第26話
「ずいぶんと遅かったな、心配したぞ」
日が暮れてからしばらくして、島田と鴻上が帰ってきた。ケイタイや無線機などないので、遅れることを連絡する手段がない。
「日暮れ前に帰ってこいよ。もう少し遅かったら、來未を連れて探しに行こうと思っていたんだ」
リーダーとしては規律を正さなければならないが、相手が島田なので、それほど叱ったりはしなかった。
「姉さん、すまなかった。思いがけないものに出会って、遅くなっちゃたんだ」
島田は、その理由を告げようとした。もちろん、綾瀬と西山の件である。
「友香子、ちょっと話があるんだ」
だが、新妻の方が先に要件をきりだした。
「男子たちのことなんだけど、今日ちょっとばかしトラブルがあったんだ」
「修二になんかあったのか」
島田の表情が険しくなった。新妻は言葉を選んで説明しなければならない。
「じつはそうなんだ。でも、もう容体は安定したから大丈夫だよ。薬の量がおおくて中毒を起こしたみたいなんだ。それで」
最後まで聞かないうちに、島田は走り出した。すぐに男子たちの部屋へと行き、ドアを蹴飛ばすように開けた。
「修二っ」
彼はベッドの上に上半身を起こして、田原と談笑していた。血相変えて入ってきた妻を見て、ニッコリと笑う。
「おかえり、友香子。今日は遅かったなあ。なにかいいモノでも見つけたか」
夫のいつもと変わらぬ姿を見て、妻はホッとした。田原と義之も元気そうだ。十文字隼人は相変わらず寝ている。
「なんだよ。なんともないじゃんか」
「友香子、そんなに急ぐなよ」
新妻が入ってきた。後ろには鴻上もついてきている。
「姉さん、なにがあったんだよ。修二たちはかわらないよ」
「それがだな」
森口が精神的に極めて不安定になっていること、男子たちへの薬の投与を知ってか知らずか間違えていたこと、彼女に安定剤を飲ませて自室で軟禁状態にしていること、食料の備蓄に余裕があること、農薬で畑がダメになったことを伝えた。
「食いものがあったのか」
「うん、けっこうあったよ」
小牧もきていた。島田に食料の備蓄状態を説明する。
「なんだよ、それは。ってか、畑もダメになったって、それじゃあ綾瀬の言った通りじゃないか。あいつ、なんにも間違っていなかったのか」
誰も、その訴えに対する返答をしなかった。新妻はバツが悪そうな顔をしていた。島田は、ずっと心のヒダに引っかかっていた小骨がとれた気分を味わっていた。
「姉さん、綾瀬となぎさをここに戻すよ」
強い口調だった。たとえリーダーが反対しようとも、やり遂げる意志を感じさせた。
「友香子、それはもう無理だ。私のことを綾瀬が拒否するだろうし、ブルベイカーがすんなりと渡すわけないよ」
綾瀬との信頼関係は、もう微塵もないだろうと思っていた。彼女たちを受け入れることが正論なのは承知しているが、もう諦めてしまいたいとの弱気が逃げ道を作っていた。
「ブルベイカーのところにはいないよ」
「え」
「綾瀬となぎさは、朝比南高にはいないよ。今日、あの二人を見つけたんだ。ヤバい状態になってるよ」
そう言ってから鴻上のほうを見た。事実に客観性と説得力をもたせるために、自分以外の意見が必要なのだ。
「綾瀬さんとなぎさ姉さんは、なんていうかそのう、ホームレスみたいになってました。ひどく痩せていて、まるで幽霊で、あのままでは、そう長くもたないと思います。とくに、なぎさ姉さんはヤバいです」
申し訳なさそうに鴻上が言った。
「なんだって」
新妻は驚きを隠せなかった。綾瀬はブルベイカーと内通していたので、彼女のもとで不自由なく暮らしていると確信していたからだ。
「そんな、いや、でも」
「あいつら、これ食ってたよ」
そう言って、島田が白いビニール袋を差し出した。新妻が受け取り、手を入れて中のモノを掴んだ。手のひらにのせて修二たちにも見えるようにした。鴻上がイヤそうな表情をしている。
「これ、カマドウマじゃないか」
「そう、便所コオロギだよ。あの二人、寒いなか一生懸命にこれをとってたさ」
マダラ模様のカマドウマは、異様に長い触角をヒラリと動かしながらじっとしていた。新妻はそれをビニール袋に戻して、口を堅く縛った。
「スパイじゃなかったんだよ。あたしたちは裕子の被害妄想に踊らされていたんだ。あいつ、あの河原の女の子の件からおかしくなってたからさ。きっと一人で苦しんでいたんだよ。もっと親身になって、話を聞いてやればよかった」
親友の乱心を責め立てる気はなかった。もとが優しい性格なのは知っている。あまりにも酷な現実に、心が傷ついてしまったのだ。
「とにかくあの二人を、あたしが明日行って連れてくるよ。みんな、文句ないだろう」
男子たちの部屋には、十文字來未も天野もきていた。新妻グループ全員が集まっている。
「友香子、綾瀬さんたちの居場所はわかっているのか」
妻の考えに、修二はもちろん大賛成であった。もし動けるのなら、自分も一緒に行きたいと思っていた。
「うん。それは大丈夫。あとをつけてきたんだ」
スーパー銭湯からの帰り道を急いでいると、すぐに掛け布団の女子たちに追いついてしまった。せっかくだからと後をつけ、廃墟のビジネスホテルが二人のネグラであることを突き止めた。それもあって、帰りが遅くなったのだ。
「友香子、それは私の仕事だよ。私が二人を連れてくるよ」
新妻は神妙な顔で言った。血の気が、かなり引いている。
「いや、友香子のほうがいい。綾瀬さんの性格からして、姉さんが行ったら意固地になって帰ってこないよ」
「俺もそう思うな」
修二と田原は冷静に判断していた。
「姉さん、ここはあたしにまかせてよ」
島田一人で迎えに行くつもりだった。もし綾瀬が拒絶したら、日本刀でおどかしてでも連れ帰る気概である。かつて家族だった者を助けたい気持ちと共に、医療担当が役立たずになってしまったいま、夫の看護を頼れるのは綾瀬しかいない。
「だめだ、私が行く」
「だから、姉さんじゃあ」
「今度のことは私に責任がある。まったくもってミスってしまったさ。私がバカだから、綾瀬やなぎさを大変な目にあわせてしまった。ブルベイカーがリーダーなら、こんなことにはならなかったよ。感情的になって、大事な妹たちに虫けらを食べさせることになってしまったんだ。私は価値のない人間だよ。ほんと情けない」
リーダーの懺悔に、皆は沈黙で応えた。
「謝ってくるよ。どんなに罵倒されても謝るよ。地面に這いつくばってもいいよ。頭を踏みつけられてもかまわないよ。はは」新妻は自嘲気味に笑っていた。
彼女の強い覚悟が伝わってきた。修二は考えを改めることにする。
「友香子、ここは姉さんに任せよう。綾瀬さんだって、姉さんが謝ったら怒りもおさまるだろうさ」
「あ、うん」夫に言われて、妻も了解した。
「だけど姉さん、今回のことは良い悪いじゃないからさ。タイミングが悪かったんだよ。努力したって仕方ないことだってあるんだ。綾瀬さんだって強情だったんだろう。謝るのはいいけれど、ほどほどでいいんじゃないかな」
組織を率いる者が卑屈になってしまっては統制が乱れてしまう。田原は、リーダーが自らの権威を失墜さやしないかと心配していた。
「田原、ありがとう。肝に命じておくよ」
「姉さん、やっぱあたしも行くよ。一緒に行こうよ」
「悪いけど、これは私一人の仕事なんだよ」
妹の前で、這いつくばる姿を見られたくなかった。あれだけの仕打ちをしたのだ。よほどの誠意を見せないと、綾瀬は納得しないだろう。きびしい謝罪になりそうなのだ。
「でも」
「友香子」
修二が首を横に振っている。それ以上の深追いは、かえって新妻の気持ちを追いつめることになる。
新妻一人が迎えに行くことになった。出発は、明日の朝である。
次の日は、早朝から大嵐だった。竜巻のような暴風が吹き荒れ、大粒の雨が真横から叩きつけるように降り続いていた。
新妻が出発の準備を整えていたが、ほかの女子が全員でとめていた。彼女はポンチョを着込み、リュックサックを背負っている。中には食料と薬が入れられていた。
「姉さん、この天候じゃ無謀だって。晴れていても、あのビジネスホテルまで二時間かかるんだよ。途中で遭難しちまうよ」
「今日はやめたほうがいいです」
「うん、さすがに、この天気で外出はないわ」
口々に、リーダーの無謀を押しとどめようとしていた。
「あの二人は虫まで食っているんだよ。いまだって腹をすかしているはずだ。病気かもしれないし、早いにこしたことはないんだ」
新妻は、二人を放り出してしまった責任を痛感していた。感情的になってしまった自分を責め続け、昨夜はほとんど眠られなかった。
「たとえ姉さんが行けたとしても、あの二人を連れて帰ってこれないだろう。この暴風雨の中を歩くのは無理だって。てか、ふっ飛ばされてしまうよ。とくになぎさはフラフラだったから、天気のいい日じゃないと無理だって」
「今日は連れてこないよ。一晩泊ってくる。そして晴れたら出発するさ。とにかく栄養があるものを食べさせたいんだ。妹たちが便所コオロギを食っているとか、あり得ないんだって」
新妻は力強く言う。カマドウマの件は、よほどショックだったのだろう。想像するだけで胸が張り裂けそうになるのだ。
「唯、89を借りていくぞ」
「あ、はい」
新妻は小銃を背負った。鴻上が予備の弾倉をリュックに詰める。
「じゃあ、行ってくる」
妹たちが心配そうに見ていた。凄まじい暴風雨の中を、新妻は果敢にも出て行く。しかしその直後、思わぬ災難に見舞われてしまった。
猛烈な突風で吹き飛ばされた瓦礫のベニヤ板が、新妻に向かって飛んできた。雨と風でまともに前を見ることができなかったので、避ける暇もなく直撃してしまった。
新妻がぶっ倒れた。すぐに島田と十文字がやってきて びしょ濡れになりながらゲームセンタービルの中へと戻した。頭を切ったらしく、左耳の上の辺りから血が流れ出ていた。
「行かなきゃ」
顔中血だらけになりながらも、新妻は出発しようとする。意識が、多少朦朧としていた。
「姉さん、血が出てるよ。頭を切ったみたいだ。やっぱ、今日はやめとこう」
「そのほうがいいよ」
小牧が急ぎ救急箱を持ってきた。手当をしようとするが、医療の経験も知識もないので、どうしたらよいのかわからない。タオルで血を拭きとるしかできなかった。
「万里子、縫ったほうがいいんじゃないか」
「綾瀬さんじゃないんだから、ムリだよう」
どう処置したらいいのかわからず、小牧と島田はお互いの顔を見ていた。
「どいて」
唐突に女子たちを押しのけたのは、森口である。自室で謹慎状態だったが、天野が呼んできたのだ。彼女は新妻の頭部を掴んで調べ始めた。
「裕子、治せるのか」
「知るか」
乱暴に言い放つと、ポケットからホチキスを取り出して、それを新妻の頭に押し当てた。パチンパチンと何度か押し込むと、なにやら意味不明な悪態をついて、自室に戻ってしまった。
「なんだよ、あいつは。わけわかんないって」
「あ、でも、血が止まってますよ」
浅めの傷ならば、縫わなくても医療用のホチキスで事足りることがある。森口がそれを知っていたのかは不明であるが、傷口はうまいことふさがった。出血も止まったようだ。
その日、新妻が再度出発することはなかった。嵐はおさまるどころか、もっと強烈になっていた。暴風が空をゴウゴウと鳴らし、街の瓦礫が砲弾の破片のように飛び散っている。
軽い脳震盪を起こしてしまったので、新妻の足元はふらついていた。傷口も痛むし、下手に出て行けば、またゴミが激突して怪我をしてしまうだろう。さすがに二の足を踏まざるを得なかった。
結局、暴風雨は丸二日続いた。新妻の怪我はたいしたことなく、翌日には歩けるようになっていた。ただし、昨日よりも雨の威力が増していて、遠出はさらに困難なものとなった。それでも新妻は何度も外に出ようとするが、そのたびに島田に止められていた。
昼過ぎまで行く行かないを繰り返していたが、稲光と雷鳴がけたたましく、地球の底が抜けてしまうのではないかと思えるほどの悪天候で、新妻はまたもや諦めるしかなかった。彼女にとって、とても長い一日となった。
三日目になって、天候がようやく回復した。気温が急激に上がり、大雨のあとなので湿度が高くなっていた。ムッとする空気の中を、リーダーは出発した。水溜まりだらけの荒れ地を踏みつけるので、足はすぐにドロだらけになった。頭痛がしていたが、痛み止めを飲んでの強行軍だった。
島田だけではなく鴻上や十文字までもが一緒に行くと申し出たが、一人で行くことに固執した。途中で道を間違えてしまい、ビジネスホテルに辿り着くのに三時間ほど浪費してしまった。
「綾瀬―、なぎさ―、いるんだろう」
廃墟ホテルのロビーの真ん中に立って、新妻は大声で叫んだ。その声はチリや瓦礫に吸収され、すぐに威力を失った。
「綾瀬―、なぎさ―」
しばらく、その場で叫んでいたが返事はなかった。エレベーターの脇に階段がある。新妻はいそぎ足で昇った。各階の部屋を一つ一つ探す気なのだ。
二階、三階には誰もいなかった。天井の部材や内壁が崩れ落ちているので、廊下は歩きにくかった。気をつけなければ転んで怪我をしてしまいそうだ。だが、二人の痕跡を嗅ぎつけようと、新妻はかまわずに這い進んだ。一つ一つ部屋へ入って探したが、その痕跡さえなかった。
新妻は、ひょっとしたら、あの二人はもういないのではないかと焦っていた。すでにどこかに移動しているのかもしれない。四階の廊下を歩きながら、もうだめではないかと諦めかけていた。
か細い物音がした。ハッとして振り向くと、部屋のドアが静かに開いた。そして女が一人、のっそりと出てきた。綾瀬穏香だった。
「綾瀬、よかった、いてくれたか」
彼女は酷いありさまだった。その姿は、真夜中の墓地に現れる亡霊よりも薄気味悪かった。
朝比南高校の制服を着ているが、ダボダボに緩んでいる。新妻グループを出てからどれほどの体重を削ぎ落したのか、一目瞭然だ。しかも強烈なニオイを発していた。すえきった汗と垢が濃縮され、それに生ゴミが腐敗したような悪臭が混じっていた。
「ここは私となぎさの家です。勝手に入ってこられては困ります」
毅然とした態度だった。やつれ果てても、プライドの喪失はない。
「これは不法侵入罪になりますよ。あなたは盗人かなにかですか」
そう言いながら、綾瀬は屁をたれていた。言葉の節々に、ブーブーと下劣な音を立てながら放屁をしていた。顔は、まっすぐ新妻を見ていて表情がない。冗談でやっているとは思えず、また、綾瀬はそういった諧謔には無縁の女だ。
極限まで飢えているのだろうと、新妻は悟った。雑草の根ばかり食べているから屁が止まらないのだ。おそらく、本人は屁をしていることも意識していないだろう。
「綾瀬、戻ってきてくれないか」
新妻は単刀直入にきりだした。綾瀬はすぐには返答しなかった。相変わらず表情のないまま、少しばかり小首をかしげている。
「裕子がおかしくなっていたんだ。食料の蓄えがないってのはウソだった。男子たちの治療もいいかげんで、ひどいことになった。それと畑もダメになった。綾瀬がいったとおり、あの農薬は使うべきじゃなかった」
「隼人は死んだんですか」
男子たちの危機と聞いて、綾瀬はまっさきに恋人の安否を確認した。
「それはないよ。修二たちが軽い中毒になっただけだ」
「そうですか」
安心したのかどうか、その表情からは読み取れなかった。
「私が間違っていた。おまえをブルベイカーのスパイだと思っていたんだ。ブルベイカーとつるんで、なにかやらかすんじゃないかって疑っていたんだ」
「私は何度も言ったはずです。汚いまねはしないと。スパイとか、どこの映画の話ですか」
「本当にすまなかった」
新妻は深々と頭を下げた。
「まあ、ブルベイカーさんのところには行きましたよ。私は役に立ちますから、高く売れますでしょう。なにせ指名してもらえましたから」
「そうなのか」
生きるか死ぬかの状況に追い込まれているのだ。可能性のあるところに行くのは、当然の選択であろう。綾瀬を責めたてる気はなかった。
「でも、なぎさを受け入れてもらえませんでしたので、お断りしてきました。あそこはシミったれていました」
ブーっと、ひときわ大きな屁が出た。新妻は思わず笑おうとしたが、綾瀬の表情がそれを許さなかった。
「綾瀬、戻ってきてくれないか。修二たちの看護も頼みたいんだ。隼人の調子もよくはない。おまえがいてくれないと、私たちはやっていけないんだよ」
「私がいては、森口さんがイヤがるでしょう」
「裕子は、もう普通じゃない。たぶん、なんらかの精神疾患だよ。安定剤でなんとかもっているだけだ。綾瀬、私が悪かった。戻ってきてくれ。たのむよ。おまえを連れて帰るまで、私はここを動かないよ。おまえたちと一緒にここで暮らしてもいいんだ」
熱く語る新妻だったが、綾瀬の目は相当に冷えていた。
「なぎさはどうなんですか。大食いの片手がいたら迷惑なんでしょう」
「なぎさも一緒だ。絶対に一緒なんだ」
「なぎさに、ちゃんと食べさせることができますか」
「もちろんだとも。いまは前みたく大鍋で多めに作ってるんだ。食料担当も万里子になったし、たくさん食べていいんだよ。なんなら私のを分けてもいい」
「そうですか」
綾瀬の屁が止まった。少しばかり、その無表情が柔和になったように見えた。
「じゃあ、なぎさに謝ってもらえますか。誠心誠意の謝罪をしてください。それでなぎさが納得したら帰ります」
新妻に異存はない。西山の人格を否定するようなマネをしたのだ。土下座してもいいと思っていた。
「では、なぎさを連れてきますんで、ちょっと待っててください」そう言って、綾瀬は出てきた部屋に戻った。
綾瀬の言い方に少し違和感をおぼえたが、新妻はホッとしていた。これで二人を連れて帰ることができると思ったからだ。
綾瀬が再び廊下にでてきた。一人ではない。西山も一緒だった。
「なぎさ、具合が悪いのか」
西山は綾瀬に背負われていた。左手を突き出し、足も膝から先がピンと伸びている。ひどく不格好な様だ。まるでマネキンを担いでいるみたいだったが、非力な綾瀬が背負っているのだから、姿勢が安定しないのだろうと新妻は思った。その重さに耐えきれないのか、綾瀬の腰はかなりの角度まで曲がっている。
「姉さん、なぎさに謝ってください」
その姿勢のために、綾瀬は真下に向かって言った。新妻は腹を決めた。
「なぎさ、ごめん。おまえをさんざん傷つけてしまった。ほんとうにすまなかった。だから戻ってきてくれないか。もう、食事のことで誰もいじわるしない。あるものは好きなだけ食べていいから」
西山は、なにも返さなかった。この沈黙の後で罵倒されるのだろうと新妻は覚悟していた。だが、彼女は相変わらずの寡黙ぶりであった。吐息さえ感じさせないほどの、だんまりなのだ。
「なぎさ」
新妻は息のかかるほどの距離まで近づき、西山の表情を読み取ろうとした。怒っているのであれば、なんと言って彼女の心を鎮めたらよいか、手掛かりを得ようとしたのだ。彼女を背負っている綾瀬は、一ミリたりとも動かなかった。
「なぎさ、・・・っ」
激烈なる衝撃だった。脊椎を硬質な金属パイプでぶっ叩かれ、粉々にされたようなショックだった。そのあまりの痛みに、新妻は言葉を失ってしまった。
西山は死んでいた。
綾瀬の背中に担がれているのは、生きた人間ではなく死体であったのだ。
「なぎさ、よかったね。姉さんが謝ってくれたよ。帰ろうか」
背負っているものの姿勢を正すために、綾瀬が何度も揺さぶった。そのたびに硬直した亡骸は、ゆっさゆっさと揺れる。頭部が上下にうねり、死者のうらめしそうな目が一瞬、新妻の目と遭った。
それは語っていた。
飢餓と病気で惨めにのたれ死んだわたしを見ろ、家族に見捨てられ、苦痛と苦悶の果てに絶命したわたしを見ろ、と。
どこまでも冷たい怨嗟が、金切り声をあげながら地獄の底へ落ちてゆく。その響きが、いつまでも新妻の耳に残って離れなかった。
「あ、あ、」
新妻は、かつて経験したことのない恐慌に見舞われていた。
良心がこの衝撃に耐えられないと確信した刹那、彼女は走った。まだ生きている綾瀬と西山の死体を残して、卑怯にもビジネスホテルをとび出してしまった。そして瓦礫の街をワーワー叫びながら、ひたすら走った。パニックに陥り、論理的な思考をすることができなかった。とにかく、そこから離れたかったのだ。
廃墟の街を駆け回った。崩れ落ちた建物に尖ったガラスの破片を見つければ、西山のうらめしそうな目が見つめていた。もちろん、それは彼女の心が作り出した幻影なのだが、じつにリアルな顔に見えた。
パニックはさらにひどくなり、瓦礫に足をとれられて転げまわり、湿った地面で全身がドロだらけになった。皮膚のあちこちが切れて血が滲みだしていた。
きっと自分は地獄に落ちるだろう。尽きることのない業火に焼かれて、永遠にもだえ苦しむのだ。それをもってしても、家族を死に追いやったことを償えるだろうか。
想像もできないほどの苦痛を、永遠に受け続けなければならないのか。激しい後悔と懺悔が、新妻の肺腑をえぐり続けた。ゲームセンタービルに辿り着いた時には、ボロ雑巾のようになっていた。
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