第6話
日が昇るにしたがって暑くなっていた。五人の女子たちは、乾いて埃だらけの荒れた道を家路に向かっていた。
昼時になったので、廃墟となったガソリンスタンドの事務所で 小休止することになった。鴻上と十文字が周囲を偵察し、安全であることを確かめた。
昼食のメニューは、乾燥したご飯をお湯で戻して、そこに中年女からもらったタニシをすべて投入したものだ。半分になった戦利品には手を付けず、できるだけ手持ちを減らさないようにしていた。もったいないからと、森口は一掴みしか入れなかったが、新妻がやってきて、袋の中身をすべて鍋に入れてしまった。
「姉さん、全部使ったらもったいないですって。また綾瀬さんに小言いわれますよ」
「だから、かえって綾瀬に知られたくないんだよ」
図書館に食い物の半分を置いてきたので、彼女たちのお土産は、ずいぶんと目減りしている。
「どこかに立ち寄って、食い物を分けてやったってバレたら、うるさいからさあ」
「証拠隠滅ってわけですね」
「そういうこと」
新妻たちがいないあいだ、留守宅の責任者は綾瀬だ。
彼女は真面目で優秀な働き手であるが、合理的な精神の持ち主でもあった。可哀そうだからと、自分たちの食料を他人に分けるという情緒的な行動はとらない。以前、浮浪児に食べ物を分け与えたというと、相手が新妻でもくってかかったことがあった。
「そんな甘いことで生き残れますか。姉さんは、いつからサンタクロースになったのですか」
「そこまで言うことないじゃないか。ホントに可哀そうなちびっ子だったんだよ」
「私たちが可哀そうな姿でいたら、そのちびっ子は食べ物をくれますか。誰かがめぐんでくれますか」
「助けてくれる人もいるさ。可哀そうだと思う人もいるよ」
「いいえ、弱っていたらなおさら襲われて、犯されて、殺されるだけです。さんざん弄ばれて、最後にはアソコに棒をつっ込まれて死ぬか、首を切り落とされて死ぬの」
「・・・」
綾瀬は、新妻グループの引き締め役も担っていた。高校でいうと、風紀委員のような存在である。厳しいこと、言いにくいことをあえて口に出して、油断しないように締めにかかる。組織を維持していくうえでとても重要な役割だが、堅物との印象が、べっとりと貼りついてしまっていた。好かれることはあまりなく、むしろ煙たがられる存在である。
「今回はあんまりお土産がないから、ツンデレな綾瀬さんの、ツンツンしたとこに当てられますね。ああー、こわ」
「アイツにかぎって、デレはないだろう、デレは」
「ですよねえ、ははは」
綾瀬の悪口で、新妻と森口は盛り上がっていた。
「ずいぶん、いい匂いがするなあ」
タニシの雑炊からは、とびきり美味しそうな湯気が出ていた。もう腹ペコな島田は、見張りをさぼって目ざとく見つめていた。
「これに、ちょっと小ネギを入れたら絶品なんだよなあ」
なにげなく言ったのだが、すぐ傍にいた十文字がめずらしく反応した。
「近くに河原があるから、ちょっととってくる」
そう言って出ていこうとする。野生のアサツキか、ノビルでもあればと考えたのだ。
「一人で行くなよ、來未。唯を連れていきな」
鴻上の姿が見えなかった。ライフルを持つ彼女は、常に見張りを欠かさない。目立たないところに隠れているはずだ。
「大丈夫だよ。この辺にヤバいやつらはいそうにないし、すぐそこだから、ちゃっちゃと行ってくるさ」
鴻上とはあまりウマが合わないので、いないのは好都合だ。十文字は一人で行くことにした。
それほど大きな河川敷ではないが、土手がずっと向こうまで続いている。生えている植物は枯れているのが多かったが、青々とした個所もあった。
「なんだよこれ、イチゴじゃん」
ネギ類を探していた十文字は、意外な発見に声をあげた。おもいがけず、土手にイチゴが生えていたのだ。逸脱した種が野生化したのだろう。実は小さくて痩せ細っていたが、食べるのには支障がない状態だ。
「うん、すっぱいけど、ちょっと甘い」
一つ摘まんで味見をしてみると、ほのかに甘さが感じられた。これはいいデザートになると喜んだ。新妻も褒めてくれるだろう。
「カンタロウたちに教えてあげたいな」
背負っている弓矢が邪魔になったので、土手の斜面に置いた。イチゴは一か所に数株が密集していたが、収穫できる実は数えるほどだ。そこを採り尽してしまうと、別の密集地を探さなければならない。
「みんなの分を集めなきゃ」
魚釣りや山菜取りなどは、我知らず夢中になってしまうものである。十文字はイチゴ採りに没頭するあまり、かなり遠くの方まできてしまった。
「小屋があるなあ」
小屋というより、建物といったほうがいい。当然のように窓は割れて外観は相当に荒れているが、原型はとどめている。鉄筋コンクリートで造られているからだ。すぐ脇に水門があるので、それに付属している施設のようだ。
「なにか、あるかもしれない」
食料は期待できないが、役に立つ道具類があるかもしれない。調べてみる価値はあると判断した。
十文字は、弓矢を持ってないことに気がついた。ナイフもおいてきてしまった。走ればすぐなのだが、それが面倒臭さかった。どうせ誰もいない廃屋だろうとタカをくくってしまった。
それでも、いきなりドアを開けて入り込むようなことはしない。体勢を低くして忍び足で割れた窓から中をのぞき、人の気配を探った。
耳をすますが物音はしなかった。ためしに小石を投げ込んでみるが、反応はなかった。どうやら人はいないようだと判断した彼女は、正面のドアから堂々と、だがゆっくりと這い進むように侵入した。
「うっ」
悪臭が鼻を突いた。動物の死体が腐っているような臭いが漂っている。一瞬引き返そうかと足を止めたが、持ち前の好奇心から、それがなにであるかを確認したくなった。
建物内部を奥へと進む。床にはガラスの破片や布きれなどのゴミが散乱していたが、それらの中に缶詰の空き缶や、魚の骨が混じっていた。しかも、食べカスは比較的新しい感じだった。
また、その付近は悪臭がさらにきつかった。大きく曲がったパイプの左側に空間がありそうだ。臭いの源はそこからであると、十文字は確信した。おそらく、タヌキか野良犬の死骸であろうと見当をつける。動物の死骸を見たところでどうということはないのだが、いちおう確認しておこうと、その狭い空間に入った。そして、あるモノを発見した。
「な、な、」
自分が目にしているモノをマジマジと見つめて、十文字は絶句してしまった。それの前に立ったまま、しばし呆然としていた。
少女の死体だった。全裸の少女が死んでいた。年のころは、小学校の高学年ほどだろうか。ひどく痩せているので幼く見えた。
異様なのは、少女の左手に鋼鉄の手枷が施され、太い配管に繋がれていることだ。しかも少女が逃げないようにか、手枷の鉄の芯棒が手首を貫通していた。血液がドス黒く凝固し、腕から脇腹あたりまで達している。死んで数日たっているのか腐敗は進行していて、下腹がぷっくりと膨らんでいた。死体は見慣れている十文字にとっても、少なからずの衝撃を受けるものだった。
ハッとして、さらに奥につながっている空間を見た。十文字の目に、もう一人の少女が映しだされた。死体の少女と同じく、鎖が付いた手枷で配管に繋がれている。全裸であるのも同じだ。だが、いささか雰囲気が違っていた。
「お、おい、生きてるのか」
死んだ少女と同じような状態だが、かすかに息をしている気配がある。弾かれたように近づくと、壊れないようにそっと揺すった。十文字の呼びかけに、鎖の少女は数回の瞬きで応えた。
「生きてる、生きてる」
死んでいないことがわかったが、早急に介抱しないと長くはもたないように思えた。
「ちくしょう、とれないぞ」
鋼鉄の鎖は、十文字の力ぐらいではどうにもならなかった。引っぱれど叩けど、じゃらじゃらと音を鳴らすだけでビクともしなかった。
「ああ、う」
