目標

 あれから2週間。

 ヨルナゴミとあの楽器屋で生活を共にしていた。


「……夜。一緒に異界を出よう」


 それは楽器屋で踊ったあの日の夜、ベッドで和が言った言葉だ。もちろん出るつもりだし、一緒に戦うつもりだと告げようとした夜は、和の意図を察する。

 それは、ヒイラギの言葉。1か月の特訓。


「和には、まだ伝えていない異界の情報がある。それに、魂を取り戻すには、強くならなきゃいけないから。だから――1か月。だいたい、崩壊が本格的に始まるのが、1か月後からだから」


 かくして、夜はそれ以来和と毎日のようにトレーニングをするようになった。能力の使い方も磨き、今では自由に使えるようになっている。相変わらず「護る」能力ではあるが、それでもないよりはマシだ。

 それから、クレナイにも会った。


「そうか、能力、使えるようになったんだな。ああと、夜。和を、ありがとう」


 紅はある日、夜に用事があると言って楽器店にやって来たのだ。


「私に用事、ですか?」

「うん、そう。あー……夜は、1か月の縛りって聞いてる?」


 和からのちに聞いたことだが、柊も同様「1か月」という期間には理由がある。

 どの異界の者が自分の魂を盗ったのか知るには、紅のように直接聞くという方法もあるが、それではしらみつぶしに調べるしかない。もう一つ、本格的な崩壊が始まる――名前や記憶を忘れる前に出来る方法が、ある。

 それは、己の本名を口にする、というもの。それに反応した異界の者が模倣品を食らいにやって来るのだ。自分の魂を盗ったその相手が。

 だから、


『異界で本名を口にしてしまうと、その期間は大幅に短縮されてしまう』


 和のその言葉は正確には、むやみに本名を口にして異界の者を呼び寄せ、準備の足りない状態で戦って。万が一にでも、負けたら。

 短縮、つまり――


「名前を忘れしまう1か月以降、それまでに力をつけて、異界の者に勝って、脱出する」

「そう、その通り。あたしや和みたいな長い連中はしらみつぶしに探す方が早いんだけどね」


 たった1か月で鍛えられると豪語する者は少ない。だが多くは、崩壊の恐怖の為に足掻く。

 記憶を失った後も戦い続けられるか、分からないから。


「なら、話が早い。和も、聞いて欲しいんだけど――今日あたしが来たのは、夜にその縛りを守るなって忠告するためだ」

「えっ」


 だから、紅のその言葉の意味が、理解できなかった。

 だって、それでは――夜は。


「ちょ、ちょっと待ってください紅。わたしはいくら遅れても変わらないけど、夜は」

「ああ。忘れるね。でも、あたしは見てきたんだよ――あんた、気づかなかったろ?夜の魂を食ったのは、あのデカブツだよ。カフェの泥の塊から、微かに夜の声が聞こえた」

「――え?」


 夜は次々と話を進める紅についていけなかった。

 だって、崩壊が始まってしまったら夜は、忘れてしまう。初恋も、との思い出も。

 やっと思い出せたのに。やっと再会できたのに。やっと――初恋の続きを描けたのに。

 和沙と転校で離れ離れになってから、夜は無数に浴びてきた無意識の差別によって自分の初恋の思い出に蓋をしていたのだと、和と楽器店で過ごすうちに気づいた。でももう、損なわせない。

 だから一緒に戦うと――忘れてしまう前に戦うと、決めたのに。


「――すか」

「ん?」

「なんで、そんなこと言うんですか!?私、私やっと――和と、再会できたのにっ。私に、また和を忘れろって言うんですか」

「……何が、あんたたちにあったのかは、知らない。ただあたしは、と、確信したんだよ」


 2人の少女から睨まれた紅は、重たい足取りでよろよろと壁に寄りかかり、片腕をかばうように抱きながら、口を開いた。


「あたしは、あのデカブツが本体だと思ってたんだ。でも、違った。ちょいと調べて分かったんだよ――夜、あんたの魂を食ったのは、今、S区そのものを腹の中に収めてるような規格外のバケモンだ」



※※※



 言葉の意味が理解できなかったのは、和も夜も同じ。

 紅は2人のその反応を予期していたが、1つだけ、忘れていたことが、あった。


「――だから、なんですか」

「……夜?」


 人は無謀だと分かっていても、大切なものを守るためには止まれないものだと。


「……あ」


 脳裏に響く、声。


『――紅。どうか、生きて』

『ま、待って……いかないで』


 疼く、片腕。


『――!』

『あたしが、今度はあんたを守るから』


 蘇る、己の罪。


「私は、なんとしてでも帰るんです。そのためだったらどんな無茶も無謀もやりますよ。それに、お腹の中?に、本当に要るんだったら、身体の内側から戦えて、逆にいいじゃないですか」


 紅は己を射抜く夜の眼差しにかつての自分を認めたくなくて、顔を背けた。けれど、続く言葉を聞いて、紅は気づく。

 夜はもう、あの日カフェから逃げ出した時の夜ではないと。



※※※



 ところで、夜は異界にやって来た日、巨躯の化け物と

 紅が相対した〈巨躯の化け物〉は、目などない泥の小山だったというのに。



※※※



 夜は紅が自分を心配してくれているのだと気づいた。だが、それでも、と。

 和と小さく頷き合い、夜は紅へと一歩近づいた。


「紅さん。私、

「え――」

「まさか、お腹の中にいたなんて、そっちは気づかなかったけど。私、ここに初めて来た日に見たんです。S区の街に山みたいに聳える巨大な身体と、その目を」


 紅が相手したあの泥の〈巨躯の化け物〉も、確かにあの場にいた。だが、夜はその後背に悠然とこちらを見下ろすの姿を。あまりの巨体に夜は歩いているのだと思ったが、あの時、がゆっくりとS区を丸のみにしつつあるまさにその瞬間だったのだ。

 の体内から分裂した〈巨躯の化け物〉を相手に、和と夜は音を立てないようにその場を立ち去り、そしてカフェにたどり着き――。


「いや、待て。そいつが夜を食ったって、どうして分かったんだ」

「それは――そうかもしれないって、思っただけです。だって、ずっと目が合っていたから。もしかしって」

「だから、わたしたちは夜が見た相手を倒せるくらい強くなるために、鍛えてた」


 1か月でどうにかなるか不安だったけれど、と夜は思う。だが、和が提案した夜の能力の応用は想像以上の効果を発揮した。

 泥の塊――〈巨躯の化け物〉ならば圧倒出来ると、既に2人は自負していたのだ。


「……そうか。いらない心配、だったんだな」


 紅は目を伏せ、わずかに口元を緩めると2人に背中を向けた。その足取りはどこか軽やかで、揺れる深紅のポニーテールはそれなのに寂しそうで。

 夜は思わず、叫んでいた。


「――紅さん!」

「夜?」

「心配してくれて、ありがとうございます!えと……和との思い出を忘れろって、言われてるみたいで、そこは悲しかったけど」


 異界の夜が晴れるような、それは表情だった。


「私、紅さんに会えて嬉しかったです。かっこいいお姉さん、って感じで、ちょっと憧れてて。私……もっとお話、してみたいな、とか。また、会いに来てくださいね!」


 紅は、しきりに抱いていた方の片腕を上げ、ひらひらと手を振ると、颯爽と姿を消したのだった。



※※※



 最後の夜が、来た。

 和と強くなるための鍛錬をはじめてから――夜が異界に来てから、1か月。崩壊が始まるボーダーラインまであとわずか。

 夜が、和を。和沙を忘れないでいられるまでのタイムリミットまでいくばくという日の夜。明日、2人は決着をつける。夜の魂を食らったあの巨躯の化け物を倒し、その後和の目標をしとめる。

 そして、2人で魂を取り戻して、現実に戻る。

 勝算はあった。2人だから、戦える。


「夜。緊張してる?」


 背中合わせに隣で眠る和の声が、夜の心にすっ、と入って来た。落ち着く声、大好きな声。

 この1か月、いつもそばにあった声。


「それが、あんまり。だって、私はそんなに能力的に戦闘向けじゃないかもだけど、和が、いるから」

「――うん。わたしも。夜がいれば最強だから」


 向き合って、手を繋いで、笑って。 

 その穏やかな時間を、初恋に連なる大切な記憶の1つに加えたいから、夜は戦う。もう2度と忘れたりしないと決めたから。

 もう2度と、奪われてなるものかと。


「おやすみ、和」

「おやすみ。夜」


 想いを重ね、2人は異界の最後の夜を静かに明かす。

 

――部屋の隅でバランスを崩した折り畳み傘が、ことん、とシャベルにしなだれかかった。

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