして、和は無感動に腹部を撫でる。


「――いいのか、和?あの子は」

「いいわけないですよ。でも、この事実は、異界に来て数時間も経っていない夜には……重すぎる」


 まだ少し痛みの残滓でふらつく身体をシャベルで支えながら、和は紅に頭を下げた。


「助けてくれてありがとう、紅。わたしはあの子を……夜を、探してきます」

「礼には及ばないさ、和……ちゃっちゃと見つけて、傍に居てやんな」

「――はい」


 どうかカフェのすぐ近くにいてくれ、と願いながら、和は夜の後を追ったのだった。



――1人残された紅は、ソファベッドに足を組んで腰かけながら、2人が走り去って行った方を見つめていた。


「あの和が、ね」


 憤りと慈愛とを混ぜた、その視線は異界の闇へと吸い込まれていく。

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