S区崩壊境界線

音愛トオル

邂逅

 千葉夜ちはやはなんとなく家に帰りたくなくて、最寄り駅をいくつもいくつも過ぎて、立っているのが疲れたころ電車から降りた。冬を間近に控えた秋の出口、夜風は冷える。スラックスを選んでいてよかった、とぼんやり考える。肩からずり落ちるスクールバッグをそのままに、入り組んだホームを出て改札へ向かった。

 人の波に何も考えずに従うのはいくぶん気分が楽で、けれど、改札を出た後のあてどなさは千葉夜には少し、痛かった。今更、駅名を知る。


「S駅。へえ。こんなところまで電車で来れるんだ」


 流行の最先端、若者の街、S区。

 東京のその街にはなんとなくの憧れがあったものの、具体的に何かを目的にそこに行こうなんて思ったこともなく、だから。降り立った地の宵の元へ、千葉夜は迷わず進み出た。

 まあ、少し散歩するだけだ。


「すごい人だな」


 千葉夜と同じ高校生の姿も多いが、スーツ姿の者、私服の者、あらゆる者がその人生を歩んでいるのが、街の様子から伝わって来た。小さい頃は夜の都会を上から見た景色を、星の海のようだと思ったものだが。

 今の千葉夜には、埃の塵のように見えた。


「ふっ、我ながらちょっと痛いかも」


 嘘だ。

 今も心の底では、人の波を星の海と笑う自分がいる。自覚も少ししている。

 けれど、それを認めたくは、なかったんだ。


「道路の上なのに」


 S区の駅から伸びる連絡橋の下には車の流れる道路が走っている。まるで上から橋の網をかけているみたいだ、と思った。自分の家の周りでは、陸橋があっても途中で別れたりしないのに。

 しかも、連絡橋の上をさらに道路が走っているのだから、この街の複雑さには笑みが零れた。


「散歩が冒険になっちゃうな」


 見上げればなるほど、夜はだんだんと落ちてきている。それなのに、煌々と光る営みの灯りが、街の底を照らしてやまない。千葉夜はそのきらびやかさから逃れたくなって、急いで階段を下りた。

 駅からほんの少し離れた場所はこんなに明るくないから。あの道を少し進んでから、引き返せばいいだろう。


「――気分転換には、なるでしょ」


 初めて来るS区の迷路のような道だったけれど、千葉夜はほとんどまっすぐに歩いていたから、地図アプリも開かずに適当な階段から連絡橋を降りた。1回でも脇道に逸れたら地理に詳しくない千葉夜が迷わず駅にたどり着くのは難しいだろう。

 高校生の集団とすれ違う時、千葉夜は自分の靴を見た。ここまで連れてきてくれた、おんぼろの運動靴。買い替えたくはなかった。お守りのようにも感じていたし。


「私だって、話したいけどさ」


 蘇る、昼休みの喧騒。

 仲のいいグループで交わされた恋バナというヤツ。誰それの男子がかっこいいとか、私の彼氏がどうとか。だれだれはいないの、作ったりは、とか。


――と、言ってくれたらいいのに。


 気になっている女の子がいてさ。好きって言えたらいいなってさ。恋人になれたらってさ。

 ちゃんと話して、ちゃんと言えたら何か変わるかもしれない。でも、そのを挟む必要が――挟まないと、怖いことが、千葉夜には、居づらかった。

 可愛いなって思う。多分笑った顔が好きなんだ。その声で自分の名前を呼んでくれた時に高鳴る胸が心地いいんだ。


「ここにいるんだけどな」


 大好きだったアニメ。女の子の主人公とお互い信頼し合って好き合っていたはずの女の子の恋は、けれど、大していい雰囲気でもなかった幼馴染の男と主人公がくっついたことで終わってしまった。なんでって思う。

 私が脚本家だったら絶対にそんなことはしない――


「あの子は泣かなくてよかったと思うんだけどな」


――あの子、と。


 気分転換したかったはずが、S区にまで来てしまったきっかけの出来事を思い出してしまったせいで痛みがぶり返して来た。それなのに、涼やかな秋の夜風を吸い込むビル群の下で、前髪をあおられて千葉夜はちょっと爽やかな気分も感じて。

 手綱を握れない自分の感情に、千葉夜は苦笑を零した。


「……そろそろ帰ろうかな」


 今ならまだ、家に戻って夕飯を食べ、宿題をするくらいの時間はある。推しが出ている作品を鑑賞するのは難しいかもだけど。

 そう思って踵を返そうとした千葉夜は、頬を撫でる微かな違和感に足が止まってしまった。


――そぉん、と風をねじるような異質な音が響く。


 気づけば周囲の喧騒は露と消え、首を動かさずに視線だけで窺った周囲には人影すらいなくなった。さっき前から来ていたはずの集団の姿もない。横を通っていく自転車も車も。

 涼やかだった風に、じんわりと嫌な湿度が滲んでいく。次いで、嗅いだことのないような奇妙なにおいが鼻をつく。異臭ではない、悪臭とも言えない。あまりに無機質でありながら、ねばつく水気を感じさせるほどの色合いのにおい。


「な、なにこ――」

「喋らない方がいい」

「……っ」


 千葉夜は突然、何者かに後ろから手で口をふさがれ、恐怖に目を見開いた。あわや悲鳴を上げそうになったが、何者かの切迫した雰囲気と、何より、 異様に、声を失ったのだ。

 その巨体の割に、足音ひとつ立てずに歩くは――なんだ?


「わたしの歩幅に合わせて、ゆっくり動くんだ」

「――っ」


 恐怖の対象だった背後の人物よりも濃厚な悪意を放つを前に、千葉夜はおとなしく従った。入っては駅に戻れなくなると思って避けていた横道へと、何者かの歩幅に合わせてゆっくり、ゆっくりと入っていく。

 はこちらに気づいているのかいないのか、ただそこに佇むだけだったが、確実に分かったのは、千葉夜が今声を上げれば襲われる、ということ。だって、


(目が、合ってる)


 建物の影に隠れて、次いで闇深く街の中へ溶けてゆく――千葉夜の姿が完全に消えるまで、は千葉夜を見つめていた。


「驚かせたね。でももう大丈夫だ」

「――あ、貴方は」


 後ろから口を塞いできたその者へ千葉夜はは、と誰何すいかした。振り返った先に居たのは、純黒の腰までの長髪を風に躍らせ、右のひと房を藍、左のひと房を紅に染めた者だった。

 背中に何かを担いで――シャベル?――いるその者は、声色の柔らかさよりもさらに柔和な微笑みと共に、口を開いた。


「わたしはナゴミ。S区崩壊境界線として生きる、しがない16歳だよ」


 それが千葉夜の、異界に生きる同い年の女の子との出会いだった。

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