第17話「妻に事実を告げるべくお覚悟ください」

 食後、俺は日課となっている一通りのトレーニングというか身体の鍛錬を終えた。傍から見ると――特に異世界では――奇異に見られるかもしれないと懸念したが、驚いたことにアキルも自分と似たようなことをやっていたらしい。なので、今回はアキルのルーティンを試してみることにした。やり慣れていない動きはきついかなと少々懸念もしたが、意外にも軽く汗ばむ程度でこなすことができた。この身体はアキルのものだと再度実感する。ちなみに、家族は見慣れているのか特に何の反応もなかった。こんなところも日本の家族と同じだ。


「おやすみー」


 程なくして、それぞれリビングダイニングで自由に過ごしていた子ども達は寝室に向かい、俺はその姿をクナと見送った。

 運動をして汗をかくと、日本人の性として風呂に入りたいという欲求も生まれてくる。しかし、この世界の平民には日常的に入浴する習慣はないようだ。日々濡らした布で身体を清拭し、月に数回公衆浴場に通うのが一般的であるらしい。

 魔術やら魔術具という便利なものがあるのだから、正直お風呂くらいはどの家庭でも何とかなるような気もしていた。実際、魔術は「世界を書き換える」技術とされているだけあって、虚空から水やらお湯を生み出すのも理屈としては十分に可能だというのがアキルの記憶を踏まえた認識である。

 しかし、まず魔術の方は単純にその使用が難しいようだ。「世界と繋がる感覚」という適性を求められること、魔詩(コード)と呼ばれる術理の構築が非常に複雑であることから、実際には扱える者が非常に少ない。学校で教えてはいるが、ほとんどの生徒は身に付けられずに卒業していくらしい。ちなみに、アキルにも扱えない。

 一方の魔術具、こちらは魔力を注ぎ込むことで誰でも扱うことができる。俺の解釈では魔力とは生命力そのものなので、誰にでも備わっている。しかし、単純な問題として高価なのだ。必然的に燐鉱石を組み込む必要があるため、生産が少ない。故にその価格もお察しである。

 さらには、魔力=生命力の浪費は可能な限り避けるべきというこの世界の一般的な価値観の問題もある。魔力が枯渇すれば即ち死ぬ、という世界なのだからそれも当然なのだが、お風呂に入るために魔力を使うような人種は、かなりの変人と見做されてしまう可能性がある。日本人にはつらい環境だ。自分が猫型ロボット作品のお風呂大好きヒロインだったらどうするだろうかと想像してしまった。


 とりあえず今日のところは、身体を拭き清めて寝室に向かうことにした。今朝、混乱の中で目覚めたベッドの部屋である。

 長い、長い一日だった。年を取ると時間が経つのを早く感じるという人類の経験則を「ジャネーの法則」と呼ぶが、その要因の一つは、既知の経験については脳が処理をサボるために体感時間が短くなるためではないかいう説がある。だとすれば、今日という日をこんなにも長く感じた理由は明らかだ。今日は、未知としか遭遇しなかった。

 アキルの記憶を持っているといってもそれは他人の記憶である。それを上手く使いながら仕事をし、平然と振る舞い、人付き合いをこなしていくというのは本当に難しい。体感的には、ビルの屋上で綱渡りしながら針の穴に糸を通し続けるような繊細かつ大胆な作業だった。改めて冷静に考えると、俺はものすごく、いやとんでもなく頑張ったと思う。


 冗談半分で自分を労いながら寝室の扉を押し開けると――月音がいた。

 いや、クナだ。髪を下ろした姿は月音そのもので、しかし月音ではないという事実が強く自分を打ちのめした。

 なぜ、と言葉が口をついて出かかって、何とか口を閉じた。ここは、クナとアキルの寝室だ。そもそも俺がいるべき場所では、ない。何を当たり前のように帰宅して、アキルになりすまして家族と過ごしているのか。突然、自分が人の心のない悪党か、或いはとんでもなく脳天気な愚か者のように思われた。そのどちらも、だろうか。


「アキル?」


 ドアを開いてそのまま立ち尽くす俺に気づき、クナが声をかけてきた。ひどい表情をしていたのだろう、すぐに彼女の瞳に心配と不安の色が宿る。


「どうしたの、真っ青だよ」


 そっと歩み寄り、俺の頬に手を当てる。そのまま俺の手を引いて、寝台に誘導し、「座って」と声をかける。俺は言われるがまま腰を下ろした。木製のフレームが軋み、硬いベッドの触感が臀部から背中に走る。


「さっきまで、元気だったのにね」


 正面に立ち、俺の顔を覗き込んで、うーん、とクナは唸った。今朝の俺の様子を加味して、どのように対処すべきか考えているのだろう。


「何か抱え込んでいることがあったら、ちゃんと言って。PTA会長になったこと、では、なさそうだよ、ね?」


 自信なさげに言葉を切りながら問いかけるクナに、しかし俺は答えられない。もちろん、PTA会長は重責だ。この世界では特にそうだろう。前会長、カクガルの真剣な表情が頭に浮かんだ。命を狙われることもある役割だ。

