第3話
タヌキ顔とその子どもたちの住処は、廃墟となった図書館だった。
もとはきれいなビルだったが、いまでは斜塔のように傾き、外壁がボロボロと崩れ落ち、窓もところどころ割れていて原型を留めていない。正面玄関付近は瓦礫に埋めつくされており、パッと見て、どこに入り口があるのかわからなかった。
「そこじゃないよ」
正面玄関で十文字がウロウロしていると、坊主頭が右側の壁のほうへと誘った。
「お姉ちゃん、ここだよ」
外壁と粗大ごみの間に、真っ赤に錆びた鉄板が立て掛けられていた。坊主頭がそれをよけると、ぽっかりと壁に丸い穴があいていた。
「ほらほら、早く入って。ただでさえ目立ってんるんだからさあ」
タヌキ顔が女子たちを急かした。自分たちの住処を誰かに見られないように警戒している。
入り口の穴は子ども用と思えるほど小さくて、すでに大人の身体となっている女子たちには小さすぎた。子どもたちはすんなりと通り抜けたが、彼女たちは恐る恐るその身を入れた。
「ずいぶんと狭いなあ」
島田は、制服を引っかけないように注意しながらくぐった。これ以上の破れは、もはや補修が難しいくらいに、彼女の制服は傷だらけだった。
「うへえ、中も相当だな」
入り口をくぐると、そこは一階部分のロビーなのだが、コンクリート片や廃墟にありがちな雑多な物品が散乱しており、いかにもといった感じだった。
「お姉ちゃんたち、ガラスとかあるからふんじゃだめだよ」
坊主頭が、それとなく注意をする。彼にいわれるまでもなく、女子たちは常に慎重な足取りだ。
中年女が最後に入った。入り口を隠していた錆だらけの鉄板には取っ手がついていて、彼女はそれをしっかりと穴にはめ込んだ。さらに内側からロッカーをあてがい、動かないようにつっかえ棒をした。
「これでよし」
金属製のロッカーで穴を塞ぎ、つっかえ棒でそれを動かないようにしている。これならば野犬にも賊にも侵入されることはないだろうと、新妻は感心していた。
図書館の三階部分が、女と子どもたちの住処となっていた。建物自体が傾いているので、床も傾斜がかかっている。このままでは生活にいちじるしく不便となるが、コンパネ板等をうまく工夫して水平にしていた。
図書室の窓は、真っ黒なカーテンですき間なく覆われている。ガラスは半分くらい割れているのだが、そこには板が張り付けられていた。天井にあるLEDの照明が、淡く切ない光を落としていた。明るくはないが、かといって暗いというほどでもなかった。
「どうして電気があるんだ」
島田が傾いた天井をつくづく見つめていた。電気に触れるのは久しぶりで、過ぎ去りし文明の香りを眩しそうに浴びていた。
「屋上にあるソーラーパネルが、まだ生きてるんだよ。バッテリーが劣化してるから、いつまでもつのかわからないけどね」
「電気関係にくわしいのですか」森口が尋ねる。
「私はね、こう見えても電気技師だったんだよ。国家資格だってもってるんだから」
タヌキ顔の夫が電気技師だったらしく、夫婦で商売をしていたとのことだ。
「本だけはたくさんあるから、遠慮なく読んでよ」
傾いた本棚には難しそうな本がぎっしりとあった。だが、ここまできて勉強しようとする女子などいなかった。とくに鴻上は、まったく興味を示さなかった。
「それじゃあ、ご飯にしようか」
中年女がそう言うと、ちびっ子たちの黄色い歓声があがった。新妻たちも、荷物を降ろして食事の準備にとりかかった。
巨大なヤカンが、電気コンロの上にセットされた。ちびっ子たちが輪になって囲み、お湯が沸くのを、誰も口をきかずに望んでいる。しかし、カップ麺の食べ方を知らないようなので、女子たちが包装紙をはぎ取って粉末スープやかやくを入れてやる。
「ウグイの干物ならたくさんあるんだけど、お姉さんたち、食べていかないか」
中年女が魚の干物をもってきた。二十センチ弱の、カラカラに乾いたお頭付きのウグイだ。
「それ、臭えんだよ」
「あんましおいしくない」
子どもたちには不評のようだ。
「ありがたくご馳走になります」
