異界
日が傾き始めた公園。ブランコ。2人の笑い声。
穏やかな日々。跳ねる心。その名前。
初めての、恋。
※※※
「……ぁえ?」
奇妙な感覚だった。祝日休み、平日の朝、ゴミ収集車の駆動音で目が覚めたことがある。授業中の居眠り、先生の声で目が覚めたことがある。スマホを買ってもらった日の朝、スマホのアラームで目が覚めたことがある。
今までの16年の経験の中で、千葉夜はあらゆる音で目が覚めたことがあるが、あまりにも静かすぎて、その静けさが目を覚まさせたのは初めてだった。自分の息遣いすら、怖いくらい大きい。
「ん、気づいた?おはよう」
「あ――な、たは」
そして微睡みの数秒、直前の記憶が信じがたい光景だったから、きっと夢だろうと振り返った先。そこに佇む紅と藍を純黒に走らせた長髪の少女、
納得、して。
「……いやっ、わたっ、私、い、家に……帰りたい!」
「――そうだね」
恐慌が千葉夜を襲った。和に駆け寄って、その肩を掴む。
揺さぶって、それから問い詰めて。
「ここはどこ?何かのイベント?あなたが私を寝かせたの?」
「……ここはわたしの拠点の1つ。イベント、だったらよかったんだけど。君は、疲労で倒れてしまったから私がここまで運んできた」
「……じゃあ、もう一回聞くけど、ここはどこなの」
拠点、なんて言葉を、少なくとも千葉夜は日常会話では使わない。もっと言えば、カフェのカウンターに剝き出しのシャベルを置くような女子高生も知らないし、S区の街を徘徊する化け物も知らない。
だから聞いた――ここはどこかと。
「誤解をしてほしくないんだけど、S区なんだ――ただし、君やわたしたちがいた、現実のS区じゃない」
「もっと、分かりやすく言って」
「ん、すまない――わたしたちは、ここを異界と呼んでいる。現実とは異なる場所にある、もう一つの世界とでも思って」
どうか質の悪い冗談であってくれ、と和の肩を掴んだまま項垂れる千葉夜は、パニックになりながらも薄々気づいていた。ここは、自分の知っている場所ではない、と。
夢だと思えたならまだ楽だったかもしれない。けれど、千葉夜はあの化け物を見る前、和に口を押さえらえる前、確かに自分の身体で現実のS区を歩いていたのだ。まるで紙芝居のページを取り違えてしまったかのように、一瞬にして世界の方が、様相を違えたのだと、仮定した方がまだしも理解しやすかった。
「じゃあ、抜け出す方法は?」
「あるには、ある。でも、そのためにはこの異界がどういう場所か、君にも知っておいて欲しいんだ」
「早く教えて」
自分でも冷たい態度だと思う。同時に、そうなるのも仕方がない、とも。
初対面で、きっと助けてくれたであろう和。同い年だと言うし、普段の千葉夜ならもっと友好的になれた。今は、そんな余裕が、なくて。
「分かった。じゃあ、結論から言うと、わたしたちは、自分たちの魂を取り戻さないと、ここから出られないんだ」
「――魂?」
幽霊などいない。UMAもデタラメ。でも、宇宙人はちょっと気になる。
そんな千葉夜が今の話を聞けば、普段なら鼻で笑っていただろう。だが、今は聞き流す気にはなれなかった。一つ、和の表情がいやに真剣だから。
そして、一つ。
起きた時からずっと、感じていたことだ。
「胸の辺りがすごく軽いのと、何か関係があるの?」
「――聡いね、君は。その通りだよ」
千葉夜は観念してカウンターの席に腰かけ、立ったまま片目を瞑った和の話を聞く態度を取った。己の経験が、知識が、理性が、直観が、全てが、この現実を嘘やまやかしに付そうと試みて来る。
けれど、心が、囁くのだ。
この喪失は、否応ない現実だ、と。
「異界の者、とわたしたちはそう呼んでいる――奴らは時折、捕食するんだ。現実世界の人間の魂を。この異界から現実世界へと手を伸ばし、魂だけをこちらに持ってくる」
「食べる、の?魂を」
「取り込む、と言う方が近い、かな。そうしてこの異界に連れてこられた魂の
「――まさか」
千葉夜は和の言葉に嫌な予感を覚えた。どうか外れて欲しい――だがその願いもむなしく、和は力なく、ゆっくりと頷いた。
拳をきりきりと握りしめ、何かに耐えるように口を引き結んで、やっと絞り出された、言葉。
「そう。わたしたちの方が、その模倣品なんだ」
だからか、と千葉夜は悟った。
模倣品のままではなく、異界の化け物に盗られてしまった自分の本当の魂を取り戻さないと、
「模倣品のわたしたちは、異界にいる時間が経つほど、自分の名前と記憶を失っていくんだ。だから異界では、名前を忘れないように本名の一部を使った通称名を用いている」
「そんな……どうして。どうして、記憶を、失くしてしまうの……?」
「異界の者にオリジナルの魂を取り込まれると、模倣品のわたしたちの魂に刻まれた記憶も取られてしまうんだ。ただ魂の情報量は膨大だから、そうすぐという話ではない。でも、異界で本名を口にしてしまうと、その期間は大幅に短縮されてしまう」
和は続けた。名前と魂とは強く結ばれているから、と。
ぱん、と軽く両手を合わせた和は、カウンター席に腰かけた千葉夜に柔らかく微笑んだ。千葉夜はとても笑う気分にはなれなかったが、それでも目の前の少女が見せた一瞬のあどけなさに、つられて強張った口元が少し緩むのを感じる。
「じゃあ、改めて自己紹介をしよう。わたしは和。君の、名前は?」
言われて、「千葉夜」と答えようとしたところを何とか思いとどまった。
「もしかして、今、自分の新しい名前を……作れって、こと?」
「うん。早い方がお互い便利だからね。いつまでも君、じゃあ困るしさ」
「そ、そうだけど」
「和」ということは、本名はなんとか和とか、和なんとかなのだろうか。
本名の一部、「千」「葉」「夜」のうち、どれか。使いたい漢字は案外すぐ決まって、読み方も覚えやすいしこれでいいだろう、と千葉夜は顔を上げる。
「私は――
「夜、夜か。素敵な名前だね。うん、よし。それじゃあ、夜。S区崩壊境界線へようこそ」
「ちょ、ちょっと待って。その、S区……なんとかって、何?」
一瞬ぽかん、と不思議そうに千葉夜――夜を見た和だったが、すぐに説明の必要性を思い出す。ええとね、と指を立てながら、和は口を開いた。
「S区崩壊境界線って言うのは、簡単に言えばこの異界に迷い込んできた人たちのことだよ。わたしたちは自分の記憶が消えていくのを崩壊と、そう呼ぶんだ。そこから来てる」
「境界線、の方は?」
「そっちはわたしも詳しくは知らないんだ。でも、響きは気に入ってる」
「人」を「線」で表現するのはどうなのか、と思った夜だったが、でも、と。
この異界が今聞いた通りのものなのだとしたら。自分の名前も記憶も「崩壊」していってしまう場所の中で、自分たちを示す言葉あることは、きっと救いになるのだろう。
そして、今からの自分にとっても――あるいは。
「和は……どのくらい、覚えてるの」
夜はふと気になって聞いてみたが、直後に軽率だったと後悔した。もし仮に、全てを忘れていたら。
恐る恐る和を見やると、彼女はシャベルを撫でながら目を伏せていた。
「――失くした、と、いうことだけを」
「……っ。ご、ごめんなさい、私」
「ううん。大丈夫。知らなかったのだし、気にしないで」
それはつまり、何も覚えていないということで。夜には、和の伏せた目蓋の重さがとても痛く思えた。
まだ自分は本名も、記憶もある。けれどそれも、異界に長くいれば失うというのか。
「私、」
言葉を続けようとした刹那、夜の世界は反転した。
――ごぉん、と。
耳をつんざく異音がカフェの中を引き裂いたのは、そのほんのすぐ後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます