第13話

 とくに襲撃を受けることなく、三人は朝比南赤十字病院までやってきた。ここはブルベイカーグループの根城である朝比南高校の、すぐ近くだ。

「ここらへんは、ブルベイカーの目と鼻の先だから、まあ、おかしな奴はいないだろう」

「そうね、ブルベイカーが自分の庭先の警戒を怠るわけないし」

 三人は、いつの間にか一塊になっていた。島田は日本刀を鞘に納めて、のんびりと歩いている。新妻も肩の力を抜いていた。鴻上だけは弾切れの小銃を構えて、前後左右を警戒している。さっき殴られたのと、散々泣いたおかげで、モチベーションが復活したようだ。

「しっかし、この病院は、いつ見ても不気味だな」

「ほんと、そうだな」

 巨大な病院だった。街が崩壊する前は、多くの患者が病気を癒しに訪れて、数多くの医療関係者が従事していた、まさに白き巨塔だった。

 だが、いまとなっては建物のあらゆる個所がボロボロとなり、灰黒色に汚れて無残な姿をさらしていた。そこが医療機関だったという面影はもうない。大きな廃墟ゆえに、不気味な雰囲気を醸し出していた。彼女たちの間では、幽霊が出るともっぱらの評判だった。

「早いとこ二人を探して戻ろう。ここはいまいち好きになれないんだ」

「幽霊がでるって話だからね。あたしもイヤだ」

 ちなみに、島田は幽霊の類は苦手であった。暴力沙汰にはアウトローな男たち顔負けの適正があるのに、怪談話には腰が引けている。なんだかんだいっても、性根は女の子なのだろう。

「よかった。幽霊が相手だと銃はいらないから」

 鴻上は、ホッとしていた。幽霊うんぬんよりも、小銃が使えなくて、二人の足手まといにならずに済みそうだからだ。

「まだ人間のほうがやりやすいだろう。幽霊なんて、どうやってやっつけるんだ」

 苦い顔をしながら島田が言った。

「友香子姉さんは、幽霊が怖いんですか」

 鴻上は、少しばかり嘲りのこもった視線を流した。殴られたことへの意趣返しの意味合いもあった。

「怖いに決まってるだろう。幽霊なんだぞ、貞子なんだぞ、ゾンビなんか問題にならないだろう、ふつう」

「霞を怖がるようなものですよ。実体がないのに、なにができるんですか。せいぜい驚かせるだけですよ。びっくり箱のほうが、まだビックリですよ。バカバカしい」

「バカバカしいとはなんだよ、唯。ゾンビゾンビって喚き散らすよりも、よっぽどバカバカしくないわ」

「いいえ、ゾンビのほうが百万倍怖いですよ。幽霊なんて、蹴っ飛ばしてやればいいんです」と言って、鴻上は空中を蹴り上げた。島田と話しているうちに、衝動が沸き上がってきたようだ。

「おま、唯、あのなあ」

「もういい。くだらないおしゃべりは終わりだ。さっさと中に入って、綾瀬となぎさを連れて帰るんだよ」

 新妻が喝を入れた。二人は言い合いを止めて、次の指示を待った。

「ん?」

「え」

 だが新妻は、すぐに動こうとはしなかった。速断して行動するのが持ち味なのに、いつもの彼女らしくなかった。なんとなくウダウダしたまま数十秒の時が流れた後、なにげなくという感じで言った。

「よし、じゃあ、いつものように唯が先頭だ」

「え、私ですか。でも千早姉さん、89の弾がありませんよ」

 唯が先頭を任されるのは、小銃の射程と突破力を期待されてのことである。銃弾が出ない小銃は使い物にならないし、そうすると日本刀や斧のほうが余程役に立つ。

「うん、それがいい。唯、さっさと行けよ」と島田が急かす。

「ですから、弾がないんです。武器を持った賊が出てきたらヤバいですって。てか、友香子姉さんが先に行ってくださいよう」

「あたしは病院と幽霊が大っ嫌いだっていってるじゃんか。ゾンビはいそうにないから、唯が行けって」

「ですから、私は素手みたいなもんなんですよ」

 お互いに、先頭を切って病院の中に入りたくないようだ。二人の視線が自然と新妻に向かう。

「ひょっとして、千早姉さんが幽霊を怖がっているなんてことはないですよねえ」

「ああー、あんがい、そうかもよ」

 妹たちにじーっと見つめられて、新妻は落ち着きを失っていた。

「な、なにをいっちゃってんだよ。私が幽霊なんて怖いわけにじゃない。そもそも信じてないし」

 リーダーたるもの、実体なき虚妄の産物を恐れていては、グループの指揮統制がままならないし、そもそもがカッコ悪い。

「弾がないんだったら仕方ないか。仕方ないから、私が先に歩くか。あ、もし、友香子が先に行きたいんだったら、それでもいいけど」

「いやいや、姉さんにまかせますわ」

「そ、そうか」

 じつのところ、新妻はゴキブリや痴漢や人喰いよりも、幽霊や怪談話が大嫌いであった。それはもう、ヒステリーを起こしそうなほど苦手としていた。

「ええーっと、じゃあ行こうか」

 リーダーを先頭に、三人の女子たちは廃墟の病院へと入っていった。ガラスが割れてしまい、まっ黒に見える窓の群れが、彼女たちを歓迎するように見下ろしていた。

「友香子、あんまし私にくっ付くなよ」

「姉さんのほうこそ早く行ってよ。ぐずぐずしていたら日が暮れちゃう」

 病院内は薄暗いを通り越して、相当な闇が充満していた。まだ日は暮れていないのだが、さっきまで晴れていた空が、急速に灰黒色の雲に覆われてしまったのだ。まるで黒い雨でも降ってきそうなほどの、濃い闇色だ。

 照明設備が死んでしまっている巨大廃墟の内部は、得体の知れない悪霊たちの住処としては、絶好の雰囲気と霊気を宿していた。

 長い廊下を、床に散らばったゴミや瓦礫に気をつけながら、三人はゆっくりと前進していた。思ったよりも暗いので、懐中電灯かランプの類を持ってくればよかったと、新妻は悔やんでいた。

「この病院は広いので、かたまって探すよりも、手分けしたほうがいいのではないですか」

 鴻上の提案は、暗い空気の中に消えていった。新妻と島田に反応する気はないようだ。

「あのう、二手に分かれたほうが時間を節約できますよ」

「うっせーなあ。だったら、唯がひとりで行けよ。あたしは姉さんと一緒にいるから」

「いや、それは」

 鴻上の小銃には弾がない。二人の姉と違い、彼女はライフルマンに特化しているので、近接格闘戦が得意ではなかった。カッコつけて分かれて探すことを意見具申していたが、本音としては一人での行動は望んでいなかった。

「おい、なんか音がしなかったか」

 数歩先を歩いていた新妻が立ち止まった。その場に膝をついて、体勢を低くする。後ろの二人も、まったく同じ動きをした。緊迫した空気の中、島田が口を開いた。

「綾瀬たちかも」

「いや、なんか違う」

 三人は押し黙った。病院内は無音である。十数秒ほどが経った。

「気のせいだったかな」

 自らの緊張を解いて新妻が立ち上がった。後にいた二人も、ふーっと小さく息を洩らした。そして、リーダーが足を一歩踏み出そうとした時だった。

「ガシャーン」と、大きな音が響いた。

「な、なに」

 女子たちがコンクリートのように固まった。音はほんの少し残響した後、フッと消えてしまった。

「姉さん、なんかいそうだよ」

「ああ、ぜったいにいるな」

 島田は新妻の腰のあたりを握り締めるが、その手はあえなく振り払われた。

「突き当りの部屋に、なんかいるんじゃね」

「レントゲン室だな」

 その部屋のドアは開けっぱなしになっていた。いや、ドア枠や、ドアそのものがひしゃげていた。その向こうから、更なる暗闇が手招きしている。

「綾瀬さんか、なぎさ姉さんじゃないですか」

「そう思うなら、唯、ちょっと見てこいよ」

 ただならぬ雰囲気を感じていた。鴻上は動こうとしない。

「ブルベイカーたちじゃないか。なんせ、ここは朝比南高のすぐ近くだし」

「なんか、そんな気がしません。あんがい、人喰いの残党かもしれないですよ」

「どっちにしても、人だろう」

 新妻が斧をかまえた。何者かわからないが、相手に実体がありそうだとわかると俄然強気になった。それは島田も同じで、抜刀してニヤリとしていた。銃が使えない、したがって活躍できない鴻上は、かえって幽霊のほうがよかったかもと思っていた。

 レントゲン室に、新妻と島田が忍び足で近づいていた。仕方なく、鴻上も距離をとりながらついてきていた。

 開け放たれたドアのところまでやってきた。日本刀を持った島田がまず先に侵入し、すぐに新妻も入り、それぞれが右に左に分かれる。

「あれえ、誰もいないよ。どうなってんだ。姉さん、そっちはどう」

「いや、なんにもないな。さっきの音はなんだったんだ」

「猫でもいたかなあ」

 二人はベッドに腰かけて緊張を解く。ドア付近で立っていた鴻上が、なにげなく振り返った。

「あ」

 廊下の向こうに子どもがいた。幼稚園児くらいの女の子が、真っ赤な服を着た女の子が、じーっと彼女を見つめていた。うす暗くて狭い空間に、紅の服がよく映えていた。

「ね、姉さんたち、あれ見て」

「ああーん」

 鴻上が二人を呼び寄せた。廊下の向こう側を指さして、そこを見るようにアピールした。

「なんだよ、唯。なんいもねえぞ」

 だが、そこにはなにもなかった。ただ暗くて細長い空間が続いているだけだ。

「猫でもいたのか」

 新妻にそう言われて、鴻上は戸惑った。たしかに女の子を見たのだが、どういうわけか、瞬間的に消えてしまったのだ。

「いや、そのう、子どもがいました。赤い服を着た女の子です。幼児ぐらいでした」

「おいおい、不気味なこと言うなよ。よくありがちな幽霊じゃないかよ。花子さんか」

「浮浪児じゃないのか」

「姉さん、今どき浮浪児はいないんじゃないの」

 以前はチラホラいたのだが、最近ではまったく見かけなくなっていた。保護者の庇護なしに、子どもだけで生き抜くことはできない。

「じゃあ、なんだよ」

「たぶん、唯の見間違えじゃねえの」

「そんなことありませんよ。たしかに見たんですから」

 心外だというような表情だった。鴻上は、自分の見たものに確信を持っていた。

「人形でも見たんだって」

「だから、ぜったいに人間でした。だいいち、人形なんてどこにもないですよ」

「だったら、幽霊なんじゃね」

 新妻の胃袋が、キュッと絞めつけられた。たいして暑くもないのに、わきの下に多量の汗をかいていた。

「ここでグダグダ言ってもはじまらないよ。唯、ちょっと行って確認してきな。子どもだったら危険はないだろう」

「え、私がですか」

 赤い服の女の子と聞いて、幽霊を想像している。新妻の闘気が、すすーっとフェードアウトしていく。顔にはださないが、腰のあたりがいい具合に引けていた。

「わかりました。確かめてきます。友香子姉さん、行きますよ」

「え、あたしもかよ」

 いやがる島田を、鴻上がグイグイと前面へ押し出した。へっぴり腰の女子が日本刀を突き出して、その後ろに、カラの小銃を構えたライフルマンがついて行く。

「やっぱ、やだよ、あたしは霊感が強くないんだって。このまま一生幽霊を見ることなしに生きていきたいんだよ。幽霊処女のままでいいんだって」

「大丈夫ですよ、友香子姉さん。あれはたぶん触れると思います」

「触りたくなんかねえよ。ガキは好きじゃねえし、幽霊だったらなおさらだって」

 二人はぴったりと密着したまま進む。廊下のつきあたりまで来たので、そのまま左に曲がってさらに前進していた。

「ナマンダブナマンダブ」

 いつ幽霊が現われてもいいように、島田は魔除けの言葉を口ずさむ。

「友香子姉さん、たぶん、それは効かないと思いますよ。なんか、うっすいです」

「だったら、なんて言えばいいんだよ」

「お父さんの子供だった頃のマンガの本に、エコエコアザラクっていうのがありましたよ」

「じゃあ、エコエコアザラシ、エコエコアザラシ」

「エコエコアザラシじゃなくて、エコエコアザラクです」

「だから、そう言ってるだろう。エロエロアザラシ、エロエロアザラシ」

「いや、エロエロじゃないですって。友香子姉さん、なに言ってんですか、アホですか」

「ええーい、うっさい。あんたはちょっと黙ってろ」

 廊下の角を曲がってしまったので、新妻から二人の姿が見えなくなってしまった。正体不明への探索は島田と鴻上にまかせて、自分は少し休もうと考えた。自爆ベルトを掛けているために、その重さと緊張でノドが渇いていた。持参していたペットボトルを取り出して、グビグビと飲んでいる時だった。

 視界の左端に、なにかが侵入してきた。水を飲み込むことを止めて、新妻は目玉を極限まで左に寄せる。

「・・・」

 レントゲン室のとなり、制御室の横長の窓に少女がいた。赤い服を着た幼稚園児くらいの女の子が、腰のあたりまで姿を見せている。下半身は見えないが、おそらく空中に浮いていると思われた。もしそうであるならば、その女の子が人である可能性はかなり低いだろう。

「友香子、唯、こっち来てくれ~、こっちにきてくれ~」

 それが幽霊であると確信した新妻は、金縛り状態になって動けなくなった。かろうじてペットボトルのふたを閉めることはできたが、絶望のあまり声帯のボリュームが上がらない。蚊の鳴くような声で妹たちを呼んでいる。

 妹たちは、すでに先に行ってしまったので、リーダの声は届かなかった。新妻一人で対処するしかないが、幽霊が死ぬほど怖いので、結局おびえるだけでなにもできなかった。

 赤い服を着た女の子は、身動き一つせず横長の窓を右に左に移動していた。歩いている様子は微塵もない。まっすぐ正面を向いたまま、まるで滑るように移動していた。

「あひゃあ」

 新妻の表情が、一気にくしゃくしゃになった。あまりの恐怖に精神が恐慌状態になってしまう。

「きゃああああああ」

 カタパルトで射出されたごとく、新妻は猛然と突っ走った。悲鳴をあげて涙と鼻水をたらしながら、斧とナタを振り回しての、じつに危険な走狗であった。彼女が我を忘れ悲鳴をあげて逃げるのは、後にも先にもこれが初めてだった。