新妻は五匹の魚を受けとり、ほかの女子に配った。十文字がクンクンとニオイを嗅ぐが、すぐに顔を離した。
「なんだこれ、すごくドブ臭えじゃん」
「ドブ川にしか魚がいないんだよ。それに釣りやすいしね」
タヌキ顔の言い訳にはかまわず、新妻はむしゃむしゃと食べ始める。ほかの女子たちも、少しばかり躊躇いながらも口にした。腐っていないかぎり、彼女たちが食べ物を無駄にすることはない。
「ニオイは良くないけど、味はそれほど悪くない」頭から齧りついて、島田がむしゃむしゃと食べていた。
「でしょう。私は美味しいと思うけど、子どもたちには不評なの」
子どもたちの好き嫌いには手を焼いているようだ。母の苦労を知って、新妻はふっと笑みをもらした。
「お母ちゃん、シンコには、なにを食べさせるの」
コンロの周りにいた女の子がやってきて訊ねた。
「そうだねえ。シンコにはカップ麺もレトルトも無理だろうからね」タヌキ顔は困った顔をしていた。
「まだ、ちびっ子がいるのか」新妻が、あらためて室内を見回した。
「奥で一人寝てるんだけど、具合が悪くてねえ」
「裕子、ちょっと診てやってくれ」
新妻が森口を連れて図書室の奥へといった。島田や鴻上、十文字までもが一緒についてきた。
女の子が一人、シミだらけの布団に寝かされていた。意識はあるが、森口たちを見つめている目線は虚ろで生気がなかった。それでもタヌキ顔の問いかけがうれしいのか、笑みを浮かべて頷いていた。か細くなった手を、必死に届けようとしている。その仕草が哀れを誘い、非情な世界に慣れきった女子たちの胸が引き裂かれそうになっていた。
「どんな感じだ」
「うう~ん、詳しくはわからないけど相当弱ってるよ。綾瀬さんだったらわかるかもしれないけれど」
「綾瀬を連れて来ればよかったか」
今回の食料探索遠征に、彼女たちの中では比較的医療にくわしい綾瀬穏香(あやせしずか)は参加していない。
「たぶん、あんまり長くない」
似たような状態の子どもを何度か見たことのある森口は、小声でそう告げた。
「なんとかなんねえのかよ」
十文字が、やはり小声で悪態をついた。
「美味しいものを食べさせてあげたいんだけどねえ、もうなんにも食べてくれないんだよ。そうだ、お姉さんたち、ジュースを持ってないかい。甘いジュースなら少しは飲むと思うんだ。あるんだったら、後生だから少し分けておくれよ」
「ジュースはないけど」
彼女たちにジュースの手持ちはない。しかし、それに代わるものがあることを知っていた。自然と、島田のほうに視線が集まっていた。
「いや、ダメだよ、これはダメだって。だって修二に食べさせてあげるんだから」
彼女のウエストポーチには、桃の缶詰が入っている。桃の味がする甘いシロップがたっぷりと入っているし、柔らかな桃だと、ひょっとすると食べることができるかもしれない。
「友香子姉さん、食べさせてあげようよ」
鴻上が遠慮気味に言うが、島田はキッと睨んだ。
「そうだよ。缶詰だったら、また探せばいいじゃないか」
めずらしく十文字が同調した。シンコ以外のちびっ子たち、とくにあの坊主頭の少年にも食べさせてあげたいと、ガラにもなく思っていた。
「うっさい、中坊はだまっとけ。これはねえ、修二に食べさせてあげなきゃダメだなんだ。だって、大怪我していて寝たきりなんだよ。修二だって、いつ食べられなくなるかわからないじゃないか。桃はさ、あいつの好物なんだよ。あいつ、すっごい好きなんだよ。あたしの言ってること間違ってるの。姉さん、あたし、ひどいこと言ってるの」
島田は泣いていた。奇跡のように見つけたそれを、最愛の人に捧げたいと願って止まないのだ。
「いや、そうだな。それは友香子のものだよ。私たちがどうこう言っちゃいけないな」
その場の空気は重たい沈黙が支配した。新妻は無理強いするつもりはないようで、彼女の判断に任せていた。
タヌキ顔の落胆が計り知れない。寝たきりのシンコが、母さん母さんとか細くつぶやいていた。
「くっそう」
