第1話「異世界に転移した件、ご了承ください」

 光から眼球を守るという機能において、瞼は時に無力だと知った。

 目を開いたのは、視界を焼き尽くさんばかりの強い光が通り過ぎた時だった。その光は本当に視覚的なものだったのかと一瞬訝しんだが、しかし、思考はすぐに霧散した。


 俺はどうした?


 確か、急に全身が重くなって感覚が消えて、このまま死ぬのかと本気で思ったところまでは思い出せる。死んではいないようだ。コギト・エルゴ・スム。我思故我在。

 しかし、おかしい。


 ここはどこだ?


 仰向けに横たわっているらしい俺の視界で徐々に像を結んだのは、見知らぬ天井だった。 暗く、木の梁がむき出しの天井。まるで昔の映画に出てきそうな古びた部屋だ。目を凝らしても見覚えのない場所。少しでも情報を集めたいと身体を起こそうとするも、思うように動かない。自分の体なのに、何故か違和感がある。

 首と視線だけを動かしていくと、窓からは光が差し込んでいる。あまり大きくはない窓で、採光の役割を十全に果たしているとは言いがたい。先程意識を取り戻す時に感じた強い光は、やはり朝日というわけではなかったようだ。


 夢を見ているわけではなさそうだ。ならば、誰かが俺を運んだのだろうか。倒れた後に救急車で運ばれていたなら病院にいそうなものだが、この場所に心当たりが全く無い。しかし、思考を巡らせている間にも心中で伸ばしていた手が身体の操縦桿に届いたらしい。ひどく緩慢な動作だが、身を起こすことができた。


「だ……れか」


 誰かいないのか、と声を出そうと試みるも、上手く発声できなかった。

 焦るな。ゆっくり思い出せばいい。思い出す? 何を?


 もしかして俺は何年間も寝たままになっていたとか、そういうことなんだろうか。あの夜の異変がきっかけで植物状態になった俺を、やがて家族は支えきれなくなり、何らかの経緯で遠く離れた地で療養させている、とか。

 ――全く、無駄な想像力ばかり逞しいな。今必要なのは事実だ。


 誰かの声がした。何とは聴こえなかったが、明らかに人の声だった。足音が近づいてくる。俺は再び身を起こそうと試みた。まだ満足に動けない。何も分からない状況でも、少しでもできることを増やしておきたかった。

 木製の床を踏むミシミシという足音は、俺のいる部屋の前で止まった。それから、遠慮がちにドアがゆっくりと、少しだけ開く。その隙間から顔だけを覗かせたのは、驚いたことによく見知った顔だった。


「……月音!」


 照明もない暗がりでも、俺は確信を持ってその名前を呼んだ。思いの外はっきりと声が出た。世界で一番信頼している妻の顔を見て、俺は一気に安堵した。相変わらず可愛い。

 呼びかけられた月音は、少し驚いたように目を見開き、そっと室内に一歩踏み入ってくる。


「月音、ここはどこ? 何があった? 子どもたちは……?」


 月音は答えない。こちらに歩み寄りながら、眉根を寄せ首を傾げて、何かを言った。しかし、聞き取れなかった。おかしい。月音はいつだって明晰で、自分の意見をはっきり話すし、発話もすごく明瞭だ。いや、今の言葉だってこもっていたりぼやけていたりしたわけじゃない。聞き慣れた月音の声だった。でも、分からない。これは……言葉の意味が分からないのだ。


「XXXXX、XXXXX? XXXXXXXXXXX?」


 よく見れば、月音は装いも普段の様子とは全く異なっている。見慣れない地味でシンプルな自然素材のようなワンピースを着ているし、いつも下ろしている髪を束ねアップにまとめているようだ。自分は、と今更ながら身体に目を落とすと、麻か何かだろうか、恐らくは月音のものと同じ素材のゆったりした上下に身を包んでいる。


 俺がろくに反応できずに困り顔をしているので、月音は心配そうに俺の額に手を当てた。


「XXXXXXXXX……」


 熱はなさそうだけど、とでも言ったのかもしれない。

 しかし月音の手が額に触れた次の瞬間、俺の頭の中で閃光が走った。それから、決壊したダムから水が溢れるように、膨大な情報の氾濫に曝される。

 俺はそのまま、衝撃に圧されるようにして、しかしゆっくりと寝台に身を横たえた。


 ――知った。いや、思い……出した?


「……大丈夫? どうしたの? どこか、痛い?」


 恐る恐る声をかけてくる月音。いや、違う。彼女は。

 俺は必死に混乱と恐怖を沈めながら、落ち着いた声に聞こえるよう努めて言った。


「ごめん、ちょっと……寝ぼけてたみたい。もう、大丈夫だよ。……クナ」


 俺はその名を呼んだ。月音は、いや、クナは、ようやく少し安堵した様子で俺の髪に触れた。


「なかなか起きてこないし、何言ってるのか分からないし、びっくりしたよ」


 彼女はよしよし、と言ったわけではないが日本語のそれに相当する言葉を呟きながら俺の髪を撫でてくれた。優しい。可愛い。俺の妻と同じ顔、同じ声を持つこの人は、しかし月音ではないのだ。思わず涙が溢れそうになるが、必死にそれを押し留めた。


 ここは、俺の知っている世界ではない。

 俺は海地(かいち)、陽(あきら)。月音は俺を「よーくん」と呼んでくれる。

 しかし、月音にしか見えない彼女は、俺の頭を撫でながら呼びかけた。


「アキル。そろそろ、起きよう?」


 見知らぬ天井、ではなかった。

 俺は、見知らぬ世界にいるのだ。

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