第3話「会長業務の引き継ぎにご出席ください」
「一人で行ける? 大丈夫?」
二人で出かける支度を終えようというところで、クナは少し不安そうに俺を見つめた。
俺はぎこちない手つきで外出着の首元に布を巻いていく。木綿のシャツの上にクレストと呼ばれる数センチ幅の布を交差させて首元に巻くのが、この世界、というかこの街の正装にあたるらしい。日本のネクタイのようなものだろう。クレストの端には紋章が刺繍されており、これが俺の仕事での装いでもあるようだ。
ちなみに、紋章は太陽かひまわりを象(かたど)ったようなシンプルな図柄で、我が家の家紋にあたるらしい。
「大丈夫、多分行ける」
やや緊張感を含んだ俺の声に、クナの眉根が寄る。むしろ心配させてしまったようだ。アキル自身、「学校」には数えるくらいしか行ったことがないらしいが、記憶を掘り起こせば何とか辿り着けるだろう。
「一緒に行ってあげたいけど、私も今日は仕事だし……」
クナは最近、彫刻師の見習いのようなことを始めたらしい。もう半年くらいになるようだ。パートみたいなものだろうか。だとしたら俺、というかアキルの稼ぎが少ないからなのか。苦労をかけてたらごめん、クナ。
いつも使っている(と記憶にある)皮の鞄を左肩にかけ、玄関の扉を押し開けて、俺は初めて外へ出た。強い朝の日差しに思わず目を細める。こんなにいい天気だったのか。室内は採光が今ひとつだったんだな、窓が小さいからな、と余計なことを考えた。
自宅前は路地になっていた。見渡せば、石造りと木造の建物が並んでいるのが見える。建物の密度は高いながらも、建物の青い屋根を基調に洗練された街並みだ。都市計画が上手く機能しているということだろうか。
ちなみに我が家は木造。分厚く重いドアを開いて促すと、クナが軽やかに眼の前を横切った。「ありがとう」とすれ違いざまに微笑んでくれる。可愛い。
「俺は大丈夫だから、安心して。クナも、仕事がんばって」
俺は笑顔を作ってクナを見送った。クナは荷物を片手に何度も俺を振り返りながら、大通りの方面へ歩いて行った。俺は彼女とは逆方向だ。幸いにして学校はここから近く、徒歩で数分の距離にあるらしい。
そう、ともかく俺は「PTA会長の引き継ぎ」に出席することにした。もちろん、元の世界のことはずっと気にかかっている。月音のこと、子どもたちのこと、あちらの自分はどうなってしまっているのか、考えるほど不安が襲ってくる。
しかし、「戻る」ためにはまず、自分の身に何が起こったのかを知る必要がある。そのためにはこの世界のことを知らなければならない。自然にそう思えた。この身体の記憶が影響したのかもしれない。急がば回れ、だな。
俺は気合を入れようと両手で頬を張ると、クナとは逆方向へ歩を進めた。路面は石畳で舗装されている。自宅前の小さな通りでさえ舗装路なので、かなり大規模に路面が整備されているのだと思われた。ふと立ち止まり、振り返って玄関を見やる。どうやらこの街には施錠の習慣がないらしい。心配しても、そもそも鍵がないのだからどうしようもない。
「現代日本よりさらに治安が良いってことなんだろうか……それはそれで複雑な心境だが」
小声で独りごちると、俺は努めて早足になった。自宅には時計があって、先程確認した時点で約束の時間はもう15分後に迫っていた。俺のために引き継ぎをしてくれるというのに遅刻はまずかろう。
「――ぉわっ」
路地を抜け、大通りに出たところで俺は慌てて後ろに一歩飛び退いた。
直後、眼の前を大きな生き物と、それが牽く荷台が猛スピードで横切った。あれは……馬車?いや、牽いているのは馬じゃない。犬……ものすごくでかい秋田犬のように見える。呆然と見送ってから、記憶が追いついた。
あれは、この街で「バス」と呼ばれている輸送・交通手段らしい。牽いているのは犬ではなく体長2-3mほどの魔獣で、「ワンコ」と呼ばれている。……そのままだな。この世界にも牛や馬はいるらしいが、ワンコは魔獣と呼ばれるだけあって体力とスピードが段違いらしい。
