第2話「状況把握に努めますのでご協力ください」

 まだ分からないことは山積みだが、とりあえず把握した。ここは自分の居た世界ではない。

 これが夢や幻覚の類でないのであれば、異世界に転移した件は了承した。

 俺はひとつ深い呼吸をして、半ば無理やり心を落ち着けた。息を整えると心が整う。


「クナ、まだ時間はあるかな?」


 知識としてだけ知っている言語。実感は伴わないまま、それを使ってクナに呼びかける。

 この言語はパティアレゴス共通語、または単に共通語と呼ばれているらしい。文法が日本語のそれに近いこともあってか、知識として知った直後であっても、それほど苦も無く話すことができた。

 クナは不思議そうに寝台に腰を下ろした。


「うん、まだあと少しは。でも、多分15分くらいかな」


 「15分」と訳したが、驚くことにこれは地球の「15分」とほぼ同じ概念であるようだ。つまり、1日は24時間、約30日で1ヶ月、12ヶ月で1年である。なんて分かり易い。

 時間、暦は確か天体の動きを元にしているはずだ。この世界の天体や惑星系は、地球とほぼ同じ自転・公転周期を持っているということになるのか。それは――どういうことなんだ?

 ……いや、一旦余計なことは忘れよう。


「ごめん、すごい変なこと聞くんだけど。俺とクナは結婚している。俺はクナの夫で、クナは俺の妻。ということで合ってる……よね?」


 クナは驚いて目を見開いた。可愛い。しかしすぐに何かを察したのか、やや神妙な顔で頷く。


「はい。合ってます」


 合っていた。よかった。

 先刻クナに触れられたとき、情報や記憶が一気に脳内に溢れて解けていくような感覚を得た。お陰で言語を理解することができたけれど、それはあくまで貰い物のような感覚で、記憶には当事者感がまるでない。自分の記憶というより、「この身体の記憶」という感じがする。一応記憶はあるはずなのだが、すっきりしない。色んなことを知っているはずなのに、敢えて知ろうとしないと「分かる」ことができないという、不思議な感覚がある。

 ……うん、「この身体の記憶」という表現は直感的にしっくり来るな。あれ、ということはひょっとすると。


 俺は、寝ている間に布団としてかけていたらしい、重い毛布のようなものをひっくり返して、自身の右の下腿部を確認した。ここには子供の頃に交通事故で開放骨折した手術跡がある。……あるはず、だった。

 息を呑む。今の自分の足には、その傷はない。それほど目立つものでもないが、切開とボルトの痕がはっきりと残っていたはず。自分の記憶にあるのと寸分違わない自分の足なのに、傷跡だけが抜け落ちているようだった。

 恐る恐る自分の顔に触れてみると、その感触は普段と同じものだった。しかし、これは。


「あの、アキル」


 自分の足を見つめたまま考え込む俺を、クナはやや心配そうに見つめてきた。一瞬彼女の存在を忘れかけていたことに気づいて申し訳なく思う。この人を抱き締めてしまいたいと思った。しかし、彼女は月音ではない。一時の不安や恐怖から、彼女に甘えるようなことをしてはいけないのではないか。


「記憶が……混乱してるんだね。何となく感じるよ。すごく不安だね」


 驚いたことに、彼女はほとんど正確に俺の状態を言い当てた。察しが良すぎる。この賢さと俺のことを見透かすような目は、まさに月音だ。


「大丈夫だよ、あなたはアキル。私があなたを守る」


 それから、寝台に腰かけたままそっと、けれどはっきりと強く、俺を抱き締めてくれた。

 ああ、この人は月音だ。間違いなく、この世界の俺にとっての月音なのだ。


 俺自身にあったはずの古傷のないこの身体は、俺のものではない。アキルという人物のものだ。ならば、突拍子もないことだが、それでも恐らく、俺の精神だけがアキルの中に転移したと考えるべきだろう。アキルの身体にはアキル自身の記憶が残されていて、俺はそれを引き出すことで言語を理解するようになった。クナの名前も、自身との関係性も、知識として知った。記憶には勿論、アキル自身のことも含まれている。どういう訳か、アキルは俺と瓜二つの容貌でもある。

 つまり、この世界で今、俺は陽であってアキルということだ。


 葛藤を飲み下すように、俺はクナを抱き返した。自然な優しい匂いがする。月音は普段からあまり香りを身につける習慣が無かったためか、彼女は月音と同じ匂いがした。しばらく抱き合ってから、俺は目を閉じて、クナができるだけ安心してくれるようにと願いながら、言った。


「ありがとう。ほんとはまだ少し混乱してるけど、おかげで大分落ち着いたよ」


 事実そうだった。もし一人でこの世界に放り出されていたら、俺は情けなく泣きながら逃げ回っていたかもしれない。クナの存在は、月音と子どもたちの元へ帰り着くための重要な手がかりとして俺の道を照らしてくれる。何より、その容貌が、表情が、心が、存在が、ほとんど月音そのものなのだ。

 思わず抱き締めてしまったが、これは決して浮気ではない。……と思う。

 クナは安堵したように息をついて、俺の顔を覗き込んだ。


「よかった。今日はこれから約束があったと思うけど、行けそう?」


 ……約束? 何だろう、もちろん知らない。

 俺は微かに笑みを引きつらせ、左に首を傾げた。クナは苦笑する。


「やっぱり覚えてないか。今日は、ほら」


 しなやかな指で俺の両頬をつまむ。それを引っ張りながら、クナはにっこり笑って告げた。


「PTA会長の引き継ぎを受ける日、でしょ」


 えっ。


 一瞬、思考が停止した。

 それから、その強烈な単語に一気に思考が撹拌される。


 最初に浮かんだ言葉を、俺はそのまま口に出してしまっていた。頬を引っ張られたままなので若干ふがふがと尋ねた。


「PTAあるんですか…」

「PTAはあります」


 クナは確信を込めて頷いた。あるらしい。どーすんだこれ。

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