島田の手が乱暴に動いていた。ウエストポーチを腰からはずすと、それを皆の前にデンと置いた。そして中から桃の缶詰を取り出すと、未練を吹っ切るように蓋を引っぱって、涙を流しながら封印を解いた。
「今度、こんど見つけたら必ず修二に食べさせてあげるんだから。絶対に、絶対だからね」
新妻、森口、鴻上に十文字の表情が、安堵したようにほころんだ。泣いているのは島田だけだった。
「ありがとう、お姉さん、ありがとうな。ありがとうありがとう」
タヌキ顔が大仰に何度も礼を言った。森口がさっそく、傍らに置いてあった子ども用の小さな茶碗に、桃缶のシロップを注いだ。そして、それをタヌキ顔に手渡した。
「シンコ、桃のジュースだよ」
正確には桃缶のシロップなのだが、甘い飲み物であるという点では同じことだ。
タヌキ顔は、とびきりやさしいタヌキ顔になって女の子を抱き起した。シンコの寝かされている布団は、子どもたちの中で一番柔らかなものであったが、長い期間寝たきりなのか、すっかりとせんべい布団となっていた。
「もし飲めないのだったら、綿かなにかにしみ込ませてからのほうが」
とても飲める状態ではないだろう、と心配した森口が助言した。
「飲んだよ、シンコが飲んだ。あは、あは、飲んだ飲んだ」
だが女の子は、少しずつではあったが桃のシロップを飲み始めた。一口飲んではむせて、一口飲んでは休み、さらにもう一口を、それこそ歯を食いしばって飲んでいた。
「少しだったら、食べれるかもしれないね」
女の子の様子を見て、新妻は食べることができると思った。タヌキ顔も、ウンウンと頷く。
いつの間にか、ほかの子どもたちが集まっていた。皆、心配そうにシンコを見ている。
「ちょうどいい。ガキども、皿を持ってきな。桃を食べさせてやんからよ」
島田の言っていることがわからず、ちびっ子たちは、ポカンとしていた。
「この子たちは桃を知らないんだよ。おいしい果物なんて食ったことないさ。前に河原で秋グミが採れたんだけど それも最近じゃあ、とんとご無沙汰だからさあ」
気候の変動があまりにも極端になった現在、人間にとって有用な作物はほぼ育たなくなった。なにせ、じりじりと砂漠のような暑さが続くかと思えば、次の日には霜が降りて雪まで降ってくるのだ。穀物類なんかすぐに枯死するし、菜っ葉類も種の段階で腐ってしまう。屋内で育てるという手段もあるが、野菜を育てることのできる五体満足な建物などどこにも存在しない。ほとんど価値のない雑草だけが、たくましく残っていた。
「チンミ、みんなの分のお皿を持ってきてちょうだい。ちっちゃいやつでいいよ」
母親にそう言われて、女の子が一人どこかへ走っていった。ほかの子どもたちは、相も変わらず立っているだけだ。
「おまえらは、さっさとカップ麺を食いな。のびてしまうだろう」
島田に尻を叩かれて、ちびっ子たちがカップ麺のことを思いだした。ワーッと奇声を発しながら、ヤカンの場所に戻っていった。
「アチ」
「あちゅい」
「あちちち」
熱々のカップ麺に、それらを食べ慣れていない子どもたちは苦戦していた。
「むけない、むけない」
力がなさ過ぎて、フタを取れない子どもがいた。鴻上がいってとってやると、嬉しそうな顔を、ずうっと彼女に向けていた。
冷めないうちに早く食べなと鴻上が促すが、いつまでも見上げている。仕方がないといった表情のあと、彼女はカップ麺を、その子の顔の前に持ってきた。子どもは、さも嬉しそうに食べるのだった。
ほかにも食べ方がわからない子どもたちがいたので、十文字もやってきて、あれやこれやと手伝っていた。
「テーブルじゃないから、犬食いだなあ」
子どもたちは、熱くて重いカップ麺の容器を持っていられない。床に直置きし、そこの前に正座をして、犬のように食べるのだった。
「お姉ちゃん、うめえよ。これ、すんごく、うめえよ」
坊主頭が味噌ラーメンのシナチクを箸でつまんで、これ見よがしに掲げた。十文字がピースサインで返した。
「お母ちゃん、はいこれ」
