第28話【ゴブリンとの戦い⑤】

 ゴブリンの集落に不安と緊張が漂っていた。帰還したゴブリン兵たちは、傷を負いながらも死力を尽くして村に戻り、「長が討たれた」という衝撃の報せを告げた。


 その知らせは、瞬く間に集落全体を覆い、驚愕と恐怖の波が広がっていった。ゴブリンたちの誰もが長の存在に頼り切っており、まさか彼が討たれるとは想像すらしていなかったのである。


 皆が暗い沈黙に包まれ、やがてそれは不安と混乱を伴う騒ぎへと変わっていった。


「一体どうなっているんだ…!」


「長が死んだなんて…」


 呟くように声を漏らす者もいれば、頭を抱えて震える者もいた。長がこれまでどれほど強力であったか、そして彼に頼っていたことを今さら思い知らされ、彼らの表情には絶望が浮かんでいた。


 ゴブリンの兵士たちは一様に疲れ果て、血まみれで、傷だらけであり、恐怖と不安がその顔に色濃く現れている。そんな中、後継者と言われている長の息子である15歳のヘールが、震える足取りで集落の中央に進み出た。


 ヘールの顔は幼さが残り、これまで父の影に隠れて過ごしてきた彼にとって、この場で皆の注目を浴びるのは初めての経験だった。しかし、彼の中には確かな決意と覚悟が生まれていた。


 自らの震えを抑え、彼は小さな拳を強く握りしめて、周囲に集まったゴブリンたちの顔を見渡した。皆の目には、不安と失望が渦巻いている。


 まるで今にも崩れ落ちそうな彼らに向けて、ヘールは息を整え、大きく一歩踏み出して声を張り上げた。


「父上がいなくなったとしても、俺がこの集落を守る!逃げるなんて、父上が望むはずがない!みんなで戦おう!」


 ヘールの言葉は集落の中に響き渡ったが、それに応える者はほとんどいなかった。彼の決意に応えようとする者もいたが、その表情にはどこかためらいや不安が滲んでいた。


 彼がまだ15歳という若さであり、戦いの経験が乏しいことを皆が知っていたからである。そんな彼に指導者としての役割を任せることが本当に正しいのかという疑問が、ゴブリンたちの心に重くのしかかっていた。


「ヘール様…お言葉はありがたいが、人間達と天狗族が繋がっている以上、俺たちには…もう戦う力なんて残っていないんだ…」


 ゴブリン達の囁き声が絶えず漏れ、互いに目を合わせ、ため息をつきながらその場を去っていった。無理もなかった。彼らはすでに数度の戦闘で疲弊し、仲間を次々と失い、力尽きようとしていたのである。


 ヘールは一人取り残され、立ち尽くした。彼の小さな肩は震え、その目には孤独と絶望が浮かんでいた。


 その日の夜、ヘールは孤独な思いを抱えながら星空を見上げ、父の存在の大きさと、自分がこれからどうすべきかに思いを巡らせていた。


 次の朝、集落全体に重苦しい空気が立ち込め、誰もが不安げにそわそわと落ち着きなく、これからどうすべきか話し合っていたが。2日後、その不安が現実のものとなる知らせが、集落に轟いた。




 ヘールが朝の光を浴びて目を覚ますと、彼の元に急いで駆け寄る兵士の姿が目に入った。兵士は荒い息を吐きながら、汗と埃にまみれた顔でヘールの前にひざまずき、恐る恐る報告を始めた。


「ヘール様、大変です!オーガの軍勢が…それに人間と天狗の軍も一緒に、我々の集落に向かって進軍してきています!」


 その報告に、ヘールの心臓は一瞬で高鳴り、冷や汗が額に滲み出た。彼は急いで兵士に確認した。


「一体…その軍勢は、どれほどの数なのだ?」


 兵士は唇を震わせながら、重々しい口調で答えた。


「およそ4000です…地平線の彼方から押し寄せるように、進軍しています。」


 ヘールの視界が一瞬で真っ白になった。4000もの大軍勢に対して、今の集落に対抗できる戦力など皆無だった。彼は何とか自分を奮い立たせ、外に出てその光景を確かめることにした。


 集落の出口に立ち、彼は遠くの地平線に目を凝らした。そこには、まさに一つの黒い川のように見える軍勢がゆっくりと、しかし着実に集落に向かって進んでいた。


「これが…これが、オーガと人間、そして天狗の力か…」


 その圧倒的な数に、ヘールの心は瞬く間に萎え、膝が震えだした。周囲のゴブリンたちもその数に驚愕し、言葉を失っていた。集落の中は不安の波に包まれ、パニックが再び広がっていった。


「これほどの数に勝てるわけがない!どうすればいいんだ!」


「降伏するしかないんじゃないのか?ここで無駄に戦うよりも、命を守る方が大事だ!」


「だが、降伏したとしても、皆殺しされるんじゃないか…つい最近、オーガ達を騙し討ちしたんだぞ……」


 集落中に恐怖の声が溢れ、彼らの希望は徐々に消えつつあった。ゴブリンたちは次々と意見を述べ、逃げるべきか、それとも迎え撃つべきか、混乱の中で答えを見いだせないでいた。


 その混乱と恐怖が集落全体に充満し、互いに顔を見合わせて震え、誰もが決断を下せないまま黙り込んでいた。


 そんな中、ヘールはふと、すべての者が自分に期待するような視線を向けているのに気づいた。その視線には無言の重圧が込められており、まるで若き彼がすべての答えを持っているかのようだった。


 しかし、彼の心にはもはや戦う意志は残されていなかった。目の前に迫る圧倒的な敵の軍勢の前で、15歳の彼には到底対抗する手立てが見つけられなかったのだ。


 彼は深く息を吐き、心の中で父の姿を思い浮かべた。もし父がここにいたならば、どんな決断を下していただろうか。だがその答えは、もはや彼の元には届かない。


 ヘールは再び視線を上げ、集落の外に迫る黒い波のような軍勢を見据えた。彼の中で覚悟が一瞬にして崩れ去り、静かな諦めが広がった。


「俺たちは…もう勝てるはずがない…」


 彼の小さな囁きは、重苦しい静寂の中に消えていった。

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