第20話
翌朝、大広間では怒号が飛び交っていた。
やや遅めに起きてきた新妻は、なにごとかと思って入ってきた。争っているのは森口と綾瀬だ。またかという表情になった。島田と小牧、天野がその場にいたが、止めるわけでもなくただ眺めていた。新妻が理由を訊く。
「今度は何で揉めてるんだ」
「この女がトウモロコシの種を盗んだんだ」
綾瀬を指さし、顔中を口にして森口が喚いていた。
綾瀬は、昨日森口と天野が見つけてきたトウモロコシの袋を持っていた。
「どういうことだ、綾瀬」
「もちろん、捨てるんです。ついでに、その農薬も捨てます」
「おまえ、何を言ってるんだ」
あきれ顔で綾瀬を睨みつけた。新妻のストレス指数が急激に上昇している。
「昨日言った通りです。その農薬を畑に撒いてはダメです」
「いい加減にしろよ、綾瀬。その袋をよこせ」
新妻は、綾瀬の手からトウモロコシの種が入った袋を奪い取ろうとした。
「いやです」
だが、抵抗されていた。二人が両側から袋を引っぱっていると、紙袋が破けて中身が散乱してしまった。森口が慌てて駆け寄ってくると、一粒一粒拾い始めた。新妻が綾瀬を、さらに厳しい目で睨みつけた。
「おまえ、どういうつもりだ」
「姉さんは正しい判断ができていない。なんにもわかっていない」
「私のどこがダメなんだ。おまえの方こそ、くだらないことに固執してバカじゃないのか。裕子にケチつけているだけだろうが」
「畑がダメになるんですよ。わからないのですか」
新妻には、目の前にいる女が狂信者のように思えた。新興宗教の信者か、ネズミ講の被害者である。
「そうだよ、穏香は正しいことを言ってるよ。なんで姉さんは、穏香を目の仇にするんだよ」
口を挟んできたのは西山だった。新妻のすぐ後に、彼女も大広間へきていたのだ。少し離れたところにいる島田が、よせばいいのにといった顔をしている。
「なぎさは黙っていろ。いいか、あの畑は裕子が担当していたんだ。おまえたちが口をだす問題でもないし、そもそも、それを見つけてきたのは裕子たちだ」
「あの畑は私たちのでしょう。管理しているのは森口さんだけど、あそこを苦労して耕したのは、みんなじゃないの。みんなで頑張ったから」
「そんなのどうでもいい」
「姉さん、あれは」綾瀬はおさまらない。
「黙れ。いいか、ここのリーダーとして言うぞ。裕子のものには触るな。その種にも、畑にもだ。おまえは医療だけをやればいい」
新妻は、綾瀬にしゃべらせないようにしている。
「姉さん、私はなにも言えないのですか。意見の一つも言ってはダメですか。ブルベイカーさんが仕切っていた時は、どんなことでも言えましたよ。あの人は私が突っかかっても、平然と受けていました」
ブルベイカーとの器量の違いを、遠慮なく指摘する綾瀬だった。思ったことを清々しいまでに口に出していた。
「もう一度言う。黙れ」
高圧的な緘口命令だが、優等生には効き目がなかった。
「だからブルベイカーさんに逃げられるのよ」
綾瀬に対し、新妻の平手が飛んだ。打ち所が悪く鼻に直撃してしまった。シャバシャバとした鼻血がたれてきて、綾瀬の口からアゴを伝い床へと滴り落ちていた。
「今度、ブルベイカーの名を出したら殺すぞ」
さすがにマズいと思ったのか、島田と鴻上が駆け寄ってきた。二人の間に入って、姉を落ち着かせようとする。
「姉さん、落ち着こうよ、ね、ね。綾瀬もつっぱってないで謝れよ。なんだよ、くだらねえことじゃないか」。
綾瀬は、西山が差し出したハンカチで鼻血を拭った。気づかいしてくれた友人に対し丁寧に礼を言うと、あらためて新妻と向き合う。
「あなたはブルベイカーさんに劣るわ。何もかも、あなたは二流。私たちのリーダーは、とんだ食わせ者よ」
「綾瀬、やめろ」
今度は島田が叫んだ。
「出ていけ」
押し殺した声だった。その場が、瞬時に沈黙した。
「ここのリーダーは私だ。嫌なら出ていけ。二度と戻ってくるな」
新妻は綾瀬に三下り半を叩きつけた。強力な命令だが、すんなりと受け入れられそうになかった。
「いやです。私は、ここの医療を担当しています。途中で放り出すことはできません」