「なんだ」

 後ろから騒々しいものが接近している気配があった。島田と鴻上は、ほぼ同時に振り返る。

「千早姉さんじゃない」

「あれは姉さんだけど、どうしたんだ。わああ」 

 斧とナタを振り回して、まるで鬼婆のごとく髪を振り乱して猛然と迫ってくる女に、女子たちは慌てふためいた。

「わああ、ああ、いやー」

「うわあ、やめっ、やめろ」

 島田と鴻上は、とっさに抱き合ってその場に崩れ落ちた。もはや山姥なみの妖怪と化した新妻が、その横をものすごい勢いで通り過ぎた。

「な、なに、あれなんなの」

「知らん、とにかく知らん」

 パニックが治まらないまま新妻は疾走し続けていた。自分の見たあの世の者が、きっと追いかけてきているはずだとの妄想にとりつかれていた。

 全身にえもいわれぬ悪寒が駆けぬけ、タコの吸盤ほどの鳥肌が泡立っている。頭の混乱は四肢にも伝わり、足がもつれて転んでしまった。廊下の床に勢いよくダイブした拍子に、持っていた斧とナタが遥か前方へとふっ飛んでいった。

「いってー」

 床に這いつくばった新妻は、膝を押さえて悶絶していた。転んだ時に打ち据えてしまったのだ。打撲程度なので、数秒もすると痛みは引いてしまった。起き上ろうと床に手をついた時、目の前に二本の足があるのを知った。頭の中の全血液が、胃の中へ真っ逆さまに落ちていった。ゴクリと重たい唾をのみ込んでから、そうっと顔をあげた。

「ちょっとう、大丈夫。なにパニックになってんのよ」

「は、ブルベイカー、ええーっ」

 ナオミ・K・ブルベイカーであった。いつの間にそこにいたのか、腕を組んで蔑むような目で見下していた。

「ゆ、ゆ、幽霊が、血だらけの女の子の幽霊が」

 さっきの女児は赤い服を着ていただけで、出血していたわけではないのだが、狼狽しきった新妻の頭の中で、血だらけの女の子に変換されてしまった。

「っぷ、なに言っちゃってんのよ。幽霊なんかいるわけないじゃないのさ。千早はもう、ほんとにおかしいって」

 ブルベイカーはくすくすと笑った。男のみならず、女でも魅了されてしまうような抜群の笑顔だった。

「てか、どうして、ナオミがここに」

「それは、こっちのセリフだっての。この病院は、うちの学校の目と鼻の先にあるのよ。千早たちが入っていくのが見えたから、様子を見にきたんじゃないのさ。庭先を荒らされて、わたしが見過ごすと思う」

 考えてみれば ブルベイカーほど用心深く抜かりのない人間が、自分たちの縄張りを警戒しないはずはない。新妻は冷静さを取り戻した。すーっと立ち上がって、いつものクールな表情に戻った。

「さっきは助けてくれて、ありがとう」

「いえいえ、どういたしまして」

 ブルベイカーはまだ可笑しいのか、くすくすと笑っている。新妻の腹の内を知り尽くしている女の笑いであった。

「そこまで笑うことはないんじゃないの、ナオミ」

「ああ、ごめん。だってえ、相変わらずなんだもん。千早のお化け恐怖症」

「しかたないじゃないの、お化け怖いの生まれつきなんだから」

「ふふ」

 うちとけた会話だった。在りし日の朝比南高校で、毎日のように見られた光景だ。 

 ブルベイカーと新妻は校内校外を問わず、常に一緒にいた。昼食をとるのも、トイレに行くときも一緒だった。新妻がグランドを走っている放課後が、ブルベイカーが親友を開放する時だった。彼女たちの親よりも相手のことを知っているし、あるいは自分よりも熟知していた

 だがいまは、お互いを見る目には厳しさがあった。以前と同じように会話を流しているが、一ミリの油断さえも見せまいとする強い警戒心があった。二人が親友だったのは過去のことであり、それはすでに歴史でしかないのだ。

「いまは話してくれるのね」

「そう、二人っきりだから」

 ブルベイカーは恋愛関係のもつれの果てに、新妻を憎みきって袂を分かれた。誰かがいるときには、その理由の通り振舞うことにしている。

「それで、どうする気」

「どうするって、幽霊がいるんだったら追い出すに決まってるじゃないの。そんな面倒臭いのが目の前をチョロチョロしてたら、士気が落ちちゃうでしょう。まあ、お化けがいればの話しだけど」

