第31話 【ヘルガ王国】

 広々としたヘルガ王国の城内。冷たい大理石の床が足音を響かせ、おごそかな空気が張り詰める中、玉座の間にただ一人たたずむ王の姿が見える。


 王の威厳あるたたずまいには、歴戦の王国を統べる者としての覚悟と重みが感じられた。しかし、その深い瞳には隠しきれない焦燥しょうそうが滲み出ている。その視線の先には、一人の将軍が恭しく膝をつき、頭を垂れていた。


 将軍の名はクリノフ。鋭い眼差しと精悍せいかんな顔立ちが印象的な彼は、国を守る勇将として誰もが信頼し、尊敬される存在だ。強靭きょうじんな肉体には無数の戦歴が刻まれ、鍛え抜かれた戦士としての風格 ふうかくが漂っている。冷静で的確な判断力から「戦場の盾」と称され、王国に絶大な安心をもたらしている人物だ。


 国王が静かに、しかし重々しい声で口を開いた。


「クリノフ、よく来てくれた。どうしてもお前に頼みたいことがある」


 国王のその一言で、玉座の間にさらに緊張が走る。王の言葉はいつも冷静で正確だが、今回は何か特別な思いが込められているように聞こえた。クリノフもまた、国王の言葉の重さに息を呑み、ただその続きを待った。


 一瞬の間が空き、国王はゆっくりと息を吐きながら続ける。


「私の娘が護送中にオークどもに誘拐されてしまったのだ…」


 その一言が、まるで重い石が水面に落ちるようにクリノフの心に波紋はもんを広げた。王女がオークたちに誘拐されたという事態は、王国全体に大きな衝撃を与える問題だ。国民の間に不安が広がるのは当然であり、それは王としての立場を揺るがすことにもなりかねない。


 国王は、深く沈痛ちんつうな面持ちで続けた。


「正規軍は今、魔王軍との激しい戦闘に投入しており、ここで多くの兵を動かすことはできない。しかし、あの子を放っておくわけにもいかないのだ。彼女がいなければ、民も不安に怯えるばかりだ」


 王の言葉には父親としての苦悩がにじみ出ていた。娘への愛情と王としての責務、その狭間はざま葛藤かっとうしつつも、彼はこの窮地きゅうちを乗り越えなければならない覚悟を固めていた。クリノフはそんな王の姿を前に、自然と拳を握りしめる。


「そこで、お前に頼む。一か月後、城を守る守衛の兵2000でオークどもを討伐し、姫を取り戻してほしい」


 クリノフは真摯な目で王を見つめ、静かに返答した。


御意ぎょいのままに。姫様を必ずや無事に救い出し、オークに報いを致します」


 その強い意志のこもった返答に、国王は満足げに頷いた。クリノフの言葉には揺るぎない決意が感じられ、国王の心にも一筋の希望の光が差し込んだようだった。


「クリノフ、頼んだぞ。お前がいる限り、この国は安泰だ」


 国王の言葉には深い信頼が込められており、その一言がクリノフの心に更なる使命感を呼び起こした。クリノフは深く礼をし、無言で玉座の間を後にした。


 玉座の間を出ると、長い石造りの廊下が彼を出迎えた。重厚じゅうこうな装飾の施された壁には、過去の英雄たちの肖像画が並んでいる。


 クリノフはその歴史を背負う王国の一員として、自身の役割に改めて決意を新たにする。何よりも彼に課せられた責務せきむは、王国とその未来を守ることだ。


 彼は歩みを進め、訓練中の兵士たちの声が響く練兵場へと向かう。遠くからも、剣がぶつかり合う金属音や、厳しい掛け声が聞こえてきた。


 彼が訓練場に近づくと、その存在に気づいた兵士たちが次々と敬礼を送り、敬意を表した。


 訓練場の一角で、鋭い目をした若い兵士が剣を振るい、汗を飛ばして訓練に励んでいる。彼らが精一杯に技を磨く姿を見つめ、クリノフは内心で誇らしく感じると同時に、自分も彼らの先頭に立ち続ける覚悟を強くする。


 ふと視線を巡らせた時、訓練場の端に見慣れた二人の姿があった。彼の妻と小さな娘が、訓練を見守るように立っていたのだ。


 予期せぬ光景に、クリノフは驚きと共に眉をひそめ、足早に二人の元へと向かった。


「なぜここにいる?家で待っているように言ったはずだが」


 妻は少し申し訳なさそうに微笑み、軽く頭を下げた。


「ごめんなさい、クリノフ。どうしても娘が『お父さんに会いたい』と言ってきかなくて…」


 娘は純粋なひとみでクリノフを見上げると、満面の笑顔で手を広げて抱っこをねだってきた。クリノフは一瞬戸惑いながらも、彼女をやさしく抱き上げ、腕の中に収めた。


「お父さん!」娘の声が嬉しそうに響く。小さな腕で父親の首に抱きつくその姿に、クリノフは自然と優しい笑みを浮かべた。彼女の無邪気な笑顔に、心の中に張り詰めていた緊張が少しだけ和らいでいく。


 娘をあやしながら、クリノフはふと妻に目を向けた。


「なぁ、そろそろ国の外の村に住むのはやめて、城に移り住むことを考えてはくれないか?ここにいる方が安全だぞ。」


 彼の提案には、家族を思う深い愛情と、将軍としての責任が混ざり合っていた。だが妻は少し困った表情を浮かべ、肩をすくめて答えた。


「それは私も考えているのですが…ミリムがどうしても『自然がいっぱいのところで住みたい』と言って聞かないのです」


 村は緑が豊かで、自然の美しさが溢れている場所だが、その分、外敵が現れる危険性も高い。特に、オークや魔物たちが活発化している状況では、予測不能なリスクが存在するのも事実だ。


「そうか…確かに、娘が自然を愛していることはわかる。だが、危険もある。何かあった時、守衛の兵たちがすぐに駆けつけてくれると信じたいが…」


 クリノフの心には、家族を守るべき重責と、不安が交錯していた。しかし、彼は家族のためならばどんな困難も乗り越えられると信じている。


 娘が父親の胸に抱かれて安心したように、彼もまた家族の存在に励まされているのだ。


 ふと、クリノフは再び王女の誘拐事件についての疑念が頭をよぎった。王女の誘拐は単なる偶然ではないかもしれない。


 オークたちがこのタイミングで王家の重要な人物を襲撃するとは、何かが背後に潜んでいる可能性が高い。


 何者かが裏で糸を引いているのではないか、そしてそれが国全体を揺るがす陰謀の一部なのかもしれない。


 彼は一度深く息を吸い、娘の無邪気な笑顔を胸に焼き付けると、心を再び戦士のそれへと切り替えた。

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