彼女は恋人である十文字と、他の男子たちを看護しなければならない。それともう一つ、ここを追い出されて単独で生き抜くことは困難であると、重々承知していた。
弾かれたように新妻が動く。壁に掛けられていた小銃を手に取ると、綾瀬の前までやってきて、鼻先に銃口を突きつけた。綾瀬は怯えることなく凶器と対峙している。
「千早姉さん、弾は入ってますから、そのう」
鴻上は、アサルトライフルが空でないことを告げた。弾が入っていないと勘違いした新妻が、威嚇の意味で引き金に指をかけるかもしれないからだ。
パンパンと乾いた音が連続した。室内だけに銃声はよく響いた。新妻と綾瀬以外が、おもわず腰をかがめた。銃弾はすべて天井に発射された。
「出ていけ。残る気なら撃つ」
本気だと、誰もが確信した。
「撃ち殺してしまえー」森口が喚いた。
綾瀬がなにか言うより先に、西山が口を開いた。
「ああ、出ていってやるよ。こんなとこ、こっちから願い下げだって。せいせいするよ」
リーダーの気持ちは覆らないとわかった。ここで綾瀬が駄々をこねると、最悪の事態になることもあり得た。西山は、すでに諦めきっていた。
「穏香、行こうよ。こんなとこにいたって無駄だ」
「いいえ、ダメよ。看護は誰がするの」
その生真面目さゆえに、男子たちの看護を放り出すことができない。なによりも恋人である十文字隼人がいる。
「そうだよ。綾瀬がいなくなったら、誰が修二をみるんだ。十文字や田原だって義之だって、どうするんだよ」
島田にとって、夫の健康は最優先事項である。多少の人間関係のもつれなど気にしている余裕はない。
リーダーは、そこまで考えてはいなかったようだ。痛いところを指摘されて、次の言葉が出てこなかった。
「それは私がやる。薬のことはもう知っているから大丈夫。ちゃんとやれるから心配しないで。いや、かえって、あんたよりもわかっているから」
森口は自信ありげに言った。新妻が、その話をじっと聞いていた。
「だから遠慮なく出ていって」
形式上、綾瀬がこのグループに残る理由はなくなった。新妻は小銃を構え続け、緊迫を緩める気はない。ほかの女子たちは、どうしたらいいのかわからない状態だ。
「穏香、いくよ。こんな陰気なとこにいたら、水虫になっちゃうわ」
綾瀬と西山は、新妻グループから離脱することとなった。
出ていく前に、綾瀬が自室に私物をとりに行こうとしたが、それは許されなかった。薬のほとんどは男子たちの部屋にあるので、彼女がいま出て行っても問題はないが、最後の最後に彼女を自由にさせて、なにがしかの工作を仕込まれるのではないかと、リーダーは勘ぐったのだ。綾瀬と西山は、ほとんど着の身着のままで追い出されることになった。
外の天気はかんばしくなかった。どんよりとした灰色の雲が垂れ込めて、いまにも泣き出しそうだった。
「姉さん、ヒドすぎるんじゃないか。たしかに綾瀬は生意気だけど、あそこまでする必要があるのかよ。しかもなぎさまで出て行っちゃって、この先どうするんだよ。あたしらは、ただでさえ少ないのに」
二人が出て行って、すぐに島田がリーダーに詰め寄った。
「西山さんがいなくなったから、かえって良かったのよ。食べ物の心配がなくなって」
「裕子、そういうこと、言うのはやめろよな。それに、修二の看護はほんとうに大丈夫なのか。疼痛がまたひどくなってんだぞ。綾瀬でも苦労しているのに、やれるのか」
「あの女は痛み止めをケチってんのよ。だから、男子たちはいつまでたっても治らないの。私がやるからすぐに良くなるって」
とても軽く感じられる言葉だった。涼し気な顔をする親友を、島田は黙って見ていた。
「なんだ、どうしたんだよ」
十文字來未がやってきた。大広間の騒然とした空気を敏感に感じとっていた。彼女は、時々意識が戻る兄の部屋で食事をさせていた。
鴻上が事の顛末を手短に説明した。リーダーの決断に、島田が多少非難がましく小言をいっていた。
「仕方ないじゃんか。千早姉さんの言うことがきけないんだったら、出ていくしかないって」
もちろん、十文字はリーダーの判断を尊重する。ここぞとばかり、新妻の味方であることをアピールした。
「でもさ、二人とも、なんにも持ってなくて大丈夫なのかなあ」
「そうだよ、さすがに手ぶらで追い出したのは酷だって」
小牧と島田の指摘を、新妻はにべもなく否定する。
「まったく心配ない。あの二人は、必ずブルベイカーのところに行くさ。もともと、そういうつもりで私に突っかかっていたんだろうさ」
「そうそう、なんせ、あの女の犬だったんだから」
「それって、綾瀬さんが、そのう、やっぱり」
そこから先は言いにくいのか、天野はもじもじとしていた。
「そう、スパイだったんだよ」森口が断定する。
「それはわかんないだろう」島田が異を唱える。
「いや、たぶん、ブルベイカーと連絡は取りあっていたよ。私たちの動きが、ブルベイカーに筒抜けだったからね。うちらに内通者がいたことは間違いないんだ」
誰かが、ここの状況を洩らしていただろうと、誰もが思っていた。そして、それは綾瀬であるとするのが、もっとも妥当な結論だった。
「さあ、みんな、人数は少なくなったけど、これからも頑張っていくよ。裕子、王子たちの看病は大丈夫だろうな」
リーダーが、さっそくハッパをかけた。こういう時は、考える暇を与えないほうがいい。
「まかせてよ。薬を自由に使えるから、すぐに痛みはとれるよ。友香子、來未、安心してよ」
不安そうな島田とは対照的に、森口は陽気だった。十文字も心配している様子はなかった。
「明日から、友香子と唯、來未は、私と一緒に食料探しだよ。とにかく備蓄を増やさないと話にならないからね。すこし遠出するから、泊りの用意はしときなよ」
いつもの新妻らしくテンポよく指示を出すと、女子たちの思考はそちらのほうに誘導された。過ぎ去ったことを引きずらないようにするのが、この荒廃の地で生き抜くための心得だ。
「千早姉さん、いよいよ港に行くんだね」
「來未、そういうことだ」
十文字の顔が、パッと明るくなった。スパムスパムとニヤつきながらつぶやいている。
「海でカニ獲るのもいいなあ。ガザミとかめっちゃ美味いからさあ」
「カニ獲りは友香子にまかせるよ。ついでに釣り竿も持っていきな。クロダイやスズキが釣れるかもしれないからさ」
「ああ、刺身が食えるね」
「友香子姉さんに釣られる魚って、どんだけトロいんだよ」
「おい、來未。大物が釣れても、あんたにはやらんよ。まあ、ハゼくらいだったら食わせてやってもいいかな」
島田に向かって、十文字がベロを出した。皆がどっと笑う。
「千早姉さん、海沿いなら水鳥も狙えますよ。刺身どころか、焼き鳥ですよ」
「いいところに気づいたな、唯。その考えはまったく思い浮かばなかったよ」
「大カモメなら群れでいるはずですから、一連射で大量ゲットです」
「おいおい、弾は残り少ないんだから一発ずつ使えよ」
「銃なんかいらないよ。私が弓でしとめてやるよ」
その場の雰囲気がいい方向に流れていた。家族が出て行ってしまったのは悲劇だったが、離反は過去に何度も経験している。素早い立ち直りは、暗黙の了解で意識的に行われていた。
「畑もまかせておいて。焼トウモロコシよ、焼トウモロコシ。うまくいったら、もっと畑を広げましょう」
「よし、その時のために場所を探しておこう」
「姉さん、お願いしますよ」
二人がいなくなった痛手を覆い隠すためには、新妻の指導力をより強固にしなければならない。それはリーダーのエゴなどではなく、皆が望んでいることだ。
「裕子と万里子と志奈は、留守をしっかり守るんだぞ。とくに万里子、食い物の本ばかり見てないで、ライフルの撃ち方をおぼえろよ。64はおいていくからな」
「ええー、あの鉄砲重いんだよ。撃つと肩が痛くなるし」
「万里子姉さん、私も手伝いますから」天野が遠慮気味に言った。
「志奈ちゃんが撃ったら肩が外れちゃうよ」
新妻グループは、再出発する決意を新たにする。もし綾瀬や西山が帰ってくることがあっても、拒否するように厳命された。きっとブルベイカーの息がかかっているだろうと思われたからだ。
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