「いるって」

 新妻はムキになっていた。

「どうだか」

 ブルベイカーは、冷ややかな目線を向けてから廊下を歩きだした。もちろん、へっぴり腰の新妻もついていく。 

「ところで、この病院に何しに来たのかな。ここに目ぼしいものはなんにもないよ。隅々まで調べたんだから」

「それは」

 綾瀬と西山を探しにきたというのが、なんとなく憚られた。自分のグループ内の微妙な不調和を知られたくなかった。

「誰かを探しにきたんでしょう」

 言い淀んでいる新妻に、ブルベイカーのほうが先に切りだした。もと親友の表情の奥にあるものを読み取るのは、それほど難しくないようだ。

「綾瀬となぎさが来ているはずなんだ。二人で薬を探しているはずだけども」

「へえ、そうなんだ。でも、見てないわねえ。この辺をうろつけば、見張りの網にはかかるはずだけども」

「まさか、さっきの人喰いどもに」

 それは最悪の事態だ。解体された妹たちが、肉片となってナップサックに背負わされているなんてことは、想像するだけで精神が奈落の底に落ちてしまう。新妻は、綾瀬の可愛い顔の皮や西山の一本しかない腕が、あの人喰いのナップサックから突き出している光景を妄想し、吐きそうになった。 

「千早、わたしの話を聞いてなかったの。うじ虫どもは一人残らず片づけたし、持ち物も調べた。穏香やなぎさの痕跡があったら、ぜったいに気づいているから」

 心強い言葉だった。ブルベイカーがそういうのなら間違いないだろう。新妻は思わず抱きつきたい衝動に駆られたが、かろうじて自制するのだった。

「ちょっと待って、なにか気配がする」

「ゆ、幽霊」

 ブルベイカーの足が止まった。ブレザーの内側に手を突っ込み、オートマチックの拳銃と、フラッシュライトを取り出した。濃いブルーの瞳が、暗闇の中でギラリとしている。

「あの右側のドアね。なにか隠れている感じよ」

 右手に拳銃をかまえ左手でフラッシュライトを点灯させて、足音を消してゆっくりと近づく。あの世のものであると確信している新妻は、相変わらずのへっぴり腰のまま、ブルベイカーのあとに続いた。

「ナオミ、塩をまかないと。それとお経とかも」

「ちょっと、うるさい。千早は黙っててよ」

 十数メートルほど先の右側の部屋から、突然、子どもの顔が出てきた。

「ひいっ」

 女の子の頭部なそれは、床にくっ付いたまま二人を凝視していた。

「なんだあれ、寝てんのか」

 部屋の中に寝ている身体があって、頭だけ廊下に出している格好だ。ブルベイカーが持つ拳銃の銃口とフラッシュライトが狙いを定めた。

 すると、その女の子の頭は、そのままの姿勢で上に移動し始めた。だらりと髪をたらし、暗がりの中を、ゆっくりと上昇する。重力を無視した、常人ではあり得ない動き方である。

「ああ、ああ、ああー」

 新妻が絶望的な嗚咽を洩らしていた。宇宙で一番嫌いなモノの奇行を目の当たりにして、精神崩壊する一歩手前だった。ブルベイカーの制服を必死になって引っぱって、早く撃つように催促する。

「はあ~あ。もう、しょうもないことしやがってさ」

 ブルベイカーは冷静だった。

「ちょっと、千早、制服を離しなさいよ」

 彼女が新妻の手を振り払うと、素早くダッシュした。そして右側の部屋に入ると、大きな声でなにか言い始めた。女の子の首は引っ込んでしまい、だれか違う者の声がした。

 新妻は廊下で固まったままだった。ブルベイカーの援護をしなければならないのだが、死んでも幽霊を相手にしたくないので、意識して動かない。そのまま二分少々が経過した。

「千早、こっち来ていいよ」

 ドアから首だけ出してブルベイカーが言った。新妻は首をブルブルと振って、否の態度をとった。

「幽霊なんかじゃないから大丈夫よ。ほんと、臆病なんだから」

 部屋から出てきたブルベイカーが、嫌がる新妻の手を引っぱって強引に連れて行った。

 二人が右側の部屋に入ると、あの赤い服を着た女の子がいた。新妻の顔が一瞬引きつるが、すぐにもう一人別の人間がいることに気がついた。四十代くらいの、見るからにみすぼらしい格好をした男が、申し訳なさそうに正座していたのだ。

「おい、おっさん、どういうことなんだ。説明しろや」

 ブルベイカーが拳銃をその男の頭に突きつけて、いささかドスの効いた声で訊ねた。

「はい、いや、そのう、なんていうか」

 男は、じつに話しにくそうだった。

「どうして、ちびっ子を使って幽霊ごっこをしていたのかってきいているんだよ」

 グリグリと、拳銃の銃口が中年男の頭皮をこする。男は間違って暴発するのではないかと、冷や冷やしている様子だ。

「あははは、ここは居心地がよさそうだから、しばらくいようかなと思って。まあ子連れなんで、なるべく危険は排除しないと」  

「だから、幽霊っぽく見せて人を近づけないようにしていたのね」

「そういうことです、すいません」

 ブルベイカーが男の頭から拳銃を離した。子連れであるのと、その痩せこけた見かけから危険はないと判断した。

「でも、さっきはレントゲン室からいきなり消えたじゃないか。唯も消えたって言ってたぞ」

「ここですね、床とか壁とか天井とか、あっちこっち穴が空いてるんですよ。うちの子は、けっこうすばしっこくて」

 廊下を通らなくても移動はできるということである。

「人騒がせなやつだな」

「ま、幽霊の正体なんてこんなもんよ」

 幽霊騒動は、浮浪者親子の自演であるとわかった。張りつめていた新妻の緊張が、すーっととけていく。安心したのか、急に尿意が催してきてトイレに行きたいと思っていた。

「おっちゃんね、悪いんだけど、ここはわたしらの縄張りなの。だから住み着くのは無理なのね。どこか他の場所に行ってくれないかしら。できれば遠くがいいんだけど」

 仲間以外の人間が傍に住みつくのを、ブルベイカーは認めなかった。スパイとなり、他の勢力を手引することもあるからだ。 

「どこかにって、今さらどこにも行きようがないですよ。ここは無駄に広いから誰かきても隠れる場所があるし、病院だから探せば薬があるかもしれないし、だから」

 バン、と大きな音が鳴った。

 驚いた男と女の子が跳ね上がり、新妻までもがビクリと身体を震わせ、もう少しで失禁してしまうところだった。ブルベイカーが拳銃を一発、壁に向かって撃ったのだ。

「わたしの言ったことが聞こえないのかしら。ここに住んでほしくないと言ってるの。目障りなのね。いっていることがわかるでしょう」

 さらにもう一発、今度は中年男の十数センチ頭上めがけて撃った。背後の壁に穴が空き、男は驚愕の表情でワナワナと震えている。赤い服の女の子が「おどうじゃんおどうじゃん」と泣き叫んでいた。

「千早も覚えておくことね。わたしは自分の庭に勝手に入ってこられるのが嫌いなの。それが可哀そうな子ども連れであれ、人喰いであれ、もと同級生でもね」

 その優艶さと冷酷さは表裏一体だ。それが、現在のナオミ・K・ブルベイカーなのである。

「もう一度訊くけど、あんたたちはここに住みつくの、それともどこか遠いところに行くのかしら」

 銃口は、まっすぐ女の子の顔面をとらえていた。ブルベイカーの表情には、なんら表情がなかった。どこまでも沈み込んだ青い瞳が、父親の選択を待っている。

「出ていきます。ここにはいません。すみません」親子に選択肢はなかった。 

「そう、それは良かった。じゃあ今日中にお願いね。日暮れ前にもう一度くるけど、その時にいたら、たぶん、親子そろってミンチ肉になっちゃうと思うよ。グスングスン」

 ニッコリと泣く真似をしながら笑って話す。親しみ深くて茶目っ気があり、そして決定的に冷酷な女。新妻は厳しい目で、かつて親友だった女を見ていた。

「幽霊さんもいなかったことだし、わたしは帰ろうかな。じゃあね、千早。あなたたちも、わたしの傍をウロチョロしないでね。間違って撃っちゃうかもよ」

 音もなく、ブルベイカーは部屋を出ていった。がっくりとうなだれた痩せっぽちの男に、赤い服の女児が抱きついて離れない。いまからねぐらを探すのは相当に困難だろう。男一人だったら なんとかなるが、まだ年端もいかぬ女児には安全で温かな場所が必要だ。新妻は、なんと言葉をかけていいのかわからなかった。  

 ほどなくして、怒号に近い叫び声と足音が近づいてきた。

「姉さんいるかーっ、いるなら返事してくれ」

「千早姉さん、千早姉さん」

 島田と鴻上である。彼女たちは、広い病院内をあちこち歩き回っているうちに新妻を見失ってしまったのだが、銃声が響いたので慌ててやってきたのだ。

「友香子、唯、ここだよ」

 一度廊下に出た新妻が手招きする。二人が走ってきて、部屋の中に入った。

「姉さん、いまの銃声はなんだったんだ、って、うわあ、だれだこいつら」

「あ、幽霊の女の子」

 赤い服の女の子を見て鴻上は小銃を構えかけたが、新妻が、その銃身を手で掴んだ。島田は怪訝そうな顔で見ていた。すぐに事の顛末が明かされた。

「ブルベイカーが来てたのか。まあ、ここはあいつらの縄張りのど真ん中だし、やっぱヤバかったか。早々に引き上げたほうがいいね」

「綾瀬となぎさは、どうだった」

「いや、いないよ。どこにもいない、てか、いそうにない」

「うん、けっこう探したんだけど」

 ここに綾瀬と西山がいないだろうと三人は考えた。もしいるならば、ブルベイカーのほうが先に見つけているはずだし、すでに帰った可能性が高い。であるならば、この廃墟に長居する必要はないのだ。

「仕方がない。いったん帰ろう」

「あいよ」

 リーダーが撤収の指示を出した。この場が好きになれない島田は、大賛成だ。

「でも千早姉さん、この人らをどうするんですか」

 鴻上はホームレスの親子を見ていた。新妻は、間違っても中年男がここにとどまることがないよう再度警告する。  

「おじさん、ここはあきらめたほうがいい。さっきの女は言ったことは必ずやる。容赦なんかしない。命あっての物種だよ」

 父親は、おそらくこの場に執着しているだろうと、新妻は思った。ブルベイカーにあれだけの忠告を受けても、立ち去らないことが考えられる。いつまでも甘い見通しにしがみ付いて死んでいった者たちを、彼女は数多く見てきた。

「外には人喰いがいるんだぞ。俺らはあいつらから逃げてきたんだ。出ていったら肉にされてしまう。娘を、みすみすエサにさせるわけにはいかない」

 やはり父親は、この病院に残る腹づもりだった。 

「人喰いどもは一人残らず死んだよ」

「ウソつくな」

「ホントだよ。さっきの女が仲間とともに撃ち殺したんだ。じつは、私らも助けられたんだよ」

 中年男は、信用していいのかどうか迷っている様子だ。島田がいかにして人喰いたちが殲滅されたのかを詳しく説明して、ようやく立ち上がった。娘の手をとり、大きなため息をつく。

「どこか行くあてがあるのか」

 我ながら無意味な質問だと、新妻は思った。

「旭川に姉夫婦がいるんだ。そこで世話になろうと思ってる」

 幼児連れでは、旭川どころか、白河の堰を越えることもできないだろう。そもそも北海道自体も壊滅しているはずだ。奇跡的に行けたとしても、姉夫婦が生きている可能性は低いし、そうすると極寒の地で彷徨うことになる。

 中年男は思考力がない馬鹿者なのか、度重なるストレスと心労で判断力がなくなっているか、それとも自暴自棄になっているのか。いずれにせよ、この親子は長くはもたないだろうと思われた。 

「その子だけなら引きとってもいいぞ」

 めずらしく新妻が温情を見せる。鴻上が意外だというような表情をした。  

 男は娘を見た。女の子は父親にしっかりとしがみ付いて、離れようとはしない。

「いや、二人で行くよ。二人で行くんだ。旭川まで行けば、なんとかなるさ」

 自らに言い聞かせているようだった。女児の顔が、ほっこりと緩んだ。

「なら、私たちのところに寄って行けよ。中には入れないけど、食い物を少し分けてやる」

 そう言ってから、新妻は綾瀬にどやされている自分の姿を思い浮かべた。多少の批難を受けても、この親子に施しをしてやりたかったのだ。 

「いや、それもいいよ。あんたらだって食い物には困ってるんだろう」 

 意外にも、中年男は遠慮する。

「それに、さっき缶詰をもらったんだ」

「缶詰?」

「もらたって、誰に」

 男は言ってから、しまったという顔をしていた。うかつに食べ物を持っていることを口走ってはいけないのだ。

 ちょうどいいタイミングで、彼の上着のポケットからサバ缶が落ちた。それはコロコロと転がって、島田の足のつま先にあたった。

「ああーっ、このサバ缶、コンビニであたしが見つけたやつじゃないか。てめえ、だれから盗んだんだよ」

 それを拾いあげた島田の目が、ギラリと光っていた。いまにも斬られてしまうのではないかと怯えた男は、即座に、そして正直に言い訳を始めた。

「あんたらと同じ制服を着た女だったよ。えらく美人なのと、もう一人は片腕だった」

 新妻と島田、鴻上がお互いの顔を見合った。彼女たちの心の声は共通している。やはり、綾瀬と西山が来ていたのだ。

「朝方来てたんだよ。娘と一緒に驚かせてやろうとしたんだけど、あっさり見破られちゃってさ。へへへ」

 優等生である綾瀬相手に、幽霊ごっこは通用しなかったようだ。

「なんか、やさしい姉さんでさあ、いろいろ話したら、これ食べなって缶詰くれたんだよ。片腕の姉さんもいい人でさあ、娘がなついちゃって」

 サバ缶は、この親子の窮乏した姿に同情した綾瀬が手渡したのは間違いなかった。

「それで、二人はどうしたんだ。まだここにいるのか」

「何か見つけたみたいで帰ったよ」

「何時ごろさ」

「時計がないから正確にはわからんけど、昼前だよ」

 二人は、すでにこの廃墟病院にはいない。無事にゲームセンタービルまでたどり着いていてくれと、新妻は心底願う。

「それを返してくれよ。あんたらの仲間にもらったんだ。娘にもらったんだよ」

「わかってるって」

 島田がサバ缶を差し出すと、男はひったくるようにとった。そしてその場でフタをあけると、サバの切り身を女の子の口に放り込み始めた。女児は一生懸命に口をもぐもぐさせながら、必死になって咀嚼している。そして残ったサバの脂肪と汁を、父親が飲み干した。

「そんなにガッつかなくても、とったりしねえよ」島田はあきれ顔だった。

 急いでのみ込もうとしたので、サバの身が喉につかえてしまった。女の子が苦しそうにもがくので、鴻上が自分のペットボトルの水を飲ませた。女児は落ち着いたが、ペットボトルの飲み口がサバ臭くなってしまい、鴻上がイヤそうな顔でクンクンと嗅いでいた。

「さあ、オッサンたちも一緒に出るよ」

 新妻は、どうにも腰の重い親子を強引に連れ出す気だった。ブルベイカーの本気を知っているので、中年男を半殺しにしてでも連れ出さなければならないのだ。

「本当に大丈夫なのか。人喰いがまだいるんじゃないのか」

「だから皆殺しになったっていってるだろう。もし残っていても、あたしたちが叩き斬ってやるから心配するなって」

 やはり、人喰いの存在が気になって仕方ないようだ。

「叩き斬るって、お姉さんたちじゃあ無理だろう」

「おっさん、それはどういう意味だよ」

「だって、うちの子を見て、さっきまですごいビビってただろう。あんなへっぴり腰で、人喰いたちをやっつけるのは無理だって」

「ちょ、おっさんなあ、それは失礼だぞ。あたしらは幽霊はダメだけど、人間相手は無敵なんだよ」

 中年男がせせら笑うような顔をした。島田がもう一言吐き出す前に、新妻が行動を起こした。鴻上が背負っている小銃を剥ぎ取ると、男を蹴り飛ばした。そして口の中に銃口を突っ込んだ。女の子が悲鳴をあげて父親にしがみ付く。

「ここに残るなら、いまここで頭をふっ飛ばしてやる。おまえのあとは娘もだ。どうせ後で、さっきの外人に殺されるんだからな」

 目を白黒させながら、中年男はウーウーと呻っている。新妻が再度ここに残るかどうかを訊ねた。親子に否と答える権利はなかった。  

 三人の女子と一組の親子が廃墟病院を後にした。いまとなっては、まったく人気のなくなったゴーストタウンを、重たい足取りで歩いていた。男は人喰いに怯えていたが、ブルベイカーらが残らず掃討したおかげで出会うことはなかった。

 女子たちは、今夜のねぐらになりそうな場所まで二人を連れてきた。ゲームセンタービルのすぐ近くであり、新妻グループの縄張り内である。崩れかけたコインランドリーが、親子の宿となった。 

 新妻は、父親にもう一度子供を預ける気はないか確認するが、女の子のほうが先に首を振った。もちろん、男の答えは変わらない。

「旭川まで行けば、なんとかなるから」

 彼らが北海道を目指すのは本気だった。

「そうか」新妻も、それ以上いうことはなかった。

「とりあえず、ここで今晩くらいはなんとかなるだろう。そこの毛布は汚いけどなんとか使えそうだし。隣にある神社の水は井戸水だから飲めるよ。ただし夜は出歩かないほうがいい。それと、やっぱり食い物を少し持ってきてやるよ。チビっ子はお腹がすくだろうからな。いいだろう、姉さん」

 リーダーは当然のように承諾した。

「いや、それはいいよ。あんまり世話になると悪いから」

 島田の申し出を、父親はやんわり断った。ここまで面倒をみてもらっても、三人を信頼しきれていない様子だった。

「それに、もう一缶あるから」

 そう言って、彼は上着の内ポケットから缶詰を取り出した。今度はサバの味噌煮である。それを得意げに掲げていた。

「まさか、それも綾瀬からもらったのか」

 男は頷いた。そして、彼女がどれほどの天使であったかを力説するのだ。

「あんにゃろう、普段から言ってることと、実際にやってることが違うだろうって」

「綾瀬さんも、けっこう優しかったんですね」鴻上がニッコリした。

「これ見つけたの、あたしだっつうに、にしても、裕子にナイショでくすねていやがったんだな」

 悔しそうに、サバ味噌煮缶を見る島田であった。

「私らは帰るけど、あとは大丈夫か。ここも安全じゃないから気をつけろよ」

「いろいろとありがとう。明日の朝にはここを発つよ。世話になった」

「しつこいようだけど、あの病院には戻るなよ。間違いなく殺されるからな」

「はは、目指すは北の大地だ。旭川までレッツゴー」

「れっちゅ、ぎょー」

 男が掛け声をかけると、女の子も続いた。明日への希望に胸をふくらませているのが伝わってくる、とてもいい笑顔だった。三人はなんともいえない表情で、しばし親子を見ていた。

「じゃあな、二人とも達者でな」

「よい旅を」

「おっさん、あんまし人を驚かすんじゃねえぞ」

 女子たちは、重い気持ちのまま歩いていた。おそらくあの親子は、それほど日を経たずして、この世から消え去ることになるだろうと思っていた。

 小さな子供を連れて、しかも父親は、荒廃した世界を生き抜くのに必要な知識も技量も武器も不足していた。いままで生き残れたのが不思議であって、今晩にでも誰かのエジキになってくれと言わんばかりの有り様だ。そういう輩は、情け容赦なく狩られる対象でしかない。

 もし奇跡があるのなら、旭川まで続くあまたの煉獄を経験することなく、早めに天に召されたほうがいいのではないか。また、その際には親子を討ち取るであろう死が安らかなものであってくれと、新妻は切に願うのだった。  

 

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