第22話

 綾瀬と西山がゲームセンタービルを出されてから、一月近くが経った。

二人は当初のネグラであるラブホテルを離れて、いまは小規模なビジネスホテルの一室に身を潜めていた。食料を探して留守にしている最中に、地震で屋根部分が倒壊してしまったのだ。鍋や調味料、手製ストーブを持ちだせたのが幸いだった。

 新居のホテルは相当に荒れ果てていたが、基礎部分はしっかりとしていて地震には耐えられそうだ。上水道はもちろん使えなかったが、水洗トイレは下水パイプに詰まることなく流せた。

 ホテル屋上には、くみ上げ式の貯水タンクがある。いい具合に蓋の部分が壊れているので、雨水をためるのにはちょうどよく、食器洗いやトイレの流し水に重宝していた。飲み水は別の容器に雨水をためて、煮沸してから使用していた。寝床は相変わらずのダブルベッドである。

 綾瀬には、友人のことで心配事があった。西山の健康状態がかんばしくないのだ。

 ほぼ毎日のように下痢が続いている。肛門も腫れあがり、痔になっていた。排便のたびに激痛を訴えるので、廃墟のドラッグストアを朝から深夜まで物色して、やっと痔の軟膏を見つけることができた。

 西山本人の左手ではうまく塗ることができないため、綾瀬が塗っていた。患部を間近で診ると、よほど酷い状態になっていることがわかる。軟膏がなければ、排便もままならない状態だった。痔を治すより、軟便のもとである粗末な食事を改善しなければならない。

 しかしながら、たまに缶詰や乾物を見つけることはあるが、日々の献立の大半は野草類、その中でも大半を占めるのは、彼女たちが屁の元と呼ぶタンポポだった。下痢の原因は、あきらかに栄養失調なのだ。二人とも幽霊のようにやせ細ってしまっていた。

 いよいよ、綾瀬は決心するしかなかった。その選択はできればしたくなかったが、このままの状態が続くと、西山の生命にかかわってくる。自分を慕って行動を共にしてくれた友人を、早く楽にしてやりたかった。

 二人は、いつものようにベッドに並んで横になった。疲れ果てている西山が寝入らぬうちに話すことにした。  

「なぎさ、大事な話があるんだけど」

「穏香、わるいけど軟膏を塗ってくんない」

「あ、うん」

 話の腰を折られてしまったが、綾瀬は不機嫌になることなく看病する。薬を持ってくると、うつ伏せで寝ている西山のショーツを膝までずり下げた。すっかり骨ばってしまった尻が痛々しく見えた。

 チューブから軟膏をしぼり出して人差し指におくと、彼女の肛門の表面を撫でまわし、少しほぐしてから内部へと突っ込んだ。短い悲鳴があがる。かまわず何度か指を回してしっかりと塗り込んだ。

 綾瀬の処置が終わると、西山は生まれたての赤ん坊のような顔で静かに息をしている。下着を元通りしてから、あらためて話を切り出した。

「ブルベイカーさんのところに行こうと思うんだけど、なぎさは、どう思う」

 いきなり本題をぶつけた。頭の中でいろいろ考えてはいたが、単刀直入に話すのが良いと思ったのだ。

「うん、いいと思うよ」

 予想外にあっさりとした受諾だった。綾瀬はホッと息をついた。

「そう、じゃあ、明日の朝出発しましょう」

「うん」

 拒否する素振りさえなかった。彼女自身が限界であることを悟っていた。

 亡者のように廃墟の街を徘徊し、それこそドブネズミのごとく這いつくばりながら食べ物を漁っても、ブルベイカーのところへ行くという選択肢を、二人は頑なに拒否していた。それぞれの胸の中に、ブルベイカーグループに所属したくない理由があったからだ。

 綾瀬の場合は、ブルベイカーと内通していると疑われていたので、新妻グループを離脱してすぐに朝比南高校へ行くと、スパイであることの証明となってしまうと考えていた。無実であるのに仲間を裏切っていたと思われるのは、彼女のクソ真面目なプライドが許さなかった。それは死んでもイヤだと、強情を張っていた。そしてもう一つ、こちらの方が重要であった。 

 それは恋人である十文字隼人の存在だ。ブルベイカーと新妻の仲は戻らないだろうと確信していた。そうであるなら、もしブルベイカーグループに所属したら最後、二度とゲームセンタービルには戻れなくなってしまう。

 綾瀬は恋人を愛している。現在の浮浪者のような状況はよほど絶望的だが、なにかのきっかけで、彼のもとへ戻れる可能性もないわけではない。だがブルベイカーにくっ付くと、その希望は限りなく小さくなってしまう。

 西山にとっての障害はブルベイカーではなく、彼女が率いている外国人たちだ。

以前、どこからか流れてきた外国人に襲われて、強姦されかけたことがあったのだ。その際に激しく抵抗して右手に怪我を負い、それがもとで、その腕を切断する羽目となった。許せない気持ちと、彼らへの生理的な嫌悪が混在し、それらはやがて確固たる核を持つ憎しみへと成長していた。西山にとって、彼らと戦うことはあっても、生活を共にすることなどあり得なかった。

 だが、野良犬以下となり果てた現在となっては、その感情の優先度は地に落ちてしまっていた。ブルベイカーグループの外国人は女ばかりだとの情報も、その失墜を促していた。

「明日の今ごろは朝比南高校だから。なんだかなつかしいね」

「うん」

「ブルベイカーさんから下痢止めをもらうね。それと整腸剤も」

「うん」

「おやすみ、なぎさ」

 返事はなかった。西山はかすかな吐息を洩らしながら、すでに眠っていた。安堵したのか、いつになく穏やかな寝顔だった。



 次の日、綾瀬と西山は朝比南高校へとやってきた。そこまではネグラであるビジネスホテルから、歩いて相当な距離があった。栄養失調気味な綾瀬はへたばる寸前で、西山にいたっては、あともう少し遠かったら気絶していただろう。鍋や調味料など、身の回りのものを詰めこんだリュックサックを背負っていたので、その重みが堪えていた。

 朝比南高校の正面玄関は、生徒が使用していた机と椅子、そのほか雑多な粗大ごみが無秩序に積み上げられている。それらはバリケードの役目を果たし、したがって出入口は、人が一人通るほどのすき間しか開けられていなかった。

 玄関の前に立った綾瀬がブルベイカーの名を叫ぼうとした時、見張りと思しき人物が中から出てきた。

「ブルベイカーさんに、綾瀬が来たって伝えてほしいいのだけど」

 見張りは野球帽を深くかぶり、顔にはスカーフを巻いている。目だけしか確認できないが、女であることはわかった。

 彼女は、なにも言わずに校舎の中へと行ってしまった。同じような格好をした別の見張りが入れ違いにやってきて、猟銃を威嚇するように持って、二人を油断なく見つめている。ほどなくして、ブルベイカーが玄関から出てきた。綾瀬を見ると、満面の笑顔で抱きついてきた。 

「心配してたのよ。もう、こんなに痩せちゃって。いままでなにしてたのよ。すぐに来ればよかったのに」

 ブルベイカーは、綾瀬がゲームセンターを追い出されたことを知っているようだった。

「そのう、いろいろありまして」

「まあ、そうでしょうね」

「ブルベイカーさんのとこでお世話になりたいのですが」

 綾瀬にはめずらしく、多少緊張気味な言いようだった。ここで断られると絶望しかないからだ。

「そんなにかしこまらないでよ、もちろん大歓迎よ。さあ、入って入って、遠慮はいらないんだから」

 これまた綾瀬にはめずらしく、安堵の息がもれた。後ろを振り返ると、さっそく笑みを浮かべて頷いた。西山もホっとした表情だった。二人はブルベイカーの後に続き、玄関の中へと入っていった。

「ちょ、なに」

 綾瀬が玄関に入ったところで西山が声をあげた。見張りの一人が入り口に立ちはだかり、西山の入場を阻止していた。

「なぎさ」

「穏香」

 玄関の出入口を挟んで、内側と外側の顔が見合っていた。お互いの表情の中に強い不安を見出している。

「ブルベイカーさん、なぎさが入れません。その人をどかせてくれませんか」

 見張りが勝手にやっているのだと思っていた。

「あらあ、なに言ってるのよ。ここに入っていいのはあなただけよ。そこの片手の人は、お呼びじゃないわ」

「な、」

 綾瀬は一瞬、絶句してしまった。ただでさえやつれている西山の顔から、いっさいの血の気が失せていた。

「なぎさと一緒です。私はなぎさと一緒じゃないと無理です」

「ここはねえ、慈善施設じゃないのよ。役に立たない人はいらないわ。あなたは病人を診ることができるけど、そこの人は無理じゃないの」

 使えない人間は、いらないということだ。

「なぎさは役に立ちます。掃除でも洗濯でも何でもできます。ライフルだって撃てるんですよ」

 友人がいかに使える人間であるのか、綾瀬は必死に訴えた。それはもう、食ってかかるような勢いで詰め寄った。

 ブルベイカーは、いったん外に出た。綾瀬も続く。西山は、いまだショックから立ち直れないようで愕然として立っていた。

「そうねえ、じゃあ、そこに黒い座椅子があるじゃない。それこっちに持ってきてよ」

 ブルベイカーが指し示した座椅子は、ひじ掛けがついた大型のものだ。大人の男でも両手で抱えなければ持てない。

「ブルベイカーさん、それは」

 綾瀬が悲痛な声をあげた。西山が座椅子の前に腰をおろした。女性の、しかもやせ細った左腕だけではどうしようもなかったが、ウンウン唸りながら必死に持ち上げようとしていた。痛々しい光景であり、友人として、直視するのがつらいことだった。

「ほらね。ぜんぜんダメじゃないの。ネコの手でも借りたほうがいいんじゃないのかしら」

 フンと鼻を鳴らし、嘲笑するようにブルベイカーが言う。見張りの失笑も聞こえてきた。

「できるから、わたしできるから」

 それでも細い手が座椅子を持ち上げようと足掻くが、何度こころみても手が滑るだけだった。抱きかかえようとするが、盛大によろけてしまい、こともあろうにその座椅子に座ってしまった。

「あらあら、おばあちゃんが一休みかしら。お番茶でも持ってきたほうがいいんじゃないの」ブルベイカーの嘲りは続く。

 友人の痛々しい姿を見ていられず、綾瀬が西山の手をとった。

「大丈夫だよ、穏香。わたしやれるから、ちゃんとやれるから」

「もういいの、なぎさ」

「でも、わたし」

「いいの。そんなことしなくていいんだよ」

 誰の目にも無理なのは明白だった。綾瀬は、語りかけるように諭すしかなかった。 

 西山を拒絶するということは、ブルベイカーは、はなから二人を受け入れる気などさらさらないのだろう。綾瀬の性格からいって友人を見捨てることはあり得ないし、そのことを誰よりもよく知っているはずなのだ。

「ブルベイカーさん、お騒がせしましてすみませんでした。私たちは帰りますので」

 ここに長居しても絶望しかないのを知った綾瀬は、撤収を決意する。

「あらあ、行っちゃうの」

「ええ、朝比南高校は、私たちには広すぎますから」

「そうよねえ、あなたたちには薄汚いホテルがお似合いだもの。それで、今日も仲良く乳繰り合うのかしら」

 食い殺さんばかりの睨みを放った。生真面目な優等生らしく、容赦のないガンつけだった。

「あら、怖い目だこと。穏香ちゃんって、意外とヤンキーだったのね」

 綾瀬は言い返すことなく、西山と腕を組んで歩きだした。

 背後で鈍い音がした。振り返ると、地面に大きな缶が二つ転がっている。ビーフシチューの缶詰だった。

「まあ、せっかく来たんだからお駄賃よ。どうせ雑草しか食べてないんでしょう」

 それらはブルベイカーが投げたものだ。

「いりませんっ」

 憤慨した綾瀬は当然のように拒絶するが、西山の考えは違うようだ。

「シチュー、シチュー」と叫んで、友人の腕を振りほどいた。

 血相を変えて拾おうとするが、片手なので二つの缶詰を同時に持つことができなかった。それでも誰かに盗られてはならぬと、手のひらをいっぱいに拡げて掴もうとする。その様子を、綾瀬が冷めた目で見つめていた。

「なぎさ、一つは私が持つから」

 床に転がっている一つを綾瀬が拾った。

「それ、穏香の分だよ。私のはこれ」

 おもちゃを与えられた子供のように、無邪気に喜んでいた。ビーフシチューは、夢にまで見たご馳走なのだ。

「ありがとう、ありがとう」

 西山はペコペコと頭をさげた。ブルベイカーは鼻で笑いながら、うるさいハエでも追い払うように手を振った。さっさと行けと言う意味だ。

 二人は、廃墟と瓦礫の中をネグラへと歩いていた。

 みじめな気持ちだった。生きているのがこんなに辛いことなのかと、綾瀬は涙ながらに痛感するのだった。


 二人は、しばらく歩き続けている。

 お腹がすいて、このままではビジネスホテルまでたどり着けないと判断した綾瀬は、途中で食事休憩をとることにした。メニューは、ブルベイカーが投げ与えてくれたビーフシチューの缶詰だ。瓦礫で火をおこし、缶詰のフタをあけて直火で温めた。西山は早く食べたがったが、舌がヤケドするくらいグツグツと煮る。

 ぬるいままだと、よく噛みもせずに貪り食うだろう。ただでさえ胃腸が弱っているのに、ゆっくりと食べさせないと、また下痢で苦しむことになる。

 ビーフシチューは熱々になった。西山は、地面に置かれた缶詰にスプーンをつっ込み、一口すすっては噛みしめるように食べていた。よほど美味いのか涙を流している。少しずつ食べている様子を確認しながら、綾瀬も食べ始めた。二人はしばし無言で食べていたが、西山がポツリと言った。 

「穏香、ありがとうね」

「うん? なんのこと」

「わたしを見捨てないでくれて」

「ああ、うん」

 綾瀬はあいまいな返事をした。彼女にとってはごく当たり前のことなので、過分に感謝されても、それほどうれしい気持ちではなかった。

 缶詰の底に沈んでいた肉と大きなジャガイモをすくって、友人の缶詰に放り込んだ。いつものことだったが、西山は水飲み鳥のように何度も頭を下げた。

「わたし、こんな身体じゃなかったら、ブルベイカー姉さんに認めてもらえたのに。そうしたら、穏香と一緒に学校で暮らせたのに」

 あれだけ侮辱されたのに、西山はブルベイカーをまだ慕っていた。生真面目な綾瀬としては、その誤りを訂正しなければならなかった。

「あの人は以前のブルベイカーじゃなかった。人が変わったのよ。あそこにいたのは私たちの姉さんじゃなくて、ただのゴロツキ、チンピラの親玉よ。千早のほうが、まだマシなくらいよ」

 優等生が新妻の名を呼び捨てにしたのが面白くて、西山がクスッと笑った。

「正直言うと、せいせいしたわ。あんなクズのために医療を勉強したんじゃないもの」

 吐き捨てるように言うと、ペットボトルの水をカップに注ぎ、西山の前においた。

「はい、水だよ」

「うん、ありがとう」

 西山はその水をすぐには飲まず、しばし見つめていた。

「ねえ、穏香。わたしたち、これからも一緒だよね。穏香だけどこかに行ったりしちゃわないよね。わたしを一人にしないよね」

「なに言ってるの。私一人で生きていけないんだから、なぎさと一緒だよ。ずっと一緒だよ」

 西山の表情が、ほっこりと緩んだ。そして、うれしそうに水をすすり飲んだ。

「だから、なぎさにはたくさん働いてもらわなくっちゃね」

「うん、わたし頑張るよ」

 食事を終えた二人は出発することにした。日暮れまでに戻らなければならない。少し急ぎ足で行きたい綾瀬だが、西山の体力はか細かった。ビーフシチューで腹は満たされたが、衰弱した足腰に活力を与えるまでには至らなかった。  



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