少女が力なく呻いていた。手枷の心棒が手首を貫通しているので、十文字が引っぱるたびに激痛が襲うのだ。
「なんだって、誰がこんなひどいことをしたんだっ」
激しい怒りと苛立ちで呼吸が乱れ、鼓動が正しいリズムを刻めないでいた。
少女たちが鎖に繋がれている理由は明白であった。逃げられてないように、自由を束縛しているのだ。では、なぜそんなことをしたのか。それは、その青い果実を存分に凌辱するためだ。
少女の全身には殴打されたようなあざが無数にあり、さらに拷問されたのか脇腹や首筋に火傷の痕もあった。とくに女性器の損傷はひどく、赤黒く膿んで爛れていた。そこを見るたびに根性がくじけそうになるので、十文字は鎖を外すことに集中しようと務めた。
しかし桎梏は頑丈であり、どうしても外すことができなかった。自分一人では無理だと判断し、新妻たちを呼びに行こうと立ち上がった瞬間だった。
「なっ」
いきなり後ろ髪を掴まれて、そのまま引きずられた。
すごい力だった。相手は常日頃から暴力に親しんでいるようで、手荒に扱うことについて、躊躇いがまったくなかった。
「はなしやがれ」
十文字は女子とはいえ、荒廃の地を生き抜いている兵士でもある。ある程度の格闘には対処できる、心の気合を持っていた。
建物を出たところで、振り向きざまに相手の股間を蹴り上げた。汚いジャンパーを着た男がうずくまる。またぐらを押さえながら日本語以外で、嗚咽とも悪態ともつかぬ言葉を吐きだしていた。十文字はその前に立ち、ジャンパー男の顔面を思いっきり蹴り上げようとした。
その時、「おい」と後ろから声がかかった。
思わず振り向いてしまった十文字の顔面に拳がめり込んだ。相当に破壊力のある一撃であった。前歯が一本欠けて、彼女は鼻血を出してぶっ倒れてしまった。そして転がるように 仰向けになった。
彼女の胸部に重いものが圧し掛かる。反射的に十文字の手が抵抗するが、そうすると二発三発と強烈な張り手を食らった。さらに前髪を掴まれて、頭部をガシガシと地面に叩きつけられた。意識がとびそうになりながらも、それでも足をジタバタさせて抵抗を試みた。
十文字を襲っているのは、野球帽をかぶった男だ。年のころは四十代あたりで、その腐りきった性根と比例するように、相当に不細工な顔をしていた。
「なんだおい、いまどき女子高生がいたのか。それともコスプレのヘンタイ女か。ちょうどいい。ガキじゃもの足りなかったんだよ」
さらにもう一撃、ゲンコツが振り下ろされた。十文字の左目の周りが腫れあがり、見る間にどす黒く変色して、まったく開かなくなった。ダメを押すように、張り手が数発炸裂する。手のひらではなく、手首の肉がぶ厚い箇所なので、決定的な打撃力があった。
十文字は、男の暴力に抵抗する気力が完全になくなっていた。虫のような息遣いで、されるがままになっていた。
「ほらお姉ちゃん、俺のをしゃぶってくれよ。なんせ汚えからよ、よ~くきれいにしてくれや」
野球帽の男は、仰向けに倒れている十文字の両肩を、自らの両膝でがっちり押さえつけたまま半立ちになった。そしてズボンとパンツを降ろすと、屹立した陰茎を、そのまま彼女の血まみれの顔面になすりつけ始めた。
鼻を潰されているはずなのに、十文字はひどい臭いだと思った。朦朧とした意識の中で、その悪臭だけがはっきりと感じられた。
野球帽の男のほかには、いまさっき股間を蹴られたジャンパーの男と、もう一人別の男がいた。片方のレンズがないメガネをかけたその男も、十文字の足にとびつきスカートを脱がそうとしていた。
「おい、俺が先だっての。おめえは後からだ。中のガキでもイジってろ」
メガネの男が十文字のスカートを脱がし終えると、さっそくそのニオイを嗅いだ。そして、下着に手をかけようとした。
「ちっ、言葉が通じねえっつうのは、めんどくせえなあ」
野球帽の男が上半身だけ反転させて、シッシと手を振った。メガネの男は不服そうな表情だったが、しぶしぶと立ち上がった。リーダー格の男には逆らえないようだ。
「お、汚えパンツだなあ、お姉ちゃん。こりゃ中身のほうも相当臭えんだろうな」
下衆な笑みを浮かべながら、野球帽の男が露わになった太ももをまさぐっていた。
「・・・」
すると、立って見ていたメガネの男の頭が唐突に揺れた。頭髪が付着した皮膚と血液が飛び散り、その一部が野球帽の男の頬にくっ付いた。パンと、乾いた音の残滓が響く。
「な、なんだ」
メガネの男は、そのままぶっ倒れた。頭部の四分の一ほどが吹き飛んで、脳ミソが露出している。すでに絶命していた。
「どりゃああああああ」
大声で叫んでいる制服姿の女子が一人、もの凄い勢いで土手を駆け下りてきた。手には日本刀を持っている。
ジャンパーの男が野球帽の男を見た。リーダーは行け行けと怒鳴っている。
日本語ではないどこかの国の言葉を喚きながら、男はジャンパーの内側に手をつっ込んだ。刃物を取り出そうとしたのだ。
パンと、再び乾いた音がした。アサルトライフルの銃弾が鎖骨付近を貫通し、ジャンパーの男はよろめいた。
そこに日本刀を持った友香子が滑りこんだ。彼女の刀は疾走の勢いのまま、男の両足首を水平に斬った。支えを失ったジャンパーの男は、その場に崩れ落ちた。さらに後頭部へもう一発銃弾が撃ち込まれて、静かになった。主を失った両方の足首は、靴を揃えたように整然と並んだままだった。
「おま、いや、ちょっとまて」
血液が滴る日本刀を前にして、野球帽の男は慌てていた。ズボンをたくし上げるのも忘れて、目の前に仁王立ちしている女子に、待て待てと懇願していた。
「友香子っ、殺すな」遠くから、新妻が叫んだ。
「ちっ」と唾を吐きだして、島田は刀の刃を逆向きにすると、男に向かって力いっぱい振り下ろした。
「ぎゃあああ」
野球帽の男の右腕の骨が折れた。島田は容赦なくもう一度振り下ろし、左の腕の骨を叩き割った。
「ぐおおおお」
尻と陰茎を露出させたまま、野球帽の男は地面にうずくまった。両腕を叩き折られてしまったので、自らを介抱することができない。古き良き和風幽霊のように両手をたらし、ただただ激痛を甘受するだけだ。
「來未、大丈夫か、來未、來未」
すぐに新妻がやってきた。顔面血だらけな十文字を抱き起して、何度も呼びかける。
「姉さん、ちょっと見せて」
森口がやってきて、十文字の具合を診始めた。
「どうなんだ、どうなんだ」と新妻が急かす。
「ひどく殴られている。前歯が折れて、ひょっとして鼻も折れてるかも。左目が破裂してなきゃいいけど。内臓はやられてないから致命傷はないよ」
「そうか」
十文字はショック状態に陥っていた。終末の世で数々の修羅場をくぐりぬけてきた彼女であったが、直接的に、さらに一方的な凌辱を受けたことはなかった。初めて自分のか弱さを痛感し、ケダモノによる容赦ない暴力に戦慄していた。「うう、うう」と声に出すのがやっとだった。
「とりあえず、ヤラれてはいないよ」
島田が十文字のショーツを膝まで下げて、性器に出血がないのを確認した。「この子、まだバージンだから」
非情に険しい表情で、新妻がウンウンと頷く。島田は下着を元に戻し、さらにメガネの男が握っているスカートを奪い取った。その際に、脳ミソがこぼれだしている頭を三度ほど踏みつけて唾を吐きかけてから、來未に朝比南高校のスカートを慎重に履かせた。
「千早姉さん、ちょっと」
鴻上が呼んでいた。彼女は建物の中を調べていた。
「なんだ、なにがあるんだ」
リーダーの問いかけに、彼女は無言で答えた。直接、その目で確かめてくれ、ということだ。
「裕子、いいか」
「うん、來未はまかせて」
鴻上の表情から察するに、建物の中にはロクでもないものが存在していると予想される。それを確認して、どう処理するのか、適切な判断を下すのはリーダーである新妻の役目だ。
室内の腐敗臭に気圧されながらも、鎖につながれて死んでいる全裸の少女を見つけた。どれほどの暴力の果てにこのような姿になるのか、その冷えた瞳が怒りに燃えている。
「こっち」
鴻上が、目線をさらに奥へと向けた。二人は、もう一人の少女に近づいた。
「生きているのか」
「うん、かろうじて。でも、これが外せない」
そう言って、鋼鉄の手枷を持って見せた。新妻も触って、じっくりと検分した。
「金具が手首を貫いているから、ヘタに壊せないのです」
「これ、溶接しているんじゃないか」
少女の手首を貫通している鉄の心棒は、ネジやナットで締められているわけではない。わざわざ電気溶接で結合されていた。
男たちの性に対する執拗さと残虐さに戦慄をおぼえると同時に、たとえようもないほどの激烈な怒りがわき上がっていた。新妻の目が、地獄に巣食う鬼のように濁り始めていた。
「うっわ、なんだこりゃ。ひでえな」
島田もやってきた。少女たちを一目見るなり、即座に状況を理解した。
「唯、あんたのポンチョを貸してくれるか」
鴻上だけが、自分のリュックサックを背負っていた。弾倉を子どもたちに盗られた失敗を、二度と繰り返さないように持参していた。
彼女のポンチョを着た新妻は、いったん建物の外に出た。十文字を介抱している森口を見ると、目線で合図をした。それから両腕を叩き折られて悶絶している男の胸ぐらを掴み、強引に立たせた。彼はよほど腕が痛いのか、子どもみたいな悲鳴をあげた。
新妻は、男の尻を容赦なく蹴飛ばしながら、建物の中へと連れて行った。鎖でつながれた少女の前までやってくると、彼の膝裏を蹴って、そこへ跪かせた。帽子を飛ばして、その脂ぎった髪の毛を鷲づかみにする。
「見ろっ、これを見ろっ。おまえはそれでも人の子かーっ、人の子が、こんな惨いことをできるのかーっ」
新妻は大声で怒鳴りながら、男の顔を女の子の顔のすぐ前まで持ってくる。彼の顔は苦痛で歪み、それを少女の虚ろな目が見ていた。
男を再び立たせた新妻は、後頭部を激しく殴りながら建物の隅へと連れて行った。
「唯、あんたは来なくていいよ。そのかわり、その子をなんとかしてやって」
「うん、金ノコがあるといいんだけど」
島田も奥の方へ行ってしまった。鴻上は自分が呼ばれないことに、心の底からホッとしていた。
それからの十数分は、野球帽の男の猛烈な悲鳴だけの時間となった。
絶え間のない絶叫と慟哭が、建物だけではなく空気までも震わせていた。人はこれほどまでに潰れた声が出せるのだと、その場に漂う霊たちも感心しているだろう。それほどまでの断末魔であった。
鉄のくびきから、少女を解放しようとしている鴻上の心が潰されそうだった。血飛沫が混じった叫喚は苦痛に満ち満ちて、それを聞かされるものの良心を存分にへし折るのだ。新妻千早という女子は、鴻上がけして到達できぬ憧れであり、同時に毎夜安らかな眠りを妨害する悪夢の元凶でもあった。
「姉さん、終わったの」
「ああ」
新妻が外に出てきた。ポンチョの全面は血だらけだった。しかも、新妻の左手に握られている肉塊は、野球帽の男の、切りとられたペニスと睾丸である。森口は、それが何であるかわかっていたが、努めて平然としていた。
「來未はどうだ」
「少し落ち着いたみたい。目の腫れはしばらくひかないけど、失明まではいってないんじゃないかな。今日中に帰れるから、あとは綾瀬さんにまかせる」
新妻は、手にしている肉塊を放り投げてからポンチョを脱いだ。來未と同じ目線までしゃがみ、森口から彼女を受けとった。怯えきった眼が、いまだ空をさ迷っている。
「中に女の子がいるんだ。いま唯が手枷を外している。具合をみてやってくれないか」
「うん、わかったよ」
すぐに森口を少女のもとへ行かせなかったのは、來未の容態が落ち着くまで一人にさせておきたくなかったからだ。最優先は常に自分の家族となる。新妻は、そのことに一切の迷いもない。
「わた、私・・・、も、もう。ああ」
