第18話
夕食の時刻となった。本日のメニューは、グリーンピースや鮭などの缶詰、マカロニを煮込んだ汁物と乾パンだ。以前は大なべの汁物は自由におかわりできたが、今晩からは各個人に、きちんと計量されたものが配給されていた。おかわりができなくなっただけではなく、一人当たりの分量もあきらかに少なくなっていた。実際に、どんぶりの半分も入っていない。
「裕子、なんか少なくねえか」
食事係の配膳に、島田が文句を言った。テーブルの皆の空気も、うっすらと同調している。
「しょうがないだろう、友香子。節約していかなきゃな」
不満が広がる前に、リーダーがさっそく釘を刺した。
「まさか、修二たちの分を、あたしらより減らしたりしてないよな」
「同じ量よ。それに男子たちは、あんまり食べないから充分でしょ」
「そうだけどさ」
夫の取り分が減らされていないことを、妻は確認しなければならない。今晩の男子たちへの食事当番は十文字來未と天野であり、すでに彼らへの配膳は終わっていた。
「友香子姉さん、心配しなくても大丈夫。同じだったから」
「そうか」不安が解消されたので、島田ほっとしたようだ。
西山の表情が冴えなかった。いつもなら鍋の残り汁を平らげて、ようやく一息つけるのだが、この量ではまったく足りない。うらめしそうにどんぶりを見つめている。
「なぎさ、私はグリーンピースが好きじゃないから、もらってちょうだい」
綾瀬が自分のどんぶりから具材をスプーンにすくって、次々と森口のどんぶりに移した。
「ありがとう」
か細い声で友人を見る西山に、綾瀬は笑顔で頷いた。
「そういうの、やめてくんない。公平に分けているんだから、それやられると意味ないでしょう」
森口のキツめの声が響き、食卓が凍りついた。綾瀬は友人を助けようとしたのだが、それは食料担当責任者のメンツをつぶすことになった。
「綾瀬、みんなに公平に分けているんだ。おまえ一人が勝手な行動するなよ」
新妻も、綾瀬の行為には否定的だった。決められたことは守れと、やや命令口調に続けた。
「ここはいつから刑務所になったのですか。自分のものを自由にすることもできないのですか」
綾瀬は相手が新妻であっても、いつものように物おじすることなく反論した。隣にいる西山は、真下に視線を落として唇を噛みしめている。
「じゃあおまえは、毎度毎度分けてやるのか、自分の食い分を減らしてまで、なぎさに分け与えるのか」
「毎度毎度あげます。なぎさは病気なんだから当たりまえです」
二人は、ともに一歩も引く気はないようだ。西山は頭を下げたまま、どんぶりの中に大粒の涙を落としていた。
「それくらいはいいんじゃないの。なにも、誰かの分をとってるわけじゃないんだし」
島田が親友をさしおいて、綾瀬を擁護するのは珍しかった。ただし森口とは目を合わさないで、乾パンをボリボリ食べながらだった。
「勝手にしろッ」
激高した森口が、自分の前にある食器類を手で払った。それらは中身ごと床に落ちて派手な音を立てた。陶器のどんぶりは真っ二つに割れて、汁物が散乱する。天野は泣きそうだった。森口はさも不機嫌そうに出ていった。新妻が、バンっとテーブルを叩いて立ち上がった。
「自分の分を誰かにやらないこと。いいか、これはこのグループとしての決定なんだ。もし食べたくないのだったら、最初っから、その分を減らす。異論は認めない。なぎさも甘えるな。私たちと同じ量を食べているのに、死ぬわけじゃないだろう」
結局、リーダーの強権で、自分の食事を誰かに分けてはいけないとの指示が徹底されることになった。綾瀬はしぶとく抗議したが、新妻の怒気を含んだ命令に抗いきれなく、最後は承諾するしかなかった。島田は仕方ないといった様子で、深入りはしてこなかった。
西山はひどく甲高い嗚咽を洩らし、片方しかない手を必死に動かして、どんぶりの中身をかきこんでいた。
次の日の朝早く、森口は自分の管理している畑にいた。猫の額ほどの畑の縁にしゃがみ込んで、土を握っては離してを繰り返していた。背後に人の気配がしたが振り向かなかった。誰が来たのかわかっていたし、できれば相手をしたくないと思っていたからだ。
「森口さん、ちょっと話があるんだけど、いいかな」
綾瀬であった。森口と二人っきりになるタイミングを狙って来たのだ。澄ましてはいるが、森口の背中を見つめる目線は厳しいものがあった。
「いま忙しい」
森口は、にべもなく拒絶した。それ以上近づいてはいけないとの、負の気迫をにじみ出している。しかし、綾瀬はそのくらいで引き下がるほど物わかりのよい女ではない。かまわず言葉をぶつけ始めた。
「私に文句があるんでしょう。うじうじとしてないではっきり言ったらどうなの。ここで聞いてあげるわ。それと、なぎさに八つ当たりするのはやめてくれない。イジメは良くないって、小学生でも知っていることだけど」
しばらく待った。森口は黙ったまま立ち上がろうとはしない。
「わかってくれたと考えていいのね」
「うるせえんだ、裏切り者」
森口が突如として立ち上がった。
「スパイのくせして、偉そうにするな」
彼女は右手いっぱいに土を握り締めている。おそらくそれを投げつけられるのだろうと、綾瀬は覚悟した。
「スパイってなんのこと、あなたの妄想?」
「とぼけんなよ。おまえはブルベイカーの犬だろう。なあ、あいつに尽くして、なにもらってんだよ。食い物かよ。それとも抱かれてんのか。あの女にチチくられてんだろう。彼氏が役立たずになったから、かわりにアソコをナメてもらってんだろう」
あまりにも酷い言葉と容赦のない侮辱に、優等生な綾瀬でも手が出そうになった。だが、森口の表情が通常ではないことに気がついて思いとどまった。敵意の中に森口裕子の人格が窺えないし、目線も泳いでいる。精神医学に精通しているわけではないが、あきらかに心のバランスを失っていると判断できた。
「なあ、ブルベイカーの舌はいいのか。感じさせてくれるんだろう、ああーっ」
森口は元来穏やかで優しい性格なのだが、過酷なストレスを受けた結果、彼女の精神の深い個所から、一匹の薄汚い鬼が這い出してきてしまった。それは森口自身でも持て余す存在で、良心の力ではどうすることもできないほど悪辣であり、しかもヒステリックで、自暴自棄的でもあった。
「森口さん、少し落ち着こうか。私の部屋に安定剤があるから飲んだ方がいい。いま持ってくるから」
綾瀬がそう言った刹那、突然、森口の表情が全開で崩れた。そして大声で泣いて走り出した。綾瀬のすぐ脇を通り過ぎると、たまたま森口を探しにやってきた新妻の胸に飛び込んだ。すがるように抱きつくと、無垢な被害者のように、か弱い嗚咽を洩らしていた。
「どうしたんだ、裕子。なにがあった」
リーダーの問いかけに、彼女は泣きじゃくるばかりだった。
「綾瀬、これはどういうことだ」
「私はべつに」
綾瀬は、自分がマズイ状況であることを知った。どんな釈明をしても、それは加害者の言い訳としか見られないことを悟っていた。
「綾瀬、これ以上もめ事を起こすな。おまえの正論はけっこうだが、人は正論通りには動かないし、動けないんだ。おまえはクソ真面目すぎだ」
「私は、」
「もういい。とにかく裕子にかまうな。自分の仕事をしろ」
新妻に抱きかかえられて、森口は行ってしまった。綾瀬は森口の治療をしたかったが、それは自分には不可能であろうと思っていた。
新妻グループで、等分に分けられる食事の量は日に日に少なくなっていた。森口は、その理由を当然のように周知して、皆の不満を抑え込んだ。その際には西山への当てつけも忘れない。食卓の雰囲気はよほど悪くなるが、人間関係的なしこりを、新妻は積極的に是正しようとはしなかった。
しかし、食糧事情の悪化は見過ごせるわけでもなく、ある日の夕食後のミーティングで、リーダーはこれからの方針を皆に告げた。
「とにかく食いものを重点的に探そう。皆で一塊に動いても効率が悪いから、分かれて行くよ。私と來未、友香子と唯はちょっと遠出する。日帰りができるギリギリの場所で探そう。裕子と志奈は、この近辺でいいよ。近いからといっても油断しないように。いちおう用心してな。おかしな奴らが入り込んでいるかもしれないから、ヤバかったら、すぐここまで戻ってくるんだ」
綾瀬と西山も食料探しに加わると強く申し出たが、リーダーは却下した。
表向きは医療を担当する者に怪我でもされると、男子たちの看護ができなくなるというのが理由だが、本音としては、綾瀬が下手に手柄をあげると、食料担当責任者である森口の立場が危うくなってしまうからだ。これ以上綾瀬の権力を強くさせるのは、グループを引き裂く要因になると判断していた。彼女には、医療以外の仕事をさせないつもりだった。
それともう一つ、綾瀬がブルベイカーと連絡を取りあわないようにするための措置でもある。新妻は、綾瀬が外部と繋がっているとの疑念を強く持っていた。ゲームセンタービルの外に出さなければ、その心配がだいぶ軽減される。ブルベイカーも、中にまでは入ってこないからだ。
「千早姉さん、どこを探したらいい。日帰りでも食い物がありそうなとこは、そんなにないよ。それに他のやつらはどこに行ったんだってさ」
歩き始めてすぐに十文字が文句を言う。まだ行先を聞かされていないのだ。
「友香子たちは、カニカゴを仕掛けに川に行ったよ」
「モクズカニかあ。美味いんだけど、そんなに腹はふくらまねえなあ。しかも、ちょっとドブくせえし」
友香子たちは、近くの川へとカゴを仕掛けに行った。うまくいけば、カニのほかにもザリガニや魚も獲れる。
「裕子姉さんは、どこに行ったんだよ。あの二人じゃあ、なんかあった時にマズいんじゃないの」
「ホームセンターだよ。歩いて三十分ほどだし、あそこまでだったら危険はないだろう」
「ホムセンも探し尽くしたしなあ。あってもスコップぐらいじゃね」
「まあな。でも掘り出し物があるかもしれんさ。それに、あの辺はけっこう野良猫がいたから、あんがい志奈あたりがしとめてくれるかもしれないよ」
「志奈姉さんにかぎって、それはないなあ。あの人、ネズミを見ただけでも卒倒しそうだからさあ。それにネコは化けて出てくるって、駄菓子屋のばあちゃんが、よく言ってたよ」
「ははは、たしかにな。ネコは化けるからな」
十文字の軽口が心地よく感じた。ここ最近はストレスを溜める場面ばかりだったので、新妻の表情もしぜんと笑顔になる。組む相手を十文字にしてよかったと思っていた。
「千早姉さん、前にも言ったけどさあ、私は港がいいと思うんだ」
「海の近くは津波で滅茶苦茶だろう。ゴミだらけだし」
「だからだよ。きっとゴミの中にいいモノが隠れてるんだ。ほかの奴らはそんなとこ探さないから、スパムの缶詰とかいっぱいあるさ」
スパムの缶詰は十文字の好物である。彼女はスパムに恋い焦がれていた。
「缶詰は重いから、引き波で海の底にしずんでいるさ。それにゴミの量がたいがいで、とてもじゃないが探せないよ」
巨大な津波が押し寄せて、港湾地帯は蹂躙し尽くされてしまった。損壊はすさまじく、倒壊した建物の瓦礫が敷き詰められ、それらは小山を作り、歩くのも困難なくらいだ。
「じゃあ、魚を獲ればいいよ。川なんかよりも海のほうがたくさんいるじゃんか。千早姉さんなら楽勝だろう」
「どうやって獲るんだよ。私はオットセイじゃないよ。それに帰るまでに腐っちゃうだろう」
「干物にすればいい」
港湾地域への遠征は、新妻も考えていた。その時は、しっかりと用意しておかなければならない。
「あそこまで行って帰ってくるのは、日帰りじゃあ無理だよ。準備もしなきゃならないし」
「まあ、行くんだったら大勢のほうがいいね。ぜっていスパムをみつけてやるんだ」
新妻はクスッと笑った。もしスパムやコンビーフの缶詰を発見したら、真っ先に食べさせてやろうと思っていた。
「やっぱり、マンションの部屋を一軒一軒あたるしかないな」
街の建物はほとんどが倒壊寸前で、なんとか無事なのは学校や公民館、大病院など基礎がしっかりとしているものに限られる。ゲームセンタービルが崩れ落ちることなく屹立しているのは、奇跡的なことだった。
相変わらず地震も群発しているので、廃墟の民家やマンションの中で探しているうちに、倒壊に巻き込まれる危険があった。じっさい、過去に生き埋めになって死んだ者もいる。
「それしかないね」
「危ないけど、できるだけ崩れる寸前のにしよう」
比較的原型をとどめていて、しかも安全そうな建物は探し尽くされている。もはや危険を顧みずに立ち入って行かないと、目ぼしいものを探し当てることができない状況だ。
二人は高層マンションの部屋に立ち入った。まるで空爆されたような外観だが、骨組みはしっかりとしていて、当分は倒壊する心配はないであろうと思われた。
「そういえば、來未ってどういう男が好きなんだ」
「な、なんだよ、いきなり」
「いや、友香子も結婚したし、次は誰かなあって思ってさ」
とくに目的や魂胆があって話をふったわけではない。女子同士、ごく当たり前な会話を、新妻はしたかったのだ。
「私は、そのう、男はあんまし好きじゃない。ってか、男がいないじゃんか。男がいないから、わかんねえや」
思わず本音を漏らしてしまい、十文字は慌てて誤魔化そうとした。床に散乱しているゴミを拾いあげて、さもなにかを探している仕草をする。新妻の視線が、彼女の背中にのしかかる。
「はは、スパムの缶詰はないみたい。千早姉さん、どこか違うとこに行ったほうがいいんじゃね」
「ひょっとして、うちらの中にいるのか。女同士だからって問題なんてないぞ。私は偏見とかないからな」
「だから、私はレズじゃないって」
声がうわずっている。動揺している様子が、ありありとわかった。
もし十文字が望むならばフィジカルな関係になってもよいと、新妻は思っていた。なにせ、その美形には、男ならずとも女でも惹きつけられてしまう。綾瀬などは確かに美人であるが、想像できる範囲を超えるものではない。学年に一人はいるだろうというレベルだ。
だが十文字來未は県に一人いるかいないかのレベルだ。根本的に次元が違うし、その美しさを老いさせるだけなのはもったいない。
「來未、私のことはどうだ」
「どうだって、何がだよ」
「前に抱いてやるって言っただろう。あれは冗談とかじゃないぞ」
「よ、よく、わかんねえよ」
「來未」
新妻が十文字の前に立った。問いかけるような、それでいて憂いているような瞳で見つめている。妹は姉の顔を見ることができなくて、伏し目がちだった。その突きぬけた美顔に、新妻が急に接近した。そして、機関車同士が連結するように、お互いの唇が唇を掴んだ。十文字は嫌がることなく、すんなりと受け入れた。むしろ望んでいたのだろう。彼女の人生で初めてのキスであり、その感動は脳の神経細胞を壊さんばかりの熱さだった。
新妻の舌が、どこまでなら拒絶されないかを探りながら前進していた。十文字は目を瞑って、それを底なしの沼へと引き込もうとする。心からの渇望を感じとった姉の手がショーツの内側へと滑りこみ、神聖不可侵な部分に触れた。十文字は一瞬ビクついたが、むしろ自分から押しつけるように下腹部を突き上げる。入り口付近を撫でまわすと、妹の鼓動はさらに湿った鐘を打ち鳴らした。侵略者は、意地悪く若干の音を立てながら愛撫する。
興奮が悦楽を誘発し、禁忌に触れる背徳感を存分に味わっていた。いつの間にか、彼女の下半分が露わにされていた。新妻がしゃがみ込んで、顔をぴったりと密着させた。
かなりきつめの匂いだったが、平気だった。生娘の唇を侵略した後、今度はもっとも不可侵な部位を、なんなく突破していた。十文字の中で欲情の花火がポンポンと炸裂している。抵抗する気などさらさらなくて、このまま快楽の泉に、どこまでも永遠に溺れてしまいたいと切に願っていた。
新妻は、ある程度冷徹にことを進める。彼女の行為は、自身の性的な欲望というよりも、グループ内の結束をより強固なものにする、という目的があった。一人でも確実に自分の手元においておきたいと、政治的な意図を含んでいた。愛欲にまみれながらも、思考はいたって冷静である。我を失っている十文字とは対照的だった。
背後に人の気配を感じた。それは新妻のよく知っているもので、ある意味、剣呑な存在であると熟知していた。
新妻は濃密なる密着をほどいた。恍惚が途絶えた十文字は、次に訪れるであろう快楽に備えて、目を瞑ったままだった。
「あらあ、もう終わりなの。來未ちゃんはまだまだもの足りないみたいよ」
ナオミ・K・ブルベイカーだった。足元に気をつけながら、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。
十文字はブルベイカーが目の前に接近しているのはわかっていたが、ボーっとしていて即座に行動できなかった。快楽物質の過剰分泌により、脳の反射機能が低下していた。桃色に染まったシナプスを再構築するには、多少のタイムラグが必要となった。
「うわああああっ」
悲鳴をあげながら、その場にへたり込んだ。洟をたらしている秘部を大慌てで隠し、スカートとパンツがどこにあるか、目をキョロキョロさせていた。
「どうして、ここに」
当然の疑問だった。ブルベイカーと一緒に来た覚えはないし、濡れ場に招待した覚えもない。
「なんかさあ、お天気がいいから散歩してたのよ。そうしたら、どこからともなくイヤらしい匂いがするじゃないのさ。すんごくイヤらしいメスの匂いがさ。だからね、どこからかなあと思って来たのよ」
もちろん嘘である。おそらくここに来る途中で自分たちを見つけて、尾行してきたのだろうと、新妻は推測した。
「つけてきたんでしょう」
「さあ」
うっすらと笑みを浮かべていた。新妻と十文字が、昼下がりの情事にどういう言い訳をするのか、待っているかのようだ。
「っあ、わ、私っ、缶詰探してくる。スパム探してくるから」
人生最大の羞恥と焦りで、十文字の頭の中がパニックになりかけていた。スカートとパンツを履かずに、手に持って部屋を出ていった。
二人はあらためてお互いを見つめた。ブルベイカーの表情がいつになく険しかった。
「千早、これはどういうことなの」
「ナオミには関係ない。もう、関係ないんだ」
マズい場面を、もっとも見られたくない人物に見られてしまったが、新妻はヘタな言い訳をしようとはしない。
「あなたは女を愛さないんでしょう。女が女を愛するのはキモいって、言い放ったよね。そして、わたしを捨てたよね。あれだけ愛し合ったのに、わたしを捨てた。ゴミのように捨てた。で、なに、今のは」
本気で怒っている時の口調であることが、新妻にはわかっていた。ブルベイカーは拳銃を携帯しているはずである。言葉を選んで吐き出さなければならないのだが、感情の方が先に立った。
「私がなにをしようが、誰を抱こうが、ナオミには関係ない。もう済んだことでしょ」
「へえ、いってくれるじゃないの」
ブルベイカーの視線は厳しかった。浮気現場に突入したアウトローのように、殺気を含んでいた。
「來未のなにがいいの。あの子、処女でしょう。千早が抱けても、あの子が満足させてくれるの。わたしみたいことができるの。千早の、いっぱいに我慢している可愛い顔を、あの子は見ることができないでしょう」
過ぎ去りし日の追憶を引っぱり出して、ブルベイカーは元の恋人を責めた。新妻は黙っていた。
「ねえ、あの子とやって気持ちがいいの。全然感じないでしょう。さっきの千早、ずっと仏頂面しながらクンニしてたじゃない。あの子だけアヘってただけだったじゃないのさ」
後ろで見ていたのに、新妻の表情をしっかり読み取っていた。元恋人だから為せる洞察眼である。
「ねえ、わたしたち、やり直せるんじゃないの。やっぱり千早も女の子を愛せるんだもの。あのニセの彼氏も死んだんでしょう。千早と暮らせるなら、わたしは戻るよ。すぐにでも戻るよ」
「戻るって、外人部隊はどうするの。ナオミはリーダーなんだから、勝手に離反はできないでしょう」
そうすれば、命をとられる危険があるという意味だ。当然、ブルベイカーもわかっている。
「殺すよ」涼し気な返答だった。
「殺すって」
「また千早と付き合えるのだったら、あいつらを皆殺しにする。だって必要ないでしょう」
ためらうことなくそうするであろう。自分の配下の者たちを冷徹に処理するブルベイカーを、心の中で思い浮かべた。
「私は」
新妻はあらためて、ブルベイカーを見据えた。親友の顔が、次の展開に期待しているのがわかる。
「ナオミとは付き合えない」
落胆の意志を、ブルベイカーはとびきりの無表情であらわした。
「私はもう、ナオミの恋人にはならない。ナオミの望みに応えられない」
「そう」
棒読みのような言い方だったが、一分の隙もない拒絶の意志は充分に伝わったようだ。言った本人もつらいものを感じたのか、数秒ほど瞼を閉じて下を向いていた。さらにダメを押そうとして口を開いた。
「だから」
しかし、もうそこにブルベイカーはいなかった。閑散とした廃墟の部屋の中には、新妻だけが立っていた。
ナオミ・K・ブルベイカーと新妻千早は、過去に恋人同士だった。
付き合い始めたのは、相次ぐ天変地異で文明が爛れきって、ややしばらく経ってからだ。二人は一緒に行動することが多かった。朝比南高校で生活していたグループはまだ人数が多かったので、大勢で外出した際に、よく二人だけで抜け出していた。最初のころは、高校生の時と同じように他愛もない話や、ちょっとした遊びに夢中になった。校則を破っている時と同じ感覚で、その背信行為が心地よかった。
そして何度も何度も二人きりで密会しているうちに、お互いの恋心が熟成されていった。彼女たちは、倫理も道徳も崩れ去った荒野で生き抜いていた。いつ殺されても、あるいは飢えや病気で命を落とすかもしれないし、グループ内の騒動で孤立し放り出されるかもしれない。愛する対象を強烈に欲しなければ心がもたないし、誰かに愛してもらうことが励ましとなる。さらに制限された状況では、愛は、より赤く燃え上がるものだ。
告白はブルベイカーのほうから為された。朝比南高校のアイドルともてはやされた不世出の美女だ。十文字と同じように、女であろうとも、その魅力に抗いきることなどできないし、そもそも新妻は、在学中から自分がブルベイカーのことが好きなのを気づいていた。ただ、彼女は親友であるし同性でもある。慈しみこそすれ、愛を絡め合う相手ではないと、恋心を無理に抑制していた。
付き合うことを承諾した時のブルベイカーを、新妻は生涯忘れることはない。娘を抱きかかえる母のような、孫をあやす祖母のような、とても柔和な表情が印象的だった。深い安堵の吐息を洩らす女神を見つめて、思わず涙を流してしまった。たとえようのない愛しい感情がこみ上げた。どちらかとなく相手の身体に腕を回し、二人は抱き合ったまま泣いた。
女同士なので、実際に恋人になると、なにをどうしたらよいのか、新妻はおおいに戸惑ったが、親友の手ほどきは懇切丁寧であり、その後は、呆れるほどしつこかった。
最初のキスは、煮詰めすぎた糖蜜のように濃厚だった。ちょうどいまさっき十文字が経験したと同様に、ねっとりとした甘さを味わって、新妻はむせかえりそうになった。同時に、生まれて初めて誰かに強く愛されているという実感が全身を熱くさせた。接吻という言葉よりも、貪り求めると表現したほうが合っていた。
ブルベイカーは、恋人を喜ばせる手腕には長けていた。さらに女同士という禁忌が、えもいわれぬスパイスとなっていた。未知の快楽に溺れきるのに、それほどの時を要しなかった。二人は、お互いの肉が溶けて混じり合うくらいに愛し合った。
新妻は、ブルベイカーとの愛と欲情に惑溺していった。我を見失うほどファナティックになり、彼女しか見えなくなった。いついかなる時も離れようとはしなかった。ほかの女子が彼女のそばにいるときなどは、嫉妬でギリギリと胃が痛んだ。
とくにリーダーに対しなにかと意見の多い綾瀬は、毎日肌を密着させるばかりに接近して要注意だった。そのうち自分の恋人は、この可愛らしくも生真面目な後輩を愛撫するのではないかと心配でたまらなかった。
しかしながら、嫉妬に悩んでいたのはブルベイカーも同じことだった。
グループを率いる教師が健在であっても、食料探しなどは彼女が先頭に立って家族を率いていた。どんな危機的な状況に追い込まれても、顏と態度では平然としていた。
だが内心では重圧に押しつぶされそうなのを、有り余る使命感で奮い立たせていたのだ。その燃料となるのは、慰みになるのは、新妻の愛と身体だけだった。彼女だけは他の誰に奪われたくはいし、奪われてはいけない存在だった。
毎日毎日、人の目を盗んでは密会を重ね、それこそブルベイカーは新妻の体液のすべてを吸いつくすほどに、むしゃぶりついていた。
最後の教師が無残な亡骸を晒すこととなり、荒野を生きる若者たちは、自分たちの足で立つことを強いられた。リーダーのブルベイカーは過分な期待と要求に応えるべく、以前にもまして、不安や焦燥を押し殺して指揮をした。そして、その反作用のすべてを新妻が受けつけることとなった。求められるのは魂のレベルまでの愛欲であり、ブルベイカーの業は深く、渇望に果てはなかった。
一方的に貪り続けられる日々が続いた。もはや新妻の意思は関係なく、ブルベイカーの衝動のまま食い散らかされるといった表現が適切だった。密会は、恋人たちが愛を育みには不適切な場所ばかりが選ばれた。
廃墟となった映画館の薄汚いトイレ、ラブホテルの血まみれの浴室跡、風俗店の個室などだ。ブルベイカーは、不潔を連想させる場所をわざわざ好んだ。愛し方も粗暴となった。
相手の意思を確かめることも、ムードを演出することもなくなっていた。ただただ嗜虐的であり、いきない制服と下着を引き剥がし、両手を柱に縛りあげて罵声を浴びせかけられながら犯されることもあった。新妻が悲鳴をあげようが、やめてと言うが、おかまいなしだ。薄ら笑いしながら強引にねじ込むのだった。
そこに歓びがあるのか、ほんとうに恋人に愛されているのか判然としない行為に、新妻の精神は混乱し始めた。こんな屈辱的なことを望んでいないし、満足することもなかった。
ブルベイカーはリーダーとしての能力を発揮すればするほど、裏では倒錯した愛欲で新妻をいたぶった。家族の者たちに注ぐ信頼とは真逆な感情を、恋人にぶつけるようになった。
それは、もはや愛ではなかった。性的倒錯者による虐待であった。心のひだに吐息を吹きかけようとしない恋人の姿勢に、新妻の気持ちが冷めるのは早かった。結局、自分は権力者であるブルベイカーのストレスのはけ口でしかないと気づいた。
新妻は別れることを決意して、その意志をはっきりと伝えた。だがブルベイカーは拒絶した。別れ話を切りだすと、取り付く島もなく喚き散らすのだった。断固たる決断をするしかなかった。それは、善意の第三者である惣島を巻き込んで、唐突に為されたのだった。
「あ、千早姉さん、そのう、あの女は」
「ブルベイカーなら帰ったよ」
「そ、そうなんだ、はは」
十文字が帰ってきた。バツが悪そうにキョロキョロと辺りを見回している。新妻は腕を組んで考え事をしていた。そこにそろりそろりと近づくと、自らの身体を、そっと密着させた。恥ずかしいのか顏は下を向いたままだ。さっきの続きをしてほしいとの態度が、ありありとみてとれた。
「きっと、ブルベイカーたちが傍にいるよ。きょうはまだ何もとってないから、とにかく食えるものを探そう。私たちだけ、手ぶらで帰るわけにはいかないよ」
「あ、うん、そうだよね」
それでも十文字は密着を解かない。もじもじと身体を動かして、ものほしそうな犬のように付きまとう。
新妻は仕方ないといった顔をしたあと、十文字の唇を奪った。たっぷりと舌をからませて、唾液を注ぎ込む。妹は目を瞑り、そのこってりと甘い蜜を存分に味わった。
「続きは帰ってからにしよう。とにかく、食い物探しだ」
「うん」
これほど素直に従う十文字を、新妻は見たことがなかった。今夜はたっぷりとサービスしなければ、おさまりがつかないだろうと考えていた。
それから二人は、マンション内の食料探索にかかった。そういう時にかぎって地震が頻繁に起こり、慌てて外に出たり入ったりして、難儀したわりにはなにも見つけられなかった。夕方頃になってようやく、十文字が靴箱の下から、ドックフードのドライタイプの袋を見つけた。二十キロの用量があり、それを二袋も発見したのである。
「これは大物だなあ、來未。よくやったぞ」
「うん、うん」
帰ってからのご褒美を想像しながら、十文字の下腹部が熱くなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます