第29話

 朝食を終えて、昼頃になるまでに片づけをしてから、それぞれのペアが家探しに出発した。

 島田と綾瀬のペアは、意外にも息が合っていた。なにかを探すことが好きな女子と、課題を与えられると能力を発揮する女子だ。お互いにたいして言葉を交わさなくても、次に調べるべきポイントに歩を進めていた。

 小牧は食べ物ばかり探そうとするので、鴻上は持て余し気味だった。しかも見つけるのはエロ本や野良犬の死体ばかりで、食欲を満たすものではなかった。  

 十文字は新妻にべったりだった。少し歩いてはしきりに休憩を提案する。どこかで抱いてもらいたいとの淫靡な魂胆が丸見えであったが、新妻は昼下がりの情事よりも家探しを優先したかった。

 そんな煮え切らない姉の欲望に火をつけようと、弓矢をおいてスカートとショーツをずり下げ、準備ができたことをアピールする。だが優先順位の上位に彼女の身体はなかった。新妻はため息をついて首を振った。すると十文字は不機嫌になってしまい、プイと一人で行ってしまった。

「やれやれだな」

 今晩は相手をしてやらなければ、当分不貞腐れているだろう。どうやって喜ばせてやろうかと、考えていた時だった。

「千早姉さん、千早姉さん」

 遠くのほうで十文字が叫んでいた。愛人を求める甘ったるい声ではなかった。急迫を告げる、やや緊張感のある声色だ。

 新妻は走った。十文字來未は以前、河原でレイプされかけている。またもや同じ目にあったら、今度は立ち直れないかもしれない。

 崩れ落ちて、もはや原型を留めていない中華料理店の前までやってきた。そこにいたのは十文字だけではなかった。彼女の傍らに少年が立っていた。顔が煤のようなもので汚れきっていた。十文字がしゃがんで、ハンカチにペットボトルの水をつけて拭いていた。少年は喉が渇いていたのか、ペットボトルを奪い取ってゴクゴクと飲み始めた。

 その子を新妻は知っている。図書館で、タヌキ顔の中年女と一緒に暮らしていた少年だ。

「千早姉さん」

 十文字の表情が崩れていた。深く悲しんでいる。新妻は彼女にではなく、少年に訊ねた。

「なにがあったんだ」

「きのうのじしんで、おれの家がこわれたんだ。そんで、みんなうまっちゃった。うまっちゃったよ」

 そこまで言って、カンタロウは泣き出した。埋まったという表現だが、その実は死んでいるということだ。

「母さんはどうした。おまえたちの母さんも死んだのか」

「母ちゃんは、はさまってるよ。はさまってうごけないんだ。チンミもはさまってる。まだ生きてるよ。イタイイタイって泣きながら生きてるんだ」

「なんで助けないんだ」

 新妻の、きびしい叱咤がとんだ。事情を察している十文字が、「姉さん」と叫ぶ。

「おれじゃどうしようもないんだ。コンクリのかたまりだから、ぜんぜんうごかせないんだ。暗くてよくわかんないし。母ちゃんが、なんかあったらお姉ちゃんたちに助けてもらえって言ってたから、だから、十文字のお姉ちゃんに助けてもらおうとおもって、でも、どこにいるのかわかんなくて、ずうっとさがしててもわかんなくて」

 彼は昨日の深夜に図書館を離れて、新妻グループのネグラを目指した。だが、ゲームセンタービルを見つけられず、さ迷っていた。そこを、偶然十文字が発見したのだ。

「千早姉さん、私行くよ。いま行けば、きっと助けられるよ」

「まて、來未」

 はやる妹を新妻は制止した。状況も把握せず、やみくもに行くのは拙速なのだ。十文字が激昂しそうな目で見つめる。

「カンタ、何人が無事なんだ」

「図書館がつぶれちゃってるから、よくわかんないよ。でも、母ちゃんとチンミは生きてるって。チンミは手がつぶされて動けないんだ。母ちゃんは狭くて出てこれないよ」

 チンミという少女は、コンクリートの塊に腕を挟まれて動けないでいるとのことだ。タヌキ顔も、瓦礫に埋もれて脱出できないようである。

「來未、いったん家に戻るよ」

「千早姉さん、なに言ってんだよ。そんな悠長なことやってたら、助かる者も助からないって」

「來未、落ち着け。コンクリートに潰されているんだったら、素手じゃどうにもならないって。使える道具を持っていかないと助けられないだろう。それと穏香を連れていく。怪我人を、その場で治療させるんだよ」

 子供たちのことがただ心配なあまり、十文字は冷静な判断力を欠いている。もともとが猪突猛進タイプなので、あまり深く考えないで走り出そうとするのだ。

「十文字のお姉ちゃん、このお姉ちゃんのいうとおりだよ。とにかくでっかいんだよ。人のちからじゃどうにもなんないよ」

 鉄筋コンクリートの建物が倒壊している。重機でなければ掘削できないであろう。図書館の住人にうち、二人はどうやら生きているらしいが、他の子どもたちは絶望的だと、新妻は判断していた。

「わかったよ。だったら早く帰ろう。道具をもってすぐにいかないと、日が暮れちゃうよ。綾瀬も引っぱっていくから」

 新妻と十文字は少年を連れて、ひとまずゲームセンタービルに帰ることにした。カンタロウは怪我もないようで、元気で二人についていくことができた。

 ゲームセンタービルに戻ると、新妻は使えそうな道具を物色していた。だが目ぼしいものは、コンクリートを砕く目的の大ハンマーとジャッキぐらいしかない。削岩機などの機器はないし、あっても重量がかさんで運ぶのに難渋する。それに、そもそも電気がないので作動しない。十文字はハンマーとタガネをリュックに入れるが、それらが役に立つかは疑問であった。