「來未、大丈夫だ。もうなんにも心配ない。あいつらは地獄に行ったし、あの男は私が切り刻んでやったよ」
新妻は來未の頭を抱きかかえて、自分の胸にそっとおいた。そこがよほど心地よいのか、もっとも年下な女子は、母に抱かれた赤子のように安らかな表情になった。二人は、しばらくそのままでいた。
「とれた」
少女の手枷は芯棒が皮膚に癒着し、そこはひどく化膿している。鴻上は手首と心棒を取り去ることを諦めて、まずは配管に繋がった鎖を切ることに専念していた。金切り用のノコギリはなかったが、ヤスリがあったので、それでしぶとく削り続けて切断することができた。
「ちょっと、これはなんなの。そっちに死んだ子がいたけど」
ちょうど、そこに森口がやってきた。全裸でしかも生傷と痣だらけな少女を、じっくりと眉をひそめながら検分し始めた。
「裕子姉さん、この子まだ生きているから、手当してやってくれるか」
「手当っていったって、どうしたらいいのか。とりあえず何か着せよう。それと脱水しているようだから、水を飲ませないと」
水を飲ませることが先だと、鴻上がその場を離れた。森口が少女に着せる物がないかと辺りを見回した。幸いにして、部屋のすみに薄汚れたタオルケットが放置してあった。汚れとホコリをバタバタと掃ったあと、少女の身体を包み込んだ。生気のない幼い顔をマジマジと見つめて、新妻がなぜ男の性器を切りとったのかを理解した。
「水をもってきたよ」
薄汚れたペットボトルだが、中身は今朝図書館で補充したばかりのきれいな水だ。
「そうっとだよ、いきなり飲ませないでね」
「う、うん、わかった」
鴻上が少女の口にペットボトルを近づけた。唇に触れるか触れないかの距離を保ちつつ、水をすこしずつ流した。
意外にも、少女はゴクゴクと喉を鳴らしながら飲んだ。
「飲んでるね」
「うん、たぶん、よっぽどノドが渇いていたんじゃないかな」
ある程度飲ませた後、森口が鴻上の手を止めた。それ以上与えすぎると、かえって身体に負担となってしまうと考えたからだ。
少女は無表情のまま動かなかった。意味のある意思表示はない。
「なにか食べさせたほうがいいのかな」
「タニシの雑炊だったら食べるんじゃない」
「生臭いものは、吐いちゃうかも」
「だったら、なにがいい」
なにを食べさせたらよいか二人で話し合っていると、突如、少女の目がカッと見開いた。そして、「ギャアアアア」と鼓膜が破れるぐらいの甲高い声をあげた。
魔物のように叫びながら、少女は森口の胸元を掴んだ。その傷んだ身体の、どこにこんな馬鹿力が残っていたのだと思えるほど強力だった。
少女の叫びは熾烈を極めた。顔の表情は、もはや人間のそれではなかった。人に似た得体の知れない動物であり、おだやかな性格の森口を怖気づかせるのに十分な迫力があった。
「く、苦しい」
服を掴むだけでは飽き足らず、少女は森口の首を絞め始めた。鴻上があわてて引き剥がしにかかるが、その化け物じみた力に対抗できずに、ただ手を添えているだけだった。
「なんだ、どうしたんだよ、大声出しちゃって」
建物の中を物色していた島田がやってきた。ひと固まりになっている女子たちを見て、なにごとかと驚いている。
「この子が急に暴れ出して、裕子姉さんの首を絞めてるんです」
「なにぃ」
状況をなんとなく理解した島田も鴻上に手を貸すが、少女は一ミリたりとも離れなかった。鎖のついた手枷を引っぱるが、おかまいなしであり、無理を押すとそのか細い腕がちぎれてしまいそうだ。
「すげえ力だな、おい。完全にオツムがキレてやがる」
少女の形相は、もはやバケモノであった。
長期間におよぶ監禁、暴行、レイプ、拷問によって、精神が破壊尽されていた。水を飲ませてもらったことで一時的に生気を取り戻し、溜まりに溜まった感情が大爆発したのだ。
「唯、ちょっと離れろ」
「え、でも裕子姉さんが」
「いいから」
島田は、いったん後ろにさがって助走をつけると、力のかぎり少女を蹴り飛ばした。
「ぐはっ」
少女が数歩後退して、配管に背中をぶち当てた。開放された森口が床に転がり、四つん這いになって咳き込んでいる。
「キイーーーー」
少女はすぐに立ち上がり、傷ついた猛禽のような鋭い奇声を発した。血走った眼で床を浚い、大きなガラスの破片を見つけて握った。
「な、なにを」
「バカ、やめろ」
その大きなガラス片は、まず初めに少女の性器を蹂躙し始めた。ただでさえ膿をだして腫れあがっていた痛々しい果実から、血が滴り落ちていた。想像を絶する苦痛であるはずだが、少女の手はためらうことを忘れ去っていた。ざくざくと、湿った積雪を切り裂くように突き動かすのだった。
局部をあらかた抉り終えると、今度は下腹に、その尖ったガラス片を突き刺した。鋭いといっても所詮はガラス片なので、それほど切れ味がいいわけではない。だから皮膚を引き裂くには、何度も何度も突き刺さなければならなかった。ガラスを握る少女の手の肉も裂けていた。
女子たちは、慄然としながら見つめていた。誰も止めようとはしない。常軌を逸した、あまりにも衝撃的な光景を見せられて、心が凍りついてしまっていた。
腹圧で、少女の腸の一部がとび出してきた。まるで真っ赤なイソギンチャクが、下腹から生えているかのようだった。
「ギュウウ、ッグガウウウウ」
その唸りは魑魅魍魎の類に達していた。私が強いられた地獄をようく見ろ、とくと見ろと、狂人の目線が女子たちを突き刺していた。
「もうやめてよ」
「ひでえな」
少女の自傷行為は凄惨を極めていた。血なまぐさいことには耐性があるはずの女子たちも、直視することができなくなっていた。そうして、自身の腸を引っぱりだそうとした。
「パン」と乾いた音とともに、少女の頭部が吹き飛んだ。一瞬後、血だらけの痩せた身体が、その場に崩れ落ちた。
島田と鴻上が後ろを振り返った。そこにはアサルトライフルを構えた新妻が立っていた。
「あの傷では、どのみち助からない。心も元に戻らないだろうさ」
だから楽にしてあげた、という意味だ。新妻は立ちすくんでいる鴻上に銃を返して、なんら抑揚のない目で死体を見ていた。
せっかく救った命を、いとも簡単に屠ったリーダーに憤慨した女子たちだったが、同時にホッとしたのも事実であった。
「うわああーーー」
今度は森口が奇声をあげた。唐突だったので、鴻上が引きつった表情で見ていた。
「チクショウ、このチンポ野郎っ、ド腐れチンポのハエがーっ。ああー、くううう、もう、なんだよー、クッソーーー」
錯乱したように悪態を吐きまくっていた。普段の彼女からは、想像できない取り乱しようである。
人一倍心優しい森口の精神に、少女の怨嗟の顔が焼き付いて離れなかった。普段は心の無防備な領域に、しっかりとシャッターを下ろしているのだが、いまの彼女の良心は耐えられる限界を超えていたのだ。
「裕子、落ち着けよ。な、な」
「うっせーんだ、バーカ、おめえらみんなクソだー、ちくしょう、どうせチンポがほしいんだろうっ、おまえも私も腐れチンポのど腐れチンポだー」
親友がなだめようとしても、彼女の発狂はおさまらない。逆に目玉を極限まで見開きながら、親友に食ってかかった。
「裕子、裕子、」
「友香子、どけ」
「あ、なにすんの、姉さん」
新妻の強力なる張り手が炸裂した。「バシッ」と、もの凄い音と同時に、森口は紙人形のようにその場でヒラヒラと一回転半して、パタリと倒れた。
「裕子、大丈夫か」
親友がすぐに駆け寄る。
彼女は泣いていた。泣きじゃくっていた。ただし、非常に静かな号泣であった。あまりにも激情したあとに泣くと、嗚咽のあまり声が出ないことがある。詰まった息をようやく吐き出しながら、彼女は泣き続けていた。
「姉さん、これはヒドイよ。裕子だって、いっぱいいっぱいなんだって。なにも殴ることないじゃないか」
めずらしく島田が反抗していた。親友をぶちのめされて、だいぶ腹を立てていた。
「こんな世の中だ、生きていればいろんなことがあるさ。地獄を見ていかなきゃならない時だってある。だからって、自分を見失ってどうする。仲間や家族に八つ当たりしても、いいことなんてなんもないんだ。來未を見習え。あれだけのことされても、もう見張りに立っているんだ。一番下の妹が頑張っているのに、姉がラリってどうする」
新妻の叱咤は腹に堪えるものがあった。いまを生き抜くためには正論ではあったが、島田は納得できないでいた。唇を噛みしめながら、自分を爆発させないようにじっと耐えている。
リーダーとしては、自分にもしものことがあった場合に備え、次のリーダーになる者に目星をつけて厳しく指導する必要があった。
頭がよくて面倒見のよい森口は、その有力な候補の一人たが、もともとが優しい性格の彼女には荷が重いのではないかと思えた。ほかにふさわしいのは綾瀬穏香だが、彼女はどうにも生理的に受けつけないし、皆がついてこないだろうとも考えていた。
新妻は時計を気にしている。この場で費やされた時は、想定外だったからだ。
「出発するよ。ここでだいぶ時間をとってしまったから、日暮れまでに帰れるかどうか。唯、先頭を歩きな。まだヘンタイがいるかもしれないから油断するんじゃないよ」
リーダーの号令にもかかわらず、鴻上は動かなかった。彼女も十二分にショックを受けて放心状態だったのだ。発狂した少女というよりも、森口の壊れっぷりが衝撃的で、リーダーの指示が、右の耳から入って左に抜けてしまっていた。
「唯、しっかりしろ」
「あ、はい、すみません、千早姉さん」
新妻に肩を叩かれて、彼女は慌ててライフルを構えた。銃口が配管の繋ぎ目に当たって、乾いた音を響かせた。
「それで、あの子たちの遺体はどうしますか。埋めますか」
「ほっとくよ」
「ほっとくって」
「私らには関係ない。ただの死体だ」
「そ、そうですね」
森口は泣き止んだみたいだが、動こうとはしなかった。当然ながら、島田も付き添ったままだ。新妻は辛抱強く待った。
先にしびれを切らしたのは島田だった。時刻が迫ってきていることが、気になってきたのだ。ただひたすら一点を見つめている親友へ、立つように促した。ようやく森口が立ち上がった。
「イケるのか」と新妻が訊ねた。
「さあ、知らね」
ひとあたりのいい森口にはめずらしく、不貞腐れた態度だった。新妻の横を、ぶつかるかぶつからないかのスレスレで通りすぎる。一度振り返って、頭を吹き飛ばされた血だらけの死体を数秒ほど凝視したあと、一人で先に出ていってしまった
「姉さん、さっきはすんませんでした」
リーダーとの確執は望まないし、よくよく考えれば、新妻の態度と言葉は当然といえた。島田は素直に頭を下げて、しこりを取り除く努力をする。
「気にするなよ」
そう素っ気なくいうと、新妻もその建物を出ていった。島田もすぐ後に続いた。鴻上は最後だった。
「鴻上」
外に出た途端、十文字が声をかけた。
「さっきはありがとう、助かったよ。姉さんが撃ってくれなかったら、私、ヤバかったから」
顔の腫れは酷かったが、心は落ち着きを取り戻したようだ。いつの間に取ってきたのか、弓矢をいつでも打ち出せるように構えている。彼女が鴻上を「姉さん」と呼んだのは初めてだった。
「私はトロくないから」
抑揚のない声だ。
鴻上にとってはさっきの出来事がよほど腹に堪えていて、十文字のことは、それほど気にしていなかった。ただ、なんとなく気になっていたことを呟いただけだった。
カンタロウとの会話を聞かれていたのかと、十文字は苦笑いをする。尻に矢が刺さった男の死体を横目に、鴻上は早歩きで先を急いだ。新妻から返してもらった血だらけのポンチョは、帰ってから洗おうと考えていた。
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