「魔獣、なんてのがいるんだよな。ここ……」
記憶の知識によれば、魔獣は名前のイメージ通り人間にとっては危険な存在で、特に街の外では襲われて被害を受けることも多いようだ。しかし、ワンコは長い年月の間に人に慣れてきた特別な種で、都市の移動や流通に重要な役割を果たしている。魔獣であっても、うまく共存しているらしい。まぁ犬は可愛いからな。
犬といえば、ペット二大巨頭のアイツはどうなんだろう。記憶を探ろうとしていると、ちょうど目に入るものがあった。
その大きな生き物は、先程のワンコと同様に荷車を牽いている。しかし、ノロノロと歩いているかと思えば、立ち止まって座り込み、後ろ足で耳の辺りを掻くと、さらには大きな欠伸(あくび)をひとつ。思わず失笑した。なお、この「失笑」は辞書に載っている正しい意味での失笑だ。
「まぁ、そうなるよな」
魔獣、ニャオ。ワンコと同様、人に慣れた魔獣の数少ない一種だ。ただ、ニャオは性質上すごく気まぐれで、思い通りに手伝ってくれるということが少ない。この性質にも個体差があり、最も言うことを聞いてくれやすいエリートのニャオがバスの運行を支えているが、今見た通りの気まぐれさで、所要時間が全く読めないらしい。このため、貨物輸送はワンコが担っているし、急いでいるときは決してニャオのバスには乗ってはいけないとされている。
そんなニャオのバス路線がなぜ維持されているのか一瞬不思議に感じたが、乗客たちの表情を見れば疑義はすぐに氷解した。満員の荷台から5-6名ほどが目を細め、うっとりと毛づくろいするニャオの様子を見つめている。猫――いやニャオ好きの人たちの愛情が、この路線の運営を支えているのだろう。
しばしこの街のバス交通網に思いを致したところで、俺は用件を思い出して再び歩を進めた。他にも見慣れない景色や人々の営みに目を奪われそうになるが、今度はできるだけ脇目も振らず歩くことにする。
やがて、目的地である学校――王立学校エデュカスコラの正門が目に入った。石造りの門構えは見上げるほどの威容で、精緻な彫刻が施されている。王国都市の志ある子弟がこぞって門を叩く、百数十年の歴史を誇る名門校である。
こんな学校にPTA? さらには俺が会長? 務まるのだろうか……。日本では確かにPTA会長を務めてきたが、地元にある普通の公立小学校で、ついでに俺は普通の勤め人だぞ。
<PTA会長だか何だか知らないが、よその子どものこと気にする暇があったら自分の子供をちゃんと躾けろよ!>
投げかけられた言葉が不意にフラッシュバックした。自分の力不足に歯噛みする思いだが、とにかく今は進むしかない。心中で己に喝を入れ、俺は正門横の受付に声をかけた。来校者は名簿に名前と用件を記入するらしい。この世界の文字が書けるか少し心配だったが、文字種の少ない表音文字だったことも幸いしたのか、即席で乗り切ることができた。
カイ・アキル。――PTA会長業務引き継ぎに出席のため。
「お疲れ様です。PTA室は左手に進んでいただいて、西棟1階の廊下の突き当りです」
受付に座っていた初老の男性がにこやかに告げる。便宜上、守衛さんと呼ぶことにする。俺は礼を伝え、西棟廊下を進む。道中、歴史の深い見事な建造物とその意匠に目を奪われ立ち止まってしまわないよう、心を砕くことになった。
屋内は静寂が支配し、不思議と子どもたちの声はしない。否応なしに緊張しながら、やがて辿り着いた突き当りの重厚な扉に「PTA室」と記されていることを確認する。しかし、日本語の――というか英語の「PTA」がそのまま「PTA」と表現されているんだがこれはどういうことだろう。
恐る恐るノックすると、室内から深く、重い声が響いた。
「どうぞ」
前会長だろう。こちらも負けじと声を張る。
「失礼します」
心を決め、冷たい金属のノブを握ると、想像より重いその扉を俺は身体で押し開いた。
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