チンミが小皿を抱えて帰ってきた。それらを中年女のもとにおくと、すぐに皆のところに戻って、自分のカップ麺の前に座った。そして、やはり犬食いな姿勢で食べ始めた。子どもたちの食事風景を見た新妻が、大きくため息をついた。
タヌキ顔は、シンコをいったん寝かせてから、小さなナイフで桃を等分にわけようとしていた。
「私らのはいらないから、ぜんぶ、チビちゃんたちにあげて」
新妻の申し出だった。ほかの女子たちに異存はない。
「さっき魚をもらったから、お返しだよ。まあ、分けたらなんぼもないけどな」
照れくさいのか、島田はあっちのほうを見ながらそう言った。タヌキ顔は、申し訳なさそうな表情だった。
「ほんとに女神さまだよ。こんな時代に、ありがたいことだねえ」
子どもたちの分だけ、桃は切り分けられた。最初の一片をシンコに食べさせようと、中年女が箸でつまんだ。今度は新妻が女の子を抱き起した。
「シンコ、桃だよ、ほら、お食べよ。さっきのジュース、おいしかったでしょう。こっちのほうが、もっとおいしいからさあ」
シンコは桃の小片を少しだけ齧ったが、うまく咀嚼できないようで吐きだしてしまった。中年女が一度噛んで柔らかくしてから、それを食べさせた。今度はのみ込むことだができた。
「あまり食べさせないほうがいいよ」
森口は食べさせ過ぎを心配していた。弱った身体に無理を押すと、かえって症状が悪化してしまうことがあるからだ
「そうさね」
タヌキ顔もそのことをわかっているようで、それ以上は後にすると言った。シンコは桃に満足したのか、少し笑みを浮かべている。「よかったね、シンコ」と、母親がやさしく言葉をかけて寝かせた。
「おーいガキども、カップ麺を食い終わったか」
子どもたちは、まだ麺をすすっている最中だ。
「それを食い終わったら、こっちにこいよ。桃を食わせてやるかよ」
島田の桃に対す執着はなくなっていた。修二に食べさせられなかったのは非常に残念だったが、こうして子どもたちに与えられることも悪くないと思っていた。
美味しいものが食べられると確信した子どもたちは、急いでカップ麺の残りをすすっていた。そんなに焦らなくても大丈夫だからと鴻上が諌めるが、誰も従う者はいなかった。
「わあー」
「もも、もも」
「もーも」
早く食べ終えたちびっ子らが、奇声をあげながら走ってきた。タヌキ顔が一人一人に皿を手渡すと、すぐに口の中へ放り込んだ。ほんの一口しかなかったが、それでも、その奇跡の果実を知らしめるには充分な量だった。
「どうだ、うまいだろう」
島田が偉そうに腕を組んでいる。桃を食べた子供たちの満面の笑顔が、その言葉への返答となった。
鴻上は、れいの子どもにカップ麺の汁を飲ませていた。火傷しないようにゆっくりと口に注ぎ込むが、早く桃を食べたいのか、子どもは彼女の手をつかんで無理に飲み込もうとする。「そんなに急いじゃダメだって、ヤケドしちゃうから」鴻上は抑え気味だったが、難儀しているようだった。
汁をようやく飲み終えると、そのちびっ子は、やはり、わーと叫びながら桃のほうへ走っていった。
「お姉さんたち、お風呂はどうだい」
「え、風呂があるのかよ」
子どもたちに桃を与えながら、中年女が入浴を勧める。
「風呂っていっても、タライにお湯を張っただけだよ。電気給湯器の用量がそんなにないんだ。バッテリーも持たないし」
「それで十分だよ」彼女たちに、もちろん異存はない。
「よく水がありますね」
「ここは、もともと井戸の水も使っているんだ。モータで汲み上げているから、水だけは豊富だよ」
その図書館には浴室がなかった。あったとしても、建物自体がこれだけ損壊していれば使える状態ではなかっただろう。だから、給湯室の前の廊下が浴場となっていた。
電気蓄熱式の給湯器からホースを直接ひいて、タライに入れて風呂として使っていると、中年女が説明した。ちょうどいい具合に床が傾斜しているので、使い終わったお湯は、給湯室の排水溝へと集められ排出される。
タライはプラスチック製で、もとはモルタルを練る際に使用する容器だ。けっこうな大きさだが、大人の入浴は一度に二人が限度である。順番としては、最初に島田と鴻上、次に森口と十文字、最後に新妻となった。
「風呂っつっても、これじゃあ水浴びだよな」
タライには十五センチ少々しか水深がなかった。大量の水を沸かせるほどの電力がないので、お湯の使用は節約が基本となる。ただし石鹸を流すお湯は、一人につきバケツ一杯程度まで許されていた。
「でも、お湯ですよ、友香子姉さん。水じゃないだけマシです」
彼女たちの家で、お湯の風呂に入ることは極めて贅沢な行為だ。滅多なことでは許可されない。いつもは水シャワーで軽く流すだけだ。暑い日はいいが、寒くなると身体に堪えるので、濡れタオルで拭くことだけになる。
鴻上は、お湯をすくって何度も身体にかけていた。その温かさが心地よくて、顏がうっとりとしている。
「おい唯、キモいからあんまりあたしにくっ付くなよ。尻が当たってるって。そっちの趣味はないぞ」
「私だってレズじゃありませんよ。狭いから仕方ないんです」
二人は、できる限りくっ付かないようにくっ付きながら、お湯を楽しんでいる。給湯室にあった石鹸で髪と身体を洗うと、タライのお湯はドブのような色になった。
「唯、あんたずいぶん汚れてたんだな。汗かき症なのか」
「いや、私じゃなくて友香子姉さんでしょう。パンツも汚かったし」
「あたしが、こんなに汚いわけないだろう」
「いえ、きっと友香子姉さんですよ」
「いやいや」
二人がお互いの汚さをなすり付けあっていると、黄色い声をあげながら、すっ裸の子どもたちがワラワラとやってきた。
「こらこら、ただでさえ狭いのに、そんなにきたら全員入れないだろう」
「あひっ」
さっきカップ麺を食べさせていた子がいきなり抱きついてきたので、思わずヘンな声が出てしまった鴻上だった。
「ごめんねえ、ついでにさあ、この子らも洗ってあげてよ。なんかお姉さんたちと入るんだって、張りきっちゃってるのよ。そのかわり、もうちょっとお湯を使っていいからさあ」
タヌキ顔もやってきて、手を合わせて拝むように頼んでいた。子どもたちはうれしそうにまとわりついて、キャッキャと騒ぎながら、押し合いへし合いし始めた。
「ようし、みんなまとめて洗ってやるからな。鴻上は邪魔だから、あっちいけよ」
「いやいや、友香子姉さんこそ、もうあがってくださいよ。ちびっ子たちは、私が洗いますから」
久しぶりのお湯である。その生ぬるい感触にいつまでも浸っていたいと、年頃の女子は望んでいた。
「よしわかった、二人で洗おう。とりあえず狭いから、ガキどもをタライに入れようか」
島田と鴻上は、いったんタライの外に出て、残りの子どもたちを入れた。石鹸で派手に泡立てすると、一人一人頭のてっぺんからゴシゴシやり始あた。
「あ、こら、オッパイを触るんじゃない」
男の子が面白がって島田の胸を触ろうとしているが、逆にお尻を叩かれてしまい、わあわあと泣き始めた。
「減るもんじゃないんだし、少しぐらい触らせてあげればいいんじゃないですか、友香子姉さん」
「冗談じゃなよ。ただでさえ、ちっぱいになってるんだから」
島田は胸の小ささを気にしていた。子どもたちにもいえることだが、皆一様に痩せていて、なかなかふくよかな身体にはならないのだ。
「友香子姉さんたち、まだかよ。あとがつかえてるんだからさ」
そこに十文字と森口もやってきた。彼女たちのお風呂への渇望は並々ならぬものがある。思いもかけずに、お湯にありつけたのだ。一刻も早くさっぱりしたくてうずうずとしていた。
「ちょっとまってな、ガキどもが先だよ。なんなら、あんたも手伝いなって」
「そういうことは、せんぱ~いにまかせます~」
面倒なことはごめんだとばかりに、十文字は行ってしまった。森口はその場に残ったが、二人を手伝おうとはしない。ニヤニヤとして、面白がっている様子だった。
「ほらあ、じっとしてなって。そこのちびっ子、バシャバシャやらない。ほうら、石鹸水が目に入っていたいだろうに。ああイライラする。鴻上、なんとかしろよ」
「私も忙しