模倣
世界が反転した――そう思った
それは、カフェの中に轟いた異音、つまり、
「な、和、こ、これ」
「うん。異界の者だね。見つかってしまったみたい」
異界の者の、攻撃。
夜はすぐさま例の巨躯の化け物を想像したが、和は夜の狼狽を見て何かを悟ったようで緩く首を横に振った。「あのデカいヤツとは違う、と思う」言葉とは裏腹に、自信のない声色。
全身が逃げろ、と警告しているのに、恐怖に震える身体は夜にその場を離れることを許さない。
「夜、カウンターの奥に連れて行くから、わたしが迎えに行くまで待っていて」
「で、でも、和――」
和の頬を伝った紅の髪のひと房が、涙のようで。
「わたしがどれだけここで戦ってきたと思う?」
「……ぁ」
夜は和に軽々と抱きかかえられ、あっという間にカウンターの奥、厨房へとそっと運ばれた。厨房と言っても中は家具調度が丁寧に置かれていて、ああ、拠点ってこういうことかと場違いにも納得してしまう。
和の雰囲気に圧倒された夜は、和が立ち上がってホールへと向かうまで何も口に出来なかった。けれど、去り行くその背中が、どうしてかひどく小さく、見えて。
「後で話したいこと、あるから」
カフェを襲った異界の者のせいで、言えなかった言葉を。
「だから、ちゃんと迎えに来て」
「――うん。また後で、ね」
風に揺れる髪の向こう、その表情は、果たして――。
※※※
和は戦闘に巻き込まれないようにと夜を避難させてくれた。しかし、ほんの数メートル先で和が戦っているのを、ただ座して待つことは出来なかった。
せめてその姿だけでも、とほんの少しだけ顔を覗かせた夜は、和が相対する異界の者の姿をその目に捉えた。
「――なに、あれ」
最初の一撃で窓と壁を突き破ったにも関わらず、その破片を避けるように律儀に正面の入り口から入って来たのは、夜の知るモノの中で最も近いたとえをするなら、泥だった。縦2メートルほどあるだろうか、歪な泥の塊が漂っている。
泥、と言ってもそれはあらゆる種類の色の絵具をデタラメな比率で混ぜたような形容しがたい色彩の何か。その粘性、ぼとりぼとりと地面に自らの一部を落とすさまが、泥の塊に似ているだけ。
「まさか、あのデカいヤツが分裂出来たなんてね」
和が、1人で呟くにしてはやや大きいと感じる声で独語したのが、夜にもはっきりと聞こえて来た。厨房に居る夜にも聞こえるように、だろうか。
和の意図の真偽は分からないものの、別にはっきりしたことがあった。そうとしか思えなかったけれど、実際に見るまでは信じられなかったであろう用途。
「あのシャベル、やっぱり武器なんだ」
まるで剣のように和はシャベルを構え、泥の塊と向かい合っている。あれで、どう戦うと言うのだろう。
今更ながら、夜は和が迎えに来てくれない可能性を。あの泥の塊を適当にいなして、逃げてしまう可能性を、自分が全く考えていないことに気が付いた。助けてくれたのが和ではなかったら、それを疑っていたかもしれないのに。
(なんでだろう、私)
夜は和に寄せる根拠のない信頼が、少しだけ怖くなって「しっ――!」その信頼の由来を考えようとしたのと同時、和の鋭い息が零れた。ぎゃりいん、と金属が地面を撫でる音と共に、和の身体があっという間にその場から消える。
目で追うというよりも音で追った夜は、同い年とは思えない和の身のこなしに息を呑む。
泥の塊までの数歩の距離を一瞬で詰めた和は、シャベルを振りかぶって床に散らばっているカフェの壁の破片の1つを泥の塊へと吹き飛ばした。ごぉん、と重たい鐘を鳴らしたような音の悲鳴を置き去りにしているように、少なくとも夜には見える軌道で。
破片は、泥の塊に、ぶつか――
「やっぱり、だめか」
ら、なかった。
和もそれは予想していたようで、歯嚙みする彼女のつぶやきが聞こえて来た。
泥の塊は腹部と言っていいだろうか、その身の中央から2本、泥の触手を生み出して破片を容易く受け止めて見せた。一見強度のない泥だが、今の程度の攻撃では揺らぎもしない。
和はすぐさま体勢を立て直し、続けざまに数発の破片を吹き飛ばした。2本だった触手を4本に増やして迎え撃つ泥の塊に対して、和はテーブルの影から飛び出して横合いにシャベルを叩きつけた。
泥とは思えないほどの重たい衝撃と共に、不協和音が鳴り響く。およそ見た目からは想像できない音が返って来て夜は耳を塞いでしまった。
「あっ、泥が」
あまりにも不気味な音のせいでネガティブな結果を想像していた夜はしかし、千々に吹き飛ばされた泥の触手を見て思わずそう零してしまった。それから、慌てて手を口で押える。
巨躯の化け物から逃げる時、静かにするように言われた。和が言うようにこの泥が巨躯の化け物から分裂したものであるなら、夜は少しでも音を立てない方がいいだろう。
それなら厨房に入って耳を塞ぎ、和が来るのをじっと待っている方が楽だっただろうが、
(そんなの――だって、今和は戦ってる)
息を押し殺し、夜は口元に手を押し当てたまま、再度ホールに視線を投げた。
シャベルを振りぬいた和は、遠心力を利用して身体を捻り、勢いをそのままに地面に転がる破片にシャベルをひっかける。片足を軸に半回転し、跳躍と共に軸足を持ち上げて泥の触手へと蹴りを叩きこんだ。
その威力はすさまじく、相変わらず不協和音をまき散らす触手をまた1本吹き飛ばして見せた。ポールダンスのような優雅で流麗な所作でありながら、あの威力。
さらに和は蹴りの勢いを利用して、両手持ちに切り替えたシャベルを身体を回転させながら今度は触手ではなく本体めがけて振りかぶり、一閃。全力で叩きつける。
壁が破られた時に等しい轟音がカフェを響き、触手を引っ込めた泥の塊は派手に膨張と収縮を繰り返した。悲鳴、なのだろうか。
「はぁ、はぁ――全く、通ってない」
(……え、和、今なんて)
夜の目には泥の塊を圧倒しているように見えた和の一連の攻撃だった。だが当の本人は、全く通っていないと、そう言った。
その意味は、夜にもすぐに理解できた。
今しも重たいシャベルの一撃を食らったはずの泥の塊はけれど、そういえば、触手のように吹き飛んだりしていない。夜の語彙では「泥」、としか形容出来ないそれだが、明らかに泥ではないその身体も、和の攻撃には耐えられなかったのだと、思った。
違う、と夜は悟った。
(あいつ――攻撃が当たる瞬間に自分で自分を崩してたんだ。トカゲがしっぽを落す、みたいに。胴体の攻撃も、衝撃が吸収されてる)
――相性が悪い。
夜は和の苦々しい口調の意味が、ようやく理解できた。
和の攻撃はシャベルを使った打撃が主、このままでは泥の塊に有効打がない。それにまだ、あれは触手を4本出した程度。もし仮にその倍、さらに倍の触手、あるいはもっと別の何かを出されたら。
防戦一方になるだろうことは、容易に想像できてしまった。
(――でも、私に、何が)
せいぜい飛び出して的になるくらいしか出来ない夜は、己の無力さに歯噛みする。
今はただ、和を信じて待つしかない。そう思った、その刹那だ。
――ひゅん、と空気を裂く軽やかな音が、駆けて。
「――ッ!」
和の苦悶の声が、それに続いて。
「……あ」
夜の零した吐息が、厨房に溶ける。
「――和っ!」
ホールへと飛び出した夜は、泥の塊が放った槍状の鋭利な1本の触手に、腹部を貫かれた和の姿を、はっきりと捉えた。
※※※
和は、しくじったな、と内心で表情をゆがめる。
泥の塊――例のデカいヤツの一部といえど、その力量を見誤ったことも一つ。
もう一つは、これを夜に、見せてしまったこと。
「まだ、見せるつもり、なかったんだどな……」
自分が行くまで待っていてくれと頼んだはずの、異界に迷い込んできた少女がこちらに駆け寄って来るのを見ながら、和は静かに笑った。
笑って。
一滴の血も流れていない自分の腹部を、見た。
※※※
泥の塊に注意しないとと思いながらも、膝をついた和に駆け寄らずにはいられなかった夜は、しゃがんで、その身体を支えて、必死に和を呼んでから、気が付いた。既に触手が引き抜かれたその身体から、一切の流血がないことに。
夜は、和を、見た。
「――これが、
異界の悪辣に、夜は何も言えなかった。
あるいはようやく、自分が迷い込んだこの場所が、現実世界とはまるで異なる場所だと、今やっと本当の意味で、分かったのかもしれない、と。
「こんなに痛いのにね」
夜は目を細めた和を、ただ、ただ抱きしめることしか出来なかった。
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