 しかし、今、それは関係ない。


「仕事のこと? お仕事はずっと大変だけど、でも、それも違う、よね?」


 同様に答えられなかった。仕事は大変だ。自分というより、皆が大変だ。会長を務めることでさらに迷惑をかけるおそれがある。ならば仕事を変えなければと考えたが、あまりに険しい道程になりそうだ。

 しかし、それも関係ない。


「何だろ……うー。分からん。ごめんね、アキル」


 悲しそうに、クナは立ったまま俺の頭を抱いた。朝と同じ、月音と同じ、匂いだった。思わず本能的なレベルで安心してしまいそうになり、慌てて首を振った。クナが驚いて後ずさる。

 俺がこれからすることは、恐らく彼女を傷つけるだろう。単に混乱と苦しみを分け与えるだけの自己満足でしかないのかもしれない。しかし、俺のために訳も分からないまま戸惑い、思い悩むクナを――クナを通して感じる月音を、これ以上何も知らないままにしておくことは、決して許されないと、思った。


「クナ」

「はい」


 クナはすぐに返事をした。俺が名前を呼んだこと自体に少し安心したような響きが感じられた。


「ごめん。俺は、アキルじゃない。海地陽という、別の、世界の人間、だ」


 一語一語を絞り出すように、告げる。

 クナの表情が固まる。構わず、俺は堰を切ったように語り続けた。


 自分は別の世界で海地陽という人間として生活していたこと。そこでの自分は、アキルと瓜二つの容貌や容姿をしていること。その世界で、自分には妻と子供たちが3人おり、顔や性格、名前に至るまで、クナとその子供たちと酷似していること。全く違う世界に突然放り出されて途方に暮れていたところに、クナが現れてどれほど心が救われたかということ。

 そして、自分がアキルの記憶を持っていること。正確には、クナに触れられたことをきっかけに記憶にアクセスできるようになったこと。この身体には自分にあるはずの古傷がなく、恐らくアキルの身体に自分の意識が入っているような状態にあると推察しているということ。さらに、元の世界では数年間PTA会長を務めていたということ、月音と子どもたちを心から大切に思っていることまで、思いつくままに続けた。


 そのすべてを、クナは黙って聴いていた。或いは単に何と言っていいか分からなかっただけかもしれない。それから長い沈黙が寝室を支配した。彼女は一歩も動かない。自分だけ腰を下ろしているのが申し訳なくなってきて、自分が謝罪をしていないことにはたと気がついた。


「クナ、ごめん。俺は自分のことを黙って君たちの家族のように振る舞ってきた。本当に申し訳ない、と思ってる……」


 彼女は賢い。俺なんかより遥かに明晰で緻密な思考力を持っている。その彼女がフリーズしているのは、その明晰さを以てなお持て余すような事象ということだろう。今更ながら、こんな重荷を彼女に分け与えるべきではなかったのかもしれない。


「――あなたは、カイチ・アキラ? だと、自分では思っている」


 不意に、クナがぽつりと呟いた。その視線は焦点を結んでおらず、独り言のようにも聴こえたが、俺は頷いた。


「分からない。あなたが本当にカイチ・アキラなのか、カイ・アキルが単にそういう想像に囚われているだけなのか……」


 恐らく彼女は、少なくとも一緒にいる俺の肉体は間違いなくアキルのものだと確信している。その上で、「その精神の本質がどちらなのか」について判断を保留している。


「今聞いたことが事実なら、今日のあなたの様子は確かに説明できる。でも、他の世界の、しかも同一人物みたいな人格がアキルの肉体に宿る? どんな奇跡と機序でそんなことが起こるの? それよりは、あなたが精神を病んで妄想に取り憑かれていると考えるほうがもう少し現実味があるようにも思える……」


 なるほど、自分では思いつかなかったが、客観的に考えれば確かにそうかもしれない。俺は単に頭のおかしくなったアキルで、途方もない妄想に支配されているだけだと。

 しかし俺は頭を振った。はっきりと否定する。


「それはないよ。アキルは、そんな風にはならない」


 びく、とクナの肩がちいさく跳ねた。

 つまりは、彼女も、信じているのだ。アキルを。その心の在り方を。

 そうであるならば、自然な帰結として、彼女の中で俺はアキルではなく海地陽ということになる。数秒して、クナは顔を伏せ、呟くように言った。


「ほんの少し、一人で考えさせて」


 そうして、彼女はゆっくりと部屋を出た。扉もゆっくりと、小さな音で閉まった。

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異世界でもPTA会長を拝命したので、ご指導ご鞭撻の程何卒宜しくお願い致します。 葵緋都 @aoi_hito_evo

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