「綾瀬は、なにやってんだよ」

 綾瀬の帰りを待っている十文字はイライラしていた。彼女なしで出発しようとするが、新妻の許可がおりなかった。ブツクサと悪態をついて一時間ほどが経過した。島田と綾瀬のペアが、ようやく帰ってきた。

「姉さんたち早いなあ。どこかいいとこ見つけたのかい」

 大広間の不穏な空気を訝しく思いながら、島田が言った。そして、すぐに子どもの存在に気がついた。

「あれえ、おまえ、あの時のガキんちょじゃないか。なんでここにいるんだよ」

「それは」新妻が手早く説明した。

「マジか」

 子どもたちの多くが死んでいるだろうと、すぐに察した。少年に対しどう慰めたらよいのか、言葉を迷っていた。

 綾瀬は図書館のことを知らないので事情がのみ込めない。カンタロウをしげしげと見つめている彼女に、島田は以前の出来事を説明した。

「私と來未、友香子で行ってくるよ。母親ともう一人は生きているみたいだから、助け出したいんだ。それと穏香も一緒にきてくれないか」

「私がですか。でも力仕事は無理だと思います。お役に立てそうではないですけど」

「姉さん、綾瀬は無理だよ。今日だってフラフラしっぱなしで、あぶなっかしくてさ。まだ、体力が回復してないんだよ」

「怪我人を、その場で治療してほしいんだよ。とてもじゃないが、ここまで連れてこれないだろう。穏香、悪いけどなんとかならないか」

 もし綾瀬がどうしてもと固辞するのであれば、諦めようと新妻は思っていた。たしかに幽霊のようにやせ細った彼女が、隣街の図書館まで行くのは辛そうだからだ。

「千早姉さん、こんなやつアテにしたって無駄だ。私たちだけで行こう」

 十文字のイラつきは続いている。はなから綾瀬を戦力として数えていない。一人でも応援がほしいカンタロウが困った表情をしている。

「わかりました。私も行きます。医療器具をまとめますので十分ほど時間をください」

 十文字が挑発したからではない。自分の力で子供たちを救うことができればと、純粋に思ったからだ。薬品類の梱包をするため、フラつく足取りで自室へと行った。

 きっかり十分後に、綾瀬が大広間へ戻ってきた。その頃には、他の者たちはリュックを背負い、すぐにでも出発できる体勢だった。

 図書館への救助隊は、新妻と十文字、島田、綾瀬に少年となった。鴻上と小牧は、まだ帰ってこない。新妻は二人が帰ってきても自分たちのあとを追わないようにと、天野に指示を与えた。本拠地が手薄になり過ぎるのも危険だからだ。

 立ったままで簡単な食事をとってから、出発することになった。天野が食料庫から缶詰類を持ってきて、次々と開けた。カンタロウは、缶詰の赤飯をがむしゃらにかきこんでいる。綾瀬もトウモロコシの業務用缶詰を抱え込んで、必死に食べていた。ここからは体力勝負となるので、皆食べられるだけ食べようとしていた。 

 救助隊が、ゲームセンタービルから出発した。いつもの慎重な足取りとは違って、早歩きである。

「今から行っても、夜になっちまうな」

「夜でも何でも関係ねえよ」

 いつにもまして威勢がいい十文字を、島田は多少疎ましく思っていた。ただしカンタロウには、彼女の意志が心強かった。

「カンタ、今日は夜通しだからな。覚悟しとけよ」

「わかってるよ、十文字のお姉ちゃん。早く行こうよ」

 彼女らは暗がりでも作業ができるように、灯油ランプと懐中電灯を多めに持っていた。工具類が予想以上にかさばって、とくに2tジャッキは新妻の背中にずしりと食い込む。

 身軽な少年と血気盛んな十文字が、先へ先へと進む。体力のない綾瀬は、相変わらずフラフラと歩き、集団から遅れ気味になっていた。

「おい、ちんたらちんたら歩くなよ」

 先頭のほうから、最後尾へ檄が飛んだ。

「いい加減にしろよ、來未。綾瀬をこれ以上責めるな」

 さすがに島田が注意する。綾瀬はついて行こうと青い顔して歩を進めるが、息があがっていた。新妻は、彼女が一緒についてくるのは無理だと判断した。

「友香子、穏香を頼むよ。無理をしないで来てくれ。來未、私たちで先に行くよ」

 新妻と十文字、少年の三人が先行することとなった。島田は綾瀬を気づかい、小休止しながらの進軍となった。



 三人が目的地に着いた頃には、すっかりと日が暮れていた。そこには建物がなく、図書館があった場所は、ただのコンクリート片の山になっていた。

 瓦礫の山が見えるやいやな、カンタロウが走り出した。暗闇の中、小山のようにうず高く積み上がった瓦礫のすき間に頭をつっ込んで、必死に叫んでいる。すぐに新妻と十文字が駆けつけた。

「あらまあ、いつぞやのお姉さんたちじゃないの。なんだいカンタ、連れて来なくてもいいのに。あんただけが逃げればよかったんだよ」

 粉々になった瓦礫の上に、大きなコンクリートの柱が折れて覆い被さりっていた。そのわずかなすき間のかなり奥、十五センチ四方の穴の先にタヌキ顔の頭が見えた。はっきりとした言葉で話していたが、その力は弱っているように思えた。

「中は、どんな具合なんだ」

「狭くてさあ、身動きがとれないねえ」

「いまペットボトルを入れるから」

「ありがたいねえ。ノドがカラカラだったんだよ。末期の水だよ」

「おばさん、縁起でもないこと言うなよ」

 新妻がペットボトルを、そっと差し入れた。下向きの傾斜があるので、ボトルはスルスルと滑り落ちて、タヌキ顔の頭にあたった。ほとんど身体を動かせないなか、なんとか手を顔までもってきて、ボトルを掴んで吸うように飲んでいた。

「ねえ、チンミは大丈夫かい。昼まで泣いていたんだけどさあ。なんだか静かになっちまったんだ。きっとノドが渇いているはずだから、すまないけど水をやっちゃあくれないかい」

 チンミという女の子が埋まっている場所まで、カンタロウが十文字を連れてきた。やはりコンクリート片が覆いかぶさっている。ただし、タヌキ顔の穴ほど奥ではなかった。入り口も、かろうじて大人の身体が入るほどには開かれていた。

 懐中電灯片手に十文字がもぐり込んだ。腰まで入ったところで、女の子に到達した。チンミは眠っているように見えた。十文字が首に手を当てて脈を探った。

「よかった、生きてるよ。気を失っているだけだ」

 女の子の左手首が、コンクリートに潰されていた。激痛と泣き疲れで、気絶してしまったのだろうと判断した。

「カンタ、足を引っ張ってくれ」

 穴はギリギリのすき間しかないので、入るのはいいが出るのは難渋する。  

「そっちはどうだった」

 新妻が駆け寄ってきた。両方の状況を吟味してから、優先順位と救出作業を練ろうとしていた。

「チンミは生きてるよ。いまは気を失ってるけど。瓦礫に左手が潰されてるんだ。あれじゃ引っぱれない」

「ジャッキで持ち上げたらどうだ」

「ジャッキをかける場所がないよ」

「タガネで削るか」

「ヘタしたら、上のコンクリが崩れて、かえって危ないよ」

「ちょっと、見てくる」

 今度は新妻がもぐり込んだ。自分の目で確かめた方が早いと考えた。

「ああ、これはマズいな。いまにも崩れてきそうだ」

 チンミを囲っている瓦礫は、絶妙の配置で空間をつくっていた。むやみにバランスを崩せば、ジャンガのようにバラバラと崩れ落ちる危険性があった。

「千早姉さん、どうする」

「とりあえず、いったん引っぱってくれ」

 十文字に引きずられて新妻が出てきた。カンタロウを交えて、三人で緊急ミーティングとなる。

「オバサンのほうは、コンクリを削るにしても時間がかかる。弱ってはいるけど、水と食い物を差し入れたら当分は大丈夫だ。女の子のほうが先だな。なんとか崩れないように救出できないか」

「手が潰れちまってるから、あれを何とかしないと。血が止まらなくなったら、出血多量で死んでしまうんじゃないか」

「血は止まっているみたいだから大丈夫だと思う。問題は、手が挟まっている、あの崩れそうな瓦礫を、どうやってよけるかだ」

 女の子の手首を潰しているコンクリート片が天井の瓦礫を支えているため、作業は慎重に進めなければならない。

「やっぱタガネで削るしかないじゃん」

 十文字はすでに、リュックからタガネを取り出している。新妻はなにかを考えていて、唐突ではあったが作戦を変更することにした。

「いや、女の子は後にしよう。先におばさんところのすき間をひろげるんだ」

「なに言ってんだよ、千早姉さん。どう考えても女の子のほうが先じゃんか」

「あの子は意識がないだろう。そこに私たちがいってガンガンやったら、たぶん衝撃で目をさますんじゃないか。手がつぶされてるんだよ。相当の激痛で苦しむはずだ」

「だったら放っておくのか」

「もうすぐ穏香たちが来るはずだよ。薬をもっているから、それで眠らせるなりしてからのほうがいい。とにかく穏香に診てもらおう」

 いたって冷静な判断だった。十文字は釈然としない表情だったが、逆らう気はなかった。

 新妻と十文字は、タヌキ顔が埋まっているすき間をこじ開けるとこに専念した。ありったけの灯油ランプと懐中電灯を点灯させての作業となった。

 二人は、ハンマーとタガネで入り口のコンクリートを削ってゆく。柱は数十センチの奥行きがあるので、力のかぎり叩けどカドしか削れていない。しかも相当に固く、拡げるまでには何日もかかりそうだった。

「千早姉さん、ジャッキであげてみれば」

「そうだな」

 ジャッキが用意された。テコ棒を上下させると、ジャッキの受けの部分がコンクリートの柱を咥えこんだ。ギシギシと不気味な音が響く。ほんの少しだけ持ち上がった刹那、中にいる中年女が悲鳴をあげた。頭部が粉だらけになっている。  

「ああ、ダメだダメだ。持ち上げると崩れてしまう」

 ここも、微妙な力学で成り立っている閉鎖空間なのだ。無遠慮な作業は、命に係わる均衡を破壊することとなる。

 二人が四苦八苦しているあいだ、カンタロウは瓦礫の山のあちこちで叫んでいた。埋もれているほかの子供たちの安否を探り当てようとしている。絶望的な試みであるが、彼はあきらめなかった。

 一時間ほどして、ようやく島田と綾瀬がやってきた。綾瀬は途中で歩けなくなったのか、島田に背負われていた。背中の荷物を降ろすなり、島田は地面にぶっ倒れてしまった。やせ細っているとはいえ、大人の女を背負ってきたのだ。体力の限界を超えていた。

「はあはあ、もうだめだ、死ぬう、死にそうだ」

 大仰な声をあげて、ペットボトルの水を浴びるように飲んでいた。しまいには、地面に大の字となった。

 背負われていた綾瀬は、島田とは対称的に体力が少しばかり回復していた。すぐに灯りが照らされている場所へ行き、現場責任者に現着したことを告げた。

「姉さん、遅くなりました」

「おお、穏香、やっと来たか」

 頼りになる妹の到着に、厳しかった新妻の表情がゆるんだ。

「それで、どんな具合ですか」

「向こうにいる女の子を診てほしいんだよ。腕がコンクリに潰されていて、引っぱりだせない。無理に瓦礫をどけると、崩れそうで危ないんだ」

 新妻は綾瀬を、女の子が埋まっている穴へと連れて行った。十文字はタヌキ顔の穴で、休まずにタガネを叩き続けている。

 チンミの穴の中に、やせ細った綾瀬の身体がスルスルと入っていった。懐中電灯で女の子の様子を診て、独力で戻ってきた。

「何かを動かしたりすると、崩れて生き埋めになると思うんだ」

「私も、そう思います」

「とりあえず、今は意識がないから、そのまま薬で眠ったままにしてくれないか。なんとか腕を引き抜いてみるよ」

「意識は戻っていますよ。ただ、衰弱がひどくて途切れ途切れですけど」

「え、そうなのか」

 女の子に意識はあった。気絶していたのではなく、弱りきっていたのだ。新妻と十文字では確認できなかった。  

「あの腕は骨まで潰れているので、もうダメでしょう。おそらく神経も切れているでしょうし」

 そう言いながら、綾瀬は自分のリュックから医療器具を取り出していた。消毒液にガーゼ、包帯に注射器、メスなどを取り出した。

「おいおい穏香、なにをする気なんだ」メスの必要ないだろうと、新妻は焦った。

「腕を切り落とします。ヘタに瓦礫をいじくるよりも、そのほうが安全じゃないですか」

 うまく瓦礫から手を引き抜いても、損傷がひどくて手首から先は絶望的だった。綾瀬の選択は、間違いではなかった。

「そんな大手術、できるのか」

「なぎさの壊疽した腕を切り落としたのは私ですよ。それに、この子の腕は細いですからね。衰弱しきっているので、早く出してあげないと死んでしまいます」

 さらにリュックの中から、点滴のバックと小さな金ノコを取り出した。腕を切り落とすというのが、本気であると新妻は悟った。

「姉さん、暗いと間違えるから、懐中電灯をあるだけ持ってきてくれますか。それと誰か一人、私のそばについていてください」

「ああ、わかった」

 淡々と準備を進める綾瀬の背中に畏怖の念を感じながら、新妻がタヌキ顔の穴に戻ってきた。

「來未、懐中電灯を持っていくぞ。ランプだけでなんとか頑張ってくれ」

「それはいいけど、向こうはどうなってんだよ」

「穏香が女の子の腕を切り落とすよ。いま手術の準備している」

「手術って、えっ」

 さすがに驚いたようだ。

「私と來未でここを何とかしよう。女の子のほうは穏香にまかせるよ」

 数本の懐中電灯を持って行くと、島田が傍にきていた。暗いために表情は読み取れないが、疲れているのか、ため息のような呼吸を繰り返していた。 

 新妻が、すべての懐中電灯を渡した。綾瀬は、一本一本懐中電灯の明るさを確かめる。

「腕を切り落とすんだってさ」

「らしいな」

「穏香、私は向こうでおばさんを助けるから、あんたと友香子でやれるか」

「うん、なんとかやってみる。けど、助からないかもしれない」

 女の子は手を潰され続けている上に、半日以上狭い穴倉の中に閉じ込められている。いつ、こと切れてもおかしくはない。

「危なくなったら無理せずに逃げるんだよ。二次被害に遭って、あんたらまで死んでしまったら、たまらないからな」

「姉さん、それはわかってるよ。いざ崩れそうになったら、綾瀬がイヤだって言っても引っぱりだすからさあ」

「穏香、友香子、たのんだぞ」

 二人を残して、新妻はタヌキ顔の穴へと戻った。そしてハンマーとタガネを持って一心不乱に叩き始めた。

「綾瀬、手術はどれくらいかかるんだよ。明日の朝まで終わるのか」

「なに言っているの。そんなにかかったら私がもたいよ。三十分くらいですむと思う」

「ほんとに大丈夫なんか」

「イチかバチかよ」

 綾瀬が穴の中に身体を入れた。島田が、彼女の背中伝いに懐中電灯を差し入れる。光源を適所にセットし、切断する箇所を照らす。点滴バックをかける個所をなんとか確保して、針を女の子の血管に挿した。

「かなり脱水している。ダメかも」

 針を刺しても、女の子はほとんど反応を示さない。綾瀬は素直に弱音を吐いた。暴れられないように、点滴に鎮静剤を混ぜる。

「綾瀬、まさか麻酔なしでやるのか」

 穴の外で待機している島田には、彼女がどういう処置をしているのかまったく見えない。ただ単純に、ノコギリで切断するのだと思っていた。

「そんなわけないでしょう。いまから注射を打つのよ。これ以上血圧が下がらなきゃいいけど」

 窮屈な穴の中でのオペは困難を極めた。

 綾瀬は仰向けになって、見上げるような格好になった。以前、友人の壊疽した腕を切断したことがあったが、その時は清潔なベッドの上で、しっかりと消毒して行った。これほどまでに雑菌だらけの場所での手術は危険であるし、たとえうまく切り落とすことができても、その後の合併症で死んでしまう可能性がある。まして彼女は医師ですらないのだ。

「そんなの覚悟の上よ」

 自分自身に言い聞かせるように、綾瀬はネガティブな邪念を追い払った。大きく息を吸うと、さっそく手術にとりかかった。

「いっつもいっつも、こんなのばっかりじゃないの」 

「え、なんだって」

 なにかの指示かと思い島田が訊き返すが、穴の中からの返答はなかった。

「十文字の姉ちゃん、みんなダメだ。なんにもない。死んじまったよ」

 仲間を探していたカンタロウが、泣きながら十文字のもとへやってきた。暗闇の中で、その姿よりも泣き言のほうが目立っていた。

「おれのせいだ。おれがみんなを助けなかったからだ」

「なに言ってんだい。カンタ、あんたはよくやったよ。みんなはさあ、兄ちゃんは悪くないって言ってるさ」

 穴の奥からタヌキ顔が慰めるが、そうすると少年は、さらに泣いてしまうのだ。

「カンタ、あきらめるな。私らは、この穴をこじ開けるのにまだ時間がかかりそうだ。お前は頑張ってみんなを探せ。あきらめちまったら、それで終わりだ」

 十文字がカンタロウの尻をぶっ叩いた。少年がウンと頷いて、再び瓦礫の山に挑もうとした時だった。

「おいおい、こんな時になんだよ。余計なのが来やがった」

 島田が大声で怒鳴った。暗闇の向こうを見つめながら静かに立ち上がり、脇に置いていた日本刀を抜き身にしてかまえた。闇と綾瀬の脚を交互に見ながら言う。

「綾瀬、悪いけど懐中電灯を一本、貸してくれないか」 

「いま手が離せないって」

 彼女は手の骨を金ノコで切断している最中だった。とてもじゃないが、島田の要求に応じる余裕はない。

「おーい、そっちから誰か来てくれないか」

 島田の呼びかけに、マズい事態になっているのだと確信した新妻は、自ら出向くことにした。

「來未、ちょっと行ってくるからここ頼むよ。それとカンタ、ここにいたほうがいい。十文字の姉ちゃんを守ってやりな」

「うん、わかった」

 コンクリートの切削作業を十文字に任せ、新妻は64式小銃をもって暗がりの中を小走りする。

「友香子、どうしたんだ」

 灯油ランプを一つ持って、新妻がやってきた。島田はずっと暗闇に視線を集中している。リーダーを見ずに言った。

「あっちに何かいるよ。いやな気配だ」

 島田の視線の先を見る。最初はなにも感じなかった新妻だが、集中すると闇に浮かぶ光る眼が見えた。

「あれは何だ」

「たぶん、野犬だね。しかも群れでいそうだよ」

「こんな時に」

 野犬の群れが、崩れ落ちた図書館の瓦礫の中から、血の匂いを嗅ぎつけたようだ。

「いま襲われたらやばいな」

「一時、どこかに避難したほうがいいじゃない」

 島田の提案に、リーダーも異論はなかった。

「おばさんの穴を塞いでくるよ。犬が入ってきたら、頭をかじられちゃうから」

「そうしたほうがいいね。おい綾瀬、いったん止めて逃げるぞ。野犬の群れが来てるんだ」

「なにバカなこと言っているの。途中で止めることなんてできないって」

 穴の中から、こもった声が吐き出された。彼女は、まさに骨を切断している最中である。途中で放り出すことなどできないのだ。

「あとどれくらいかかるんだ」

「傷口を縫い合わせるから、もうちょっとかかりそう」

 最初の一匹が、ゆっくりと近づいてきた。新妻が小銃を構えた。サイトの中に大きな犬をとらえる。安全装置の切り替えレバーをゆっくりとずらした。

「友香子、あの犬ドーベルマンか」

「さあね。あたしは猫には詳しいけど、犬はさっぱりさ」

「なんか、すげえ唸っているな」

「姉さんが気に食わないんじゃない。勝気な女は好きじゃないんだよ」

「私は、どっちかっていうと犬派なんだけどさ。ワンワン」

 二人は冗談を言い合っている。余裕があるのではない。おそらく、綾瀬の手術の終わるのを待たずに襲ってくるだろう。野犬の群れ相手に、大立ち回りしなければならない。闘争本能に火を点け、アドレナリンの分泌を促していた。

「そうだ、こいつらにエサをやろう。そこにある友香子のリュックにサバ缶があるだろう。投げてやれよ」

「姉さん、マジかよ」

「大マジさ」

 新妻には作戦があった。リーダーが何事かをたくらんでいるのがわかったので、島田は彼女の指示に従うことにした。足元にあるリュックから缶詰を取り出し、ふたを開けて魚臭い中身を、ぐしゃりとつかむ。

「投げな」

 サバの水煮が空を飛んだ。野犬のはるか手前に落ちる。偵察の一匹は、唸り続け警戒しながら鼻をひくつかせた。そしてエサの匂いに抗しきれず、徐々にサバの切り身へと寄ってきた。 

「姉さん、撃つのかい」

「いんや」

 新妻は小銃を構えたままじっとしている。首をかしげている島田に、さらに放り投げるように促した。

「ほら、ほら」

 大きなサバ缶の中身が、次々と投げつけられた。最初の一匹だけではなく、二匹目、三目が暗闇から出てきた。彼らはサバの匂いを、さも愛おしそうに嗅ぐが食べることをためらっていた。

「友香子、ニャンコの干し肉があっただろう」

「え、あれまでくれてやるのかよ。もったいないって」

 何人生き残っているのかわからないので、食料は多めに持参していた。野良猫の干し肉は、彼女たちのお宝であった。

「心配するなって。倍にして返してもらうからさ」

 意味ありげにウインクする新妻の顔が、灯油ランプの淡い灯りに照らされて不気味だった。苦笑いしながら、島田はネコの干し肉を放り投げ始めた。

 野犬たちが、次々と姿を現した。勇気のある、いや無謀な一匹がエサに食らいついた。すると、ほかの犬たちも食らい始めた。

「姉さんそれは」

 新妻が手にしているのは手榴弾だ。爆音や閃光で相手を動けなくするスタングレネードではなく、爆発で殺傷力のある破片をまき散らす本物だった。放置されていた米軍車両から手に入れたのだ。

 犬たちの数は増していた。サバの切り身も野良猫の干し肉も、あっという間に食べられてしまった。まだまだ飢えを満たせない野獣たちは、なおも唸りながら、じりじりと近づいてくる。

 新妻は、残りの干し肉もばら撒いた。島田がなんとも複雑な表情で見ている。

「友香子、ニャンコ肉の代わりに犬はどうだい」

 そういって、手榴弾にサバ缶の残り汁をたっぷりと塗りつけた。ピンが抜かれそれを、新妻は野犬たちに向かって放り投げた。

「うわっ」

 とっさに伏せる島田であった。投げた本人も、地面にへばり付く。

 ひどくサバ臭いそれは、放物線を描いて獣たちのやや後方に着地した。エサの匂いにつられた野犬たちは、警戒心を弛緩させたまま我先にと突進する。

 数秒後、轟音とともに野犬たちが吹き飛んだ。血肉がとび散って、ある小型犬の頭部がサッカーボールのように転がり、仰向けになって上半身を隙間にこじ入れている綾瀬のまたぐらを直撃した。

「なにすんのよっ、ぶっ殺すぞ」

 全神経を手術に集中していた綾瀬は、不意に訪れた股間への衝撃に怒り狂った。

「こっちは、いま縫合している最中なんだ。なんだと思ってんのよ、コンチクショウ」

 優等生らしからぬ悪態だった。神聖な手技に対しての冒涜に、腹の底から怒りを吐き出していた。

 穴の奥からのこもった怒号に、新妻と島田は顔を見合わせた。

「野犬よりもおっかねえな」

「穏香って、あんなに怒るんだな。初めて聞いたよ」

 くすくす笑いながら、新妻は小銃のサイト越しに暗闇を見つめた。

「それで、犬どもはどうなったのさ」

「けっこう死んだんじゃないかな。ほかは逃げたみたいだ。まあ、これで危険はなくなったわけだ。友香子、後で肉を回収するよ」

「ネコの肉の次は犬かよ。しかもバラバラだっての。たまには脂がのった豚肉でも食いたいなあ」

「ワンコはチョロいから大好きだよ」

 野犬たちの脅威は去った。女子たちは、再び救出作業に専念できる。

「私は來未といっしょにコンクリをぶっ叩いてくるから、女の子のほうは頼むな」

「うん、わかった」

 そう言って、新妻が立とうとした時だった。

「あ、ヤバっ」

 身体がよろけてしまった。立ちくらみや貧血の類ではない。彼女が立っている地面のほうが揺れているのだ。

「地震だ」

 またもや地震であった。しかも、小さくはない規模だ。

「うわあああ、な、なんなの」

 悲鳴とも嗚咽ともつかぬ声が、瓦礫の中から漏れ出ていた。腕の切断面にコンクリートの粉がかかりそうになり、綾瀬はとっさにガーゼで防いだ。コンクリ片に力がかかり、挟まれていた女の子の手が完全につぶされてしまった。

「綾瀬、大丈夫か」

 瓦礫の積み方に、多少のズレが生じている。ギシギシと腹にこたえる音がしていた。いまにも崩れてしまいそうだった。

「ダメ、今はダメよ。まだ崩れないで」

 腕の切り離しは終わっているが、傷口の縫合がまだ途中なのだ。無理に引っぱり出して、穴の外での処置も選択肢の一つだが、綾瀬はここでやりきってしまいたいと考えていた。

 仰向けの体勢で、ずっと手術をしている。手の疲労と集中力が限界に達していた。少しでも間をおけば、指先が動かなくなりそうな気がしてならなかった。

「なぎさ、聞いて。あと、もう少しなのよ。あなたと同じ片腕の女の子を、もう少しで救えるの。なぎさ、お願い、約束通りずっと一緒だったでしょう。だから、もう少し時間をちょうだい。なぎさ、助けて。なぎさ、なぎさっ」

 彼女は神には祈らず、つい先日まで友人だった者の魂に訴えかけていた。その叫びは、あまりにも悲痛であった。新妻は瓦礫の状態が危機的だと判断していたが、綾瀬を引っぱり出すことを躊躇していた。横から島田が大声で話しかける。

「綾瀬、もうだめだ。すぐに崩れるぞ。そのまま女の子を掴め。あんたの足を引っ張るからさ」

「もう、縫合は終わった。もうちょっとよ、なぎさ、もうちょっとだから」

 綾瀬は、女の子の切断された腕に包帯を巻いている。雑菌で敗血症などにならぬように、慎重に手早く巻きつけていた。そして点滴の針を抜いて、女の子に抱きついた。

「全部終わった。なぎさ、ありがとうね」

 そう叫ぶと同時に、新妻と島田が全力で引っ張った。綾瀬はしっかりと女の子を抱いて離さなかった。二人は潰されることなく無事に出てきた。女の子は眠っているが、命の火はまだ灯されていた。その場にいる全員がホッとした瞬間、瓦礫の山がどっと崩れて穴がふさがってしまった。

「危なかったあ」

「間一髪だったな」

 新妻と島田が冷や汗をかきながら、お互いの顔を見合っていた。

 綾瀬はすぐに替えの点滴バックを用意し、女の子に針を刺した。島田の日本刀を地面に突き刺し、柄頭に点滴バックを吊り下げた。さらになにかしようとするが、どうやら疲労が限界を突破したようだ。

「手が動かない。どうなってんのよっ。もう、動け、動け、この役立たずが」

 両手がブルブルと震えていた。綾瀬は、自らの一部を泣きながら罵っている。能力の限界を知った口惜しさと、死んでしまった友人を思い出しての涙だった。

「穏香、少し休めって。よくやったよ」

 わーわー叫んでいる綾瀬を、新妻はそっと抱きしめた。頭を撫でで、彼女の苦労を精一杯ねぎらった。 

「姉ちゃんたち、こっちに来てくれよ。たいへんなんだ」

 カンタロウが叫んでいる。いまの地震で、タヌキ顔の穴にもよくない事態が発生したようだ。

「どうした」

 綾瀬が落ち着きを取り戻したので、新妻は急いで駆けつける。

「いまのじしんで穴がせまくなっちまった。それに、くずれてきそうなんだ」

「千早姉さん、あっちのほうはどうだったんだよ」

「穏香がやり遂げたよ。ギリギリだったけどな。ホント、あいつは大したやつだよ」

「まあ、それくらいやってもらわないとな」

 ホッとしたような、それでいて綾瀬の実力に嫉妬したような複雑な顔だった。

「お姉さんたち、チンミはどうなったんだい」

 より小さくなった穴のすき間から、か細い声が出てきた。タヌキ顔は元気がなくなっていた。

「女の子は助けたよ。腕に怪我をしているけど、命はなんとかなりそうだ」

 腕を切断したことは、あえて言わなかった。

「そうかい、よかった。お姉さんたちありがとう。いっつも世話になってばかりで申し訳ないねえ」

「おばさん、タダじゃないよ。きっちり借りは返してもらうから、早くそこから出てくるんだよ」

「わたしはもういいよ。ここからは出られないんだ。お姉さんたち、カンタとチンミを頼むね」

 中年女は観念していた。この狭苦しい瓦礫のすき間が、自分の最期を迎える場所だと悟っているようだった。

「おい、冗談じゃないよ。あんたの子供なんだから、あんたが面倒を見ろよ。私たちに押しつけるんじゃないって」

 もちろん、生きることを諦めるなとの激励である。それはカンタロウもわかっていた。

「わたしねえ、娘と息子がいたんだよ。でも、世の中がこんがらがっちまって、なんだかアタフタしているうちに死なせてしまったさ。旦那はどこでくたばっちまっているのかわからないし、もうね、死のうと思ったけど、なかなか死にきれなくてね」

「おばさん、その話はそこを出てからにしてくれよ。來未、やっぱジャッキで持ち上げるよ」

 ジャッキで持ち上げると、砕片が落ちてきてかえって危険である。十文字は指示に従ったらよいのかどうか迷っていた。

「そんなときにシンコやチンミを見つけたんだよ。つぶれたトラックの荷台で寝起きしていてね、お腹がすいてて、寒くてふるえてたさ。ほかにも浮浪児がいてさ、それがみんな可愛くてね。ああ、これは神様がさ、わたしに子どもたちを助けなさいって言ってるんだと思ってさあ。娘や息子だと思って助けなさいって、神様が授けてくださったんだって」

 新妻がコンクリの柱にジャッキをかけて持ち上げようとするが、ほんの少し動いただけで、大量の粉塵が落ちていた。タヌキ顔がせき込んだので、たまらず十文字が姉の手を止めた。

「でもさあ、みんな死んじまったよ。わたしは子どもを育てるのがヘタくそで、みんな死なせちまったよ」

 十文字も新妻もカンタロウも、なにも言えないでいた。それは子どもたちを背負って生き抜いてきた大人の懺悔であり、心からの告白だった。

「みんなを天国に連れて行くからさあ。カンタ、しっかりと生きていくんだよ。お姉さんたちに迷惑をかけないようにね。おっきくなったら、チンミをお嫁さんにもらえばいいんだよ」

「母ちゃん、母ちゃん」

 少年は母を呼んだ。次の言葉が、今生の別れとなることを本能的に感じていた。

「カンタ、忘れないでね。ここにいたみんなを忘れないでね」

 その時が来た。

 かすかな軋みの音が鼓膜を引っ搔いた。ハッと我に返った新妻が「來未っ」と叫び、カンタロウに抱きついて、押し倒すように瓦礫の斜面を下り落ちた。そのすぐ脇を十文字も、身体を回転させながら落ちてゆく。

 コンクリートの柱が周辺の砕片を巻き込みながら崩落し、タヌキ顔の穴を圧し潰した。灯油ランプも吞み込まれ、周囲に土埃が舞い上がる。瓦礫が崩壊する寸前で逃げ切った三人は、真っ暗闇を呆然と見ていた。

「うわあああ、」

 カンタロウが猛然と泣き出した。喉の内粘膜が出血しそうなほどの慟哭であった。母が埋まった場所へ行こうとするが、十文字が彼の手をきつく掴んだ。

「カンタっ、行っても無駄だ。母さんは死んだ。受け容れろ」

「いやだあ、離せ離せ」

 少年は十文字の手を振りほどこうとして、何度も叩いた。子どもといえども、男の子である。相当な打撃力となったが、十文字は我慢しなければならないと思った。この少年の痛みを、少しでもわかってあげたかったのだ。

 パーンと、乾いた音が闇に響いた。カンタロウがよろけて頬を触った。そして自分を殴った者を、あらゆる憎しみを込めて睨みつけた。新妻が彼の前に立ちはだかり、母親に代わって、愛のいかづちを落としたのだった。

「來未の言うとおりだ。受け容れろ。母さんの死を受け容れろ。そして、チンミを命がけで守れ。それができないのなら、ここで死ぬまでメソメソしてろ」

 新妻の言葉が、大人にはほど遠い未熟な魂を揺さぶっていた。 

「生き残った者は、死んだ者の分も頑張って生きていかなくちゃいけないんだ。お前は男なんだ。泣くのはジジイになってからにしろ。気合をいれるんだ、下っ腹に力を入れろ」

 カンタロウは、涙と洟でぐちゃぐちゃになった顔で新妻を見ていた。そこにはもう、彼女に対する憎しみの表情はなかった。

「カンタ、私たちと一緒に暮らそう。おまえは一人じゃないんだよ」

 十文字が少年を抱きしめた。カンタロウは、確固とした決心が自分の中に出来上がっているのを感じだ。

「ウン、おれ、がんばるよ。チンミを守っていくんだ」

「ああ、そうだね。そうだよね」

 そこには少年とは違う男の顔があった。もはや、泣いてはいるのは十文字のほうだった。

 とても小さな懐中電灯の光がやってきた。それは島田がもっている唯一の光源だ。

「なんか崩れるような音がしたけど、おばさんはどんな具合なんだ」

「こっちはダメだった」

「え、あ、そうか。うん」

 思わず言葉に詰まってしまった。カンタロウをチラリと見て、言葉をかけようかどうか逡巡している。

「穏香のほうはどうなんだ。女の子の容態は」

「衰弱してるから動かしたくないって言ってるよ。しばらく寝かせておいたほうがいいって」

「チンミ」

 カンタロウが走り出した。彼の生きる、もっとも重要な目的がそこにある。

「姉さん、どうするよ。二、三日ここで野宿していくかい。食い物は、犬の燻製でも作ればなんとかなるしさ」

 新妻は、しばし考えた。

「いや、夜明けには出発しよう。ここは野犬どもがうろついているし、それに建物もないから、嵐でもきたら終わりだよ。びしょ濡れになったら、けが人は衰弱どころじゃない」

「テントも持ってきてないしな」

 十文字も、ここにはとどまりたくないようだ。

「それに家だって心配だよ。使えるのは唯だけだしな。いま盗賊にでも襲撃されたら、ひとたまりもない」

 地震で、ゲームセンタービルの損傷もひどくなっている。脆くなった箇所を攻められると、少人数では守りきれない。

 全員が綾瀬のもとへ集まった。灯油ランプは、かろうじて一つが生き残っているだけだ。ほのかな灯りが、暗闇に全員の顔を浮かばせている。

「穏香、朝には出発するよ。ここにはいられない。犬と雨を心配しながらもたもたしてられないんだ」

「でも、この子はどうするの。とてもじゃないけれど歩いていくのは無理よ」

「チンミは俺がおぶっていくよ。大丈夫だ」カンタロウは、そうする気だった。 

「いや、私がおぶっていく。カンタには荷物をたっぷりと持ってもらう」

 精神に成長の兆しは十分だが、カンタロウの体格はまだまだ子どもだった。重症の女の子をぞんざいに扱うと、せっかく救った命も危うくなってしまう。

「じゃあ、あたしは犬どもの燻製を作っておくよ。姉さん、火を起こしておいてくれ」

「私も手伝う」

 野犬の解体と調理は、島田と十文字が受け持つこととなった。食料調達については、彼女たちの根性に沁みついている。いついかなる場合でも、食べられるものは力の限り回収する。

「私は、この子を看てるから」

 綾瀬は女の子をなおも看病しようとするが、彼女自身に看護が必要なくらい疲れ果てている様子だった。

「穏香、安定剤の錠剤はあるか」

「ありますけど、いま飲みますか、姉さん」

「いや、おまえが飲め。とりあえず食えるだけの乾パンを食って、薬を飲んで寝てくれ。明日の朝までに、その身体を回復させないと、おまえまで背負っていかなくちゃならないからな。カンタと私でチンミをみているから」

 女の子に必要な処置はすべて為されている。あとは見守るだけだ。

「そうですか。では、そうさせてもらいます。点滴が終わったら針を外しておいてください」

 綾瀬は乾パンを食べて、安定剤の錠剤を飲んでから横になった。新妻がコートをかぶせてから近くで火をおこす。幸いにもその夜は生暖かで、冷え込む心配はなかった。

 食肉解体のプロたちが、野犬を手早く処理した。新妻はもう一か所、離れたところに火をおこし、瓦礫で簡単な燻製装置を作った。そこに犬肉を入れていぶし始める。三人が作業している間、カンタロウは女の子の様子を見守っていた。

 その夜は新妻と島田、十文字が交代で見張りに立った。綾瀬は、死んだように眠っていた。


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