第4話 残された時間
「いい香りだ……」
美琴は大きく深呼吸し、目の前にある大きな金木犀の木を見上げた。
そこは壮太の家の前。この古い木造の一戸建ては、結婚して二人で住むためと壮太が今年購入したもので、庭には彼が大好きな金木犀が数本植えられていた。
婚約者である美琴は何度もこの家を訪れており合鍵も持っている。週末の今日は、美琴は仕事終わりでこの家に帰宅し、壮太の帰りを待つこととなっていた。
――美琴は仕事に関すること以外はとても内気である。
とくに男性が苦手で男勝りな性格もあってか、壮太と出会うまで異性と付き合うことがなかった。そんな彼女がまだ刑事として勤務していた二年前、とある現場で捜査中、犯人に銃で撃たれてしまう。その当たり所が悪く瀕死の状態となったとき、運び込まれた病院で出会ったのが壮太だったのだ。
刑事になってからは女性であることを捨て、犯人を捕まえることしか頭になかった美琴。
しかし、壮太に出会い一瞬で恋に落ちた美琴は『彼を捕まえることに全てを賭ける女』に変身し、危険な現場を離れるため自ら警察学校への転属を申し出た。
恋をする喜びに目覚めた彼女は、そこから壮太への猛アタックを連日繰り返す。
そのことで最初は彼を困らせてしまう美琴だったが、めげずひたむきに想いを伝え続けたことで彼を振り向かせることに成功し、幸せな今に至るのだった――。
「ただいまぁ。ベル」
『はっ、はっ、はっ』
息荒く大喜びで彼女を出迎えたのは、ベルという名の黒い子犬だった。
警察犬として育てられる予定だったドーベルマンだが、重病であったことから美琴が引き取ることにしたのだ。獣医から先は長くないと言われている子犬だったが、二人は子供のようにかわいがり愛情を注いでいた。
「ベル、一人で寂しかったかい? 壮ちゃんは遅くなるって……」
壮太は医学部の女学生と食事へでかけている。
今日は一人で晩飯か、とため息をつきながら冷蔵庫の缶酎ハイを取り出す美琴。
「電話したら迷惑だろうか……。嫌われるかな。ベルはどう思う?」
壮太と付き合って二年になるが、彼への想いは大きくなるばかりで、話すときはまだ緊張するし、少しのことで嫉妬もしてしまう。
美琴はそんな自分が嫌になりながらも、そんな気持ちにさせてくれる壮太に出会えた喜びも日々感じているのだった。
「い、いや、私は悪くないぞ。今日は大事な話があると言ったのに、若い女性と二人で食事行く方が悪いのだ! 私は婚約者だし心配するに決まっている! どうして彼は、私のそういう気持ちがわからないのだろうか……」
美琴は少し酔ったのか、ぶつぶつと独り言を言いながら電話をかけ始めた。
すると、すぐに壮太が電話に出る。
『美琴さん?』
外にいるのか、周りが騒がしい。美琴は壮太の声を聞いて、すぐに酔いがさめてしまった。
「壮ちゃん! あ、あ、あ、あの、すまない電話して……。今、家に着いた」
『そっか、僕も今帰宅中だから三十分くらいで着くと思うよ。今日はごめんね』
「い、いや、構わない。そ、そうか。もうすぐ帰ってくるのか。そうか……」
『それで、どうしたの?』
「ん? なにがだ?」
『いや、この電話のこと。なにか用事だった?』
「あ、ああ。いや、それは……」
そのとき――突然、美琴は平衡感覚を失う。
見えている景色がゆらゆらと揺れるように感じ始めたのだ。
そして船に酔ったような不快感に襲われ、嘔吐しそうになる。
「うぅ。地震……か?」
『え? 地震? こっちは揺れてないよ?』
「変だな……。なんだか、頭がくらくらして。悪酔いしたかな」
ついに立っていることができなくなり膝をつく美琴。
心配そうに駆け寄ってくるベルの顔がぼんやり見える。
『どうしたの? 美琴さん? 立ち眩み?』
「ごめん、壮ちゃん……。調子がおかしい……。もう駄目かも」
『どうしたの? 美琴さん?! なにが駄目なの?! 美琴さん?!』
「電話してごめん……。壮ちゃんの……声が聞きたかったから……」
美琴はそう言って、携帯を床に落とした。
耳元で壮太の叫ぶ声が響く中、美琴はゆっくりと目を閉じるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「どいてください!」
看護師数名が美琴を乗せた搬送用ベッドを押しながら、速足に廊下を進む。
壮太が連絡し、彼女はすぐに大学病院に救急搬送されたのだった。
慌ただしくCT撮影やいくつかの検査が終わり、多くのコードや機械に囲まれた救急処置室のベッドへ移される美琴。
そしてまだ意識が戻らない中、病院内は診療の受付時間も終了し静寂に包まれていた。
そして人影の無い暗い廊下には、壮太の姿が。
彼は美琴の検査結果を確認するため、担当医の部屋を訪ねてきたのだった――。
「青柳先生……」
「あれ、天海先生? えっとぉ」
「桂木美琴さんの件です。検査結果が出たと聞きまして」
「ああ、桂木さん……。結果は出ましたが、先生のお知り合いでしたか?」
「はい。彼女は……桂木さんは僕の婚約者です」
「え? 婚約者?!」
そこにいた医師や看護師が、驚いた様子で壮太の顔を見る。
「すみません。婚約したことは誰にも言ってなかったもので……」
「そうでしたか。それで、桂木さんの身内の方は?」
「お父さんがいますが、今は疎遠で。おそらく海外にいると思いますし、すぐに連絡先がわからない状況です。他に家族はいません」
「そうですか。それでは、天海先生に診察結果をお伝えしますが、それが……」
「……どうでしたか? ちょっとカルテを見せてください」
壮太は少し焦った様子で担当医からカルテを奪い取り何度も確認する。
そして数秒沈黙した後、重い口を開いた。
「青柳先生……。これって間違いないですよね」
「はい……」
「そうですね。失礼しました。青柳先生が間違えるはずない」
「いえ、そんな……」
「そうか、まいったな。これはまいった」
「天海先生、大丈夫ですか?」
「なぜだ……。ずっと一緒にいたのに、なんで気づけなかったんだろう……」
「先生、自分を責めないでください」
「そうですか。癌でしたか……」
その言葉と同時に、壮太の頬に数粒の涙がこぼれ落ちる。
「四つ目ですか」
「はい。ステージ4です。残念ですが、骨にまで転移がみられます」
「後……どれくらいですか」
「それは……」
「正直に言ってください。彼女に残された時間は、後どれくらいですか」
「もって一年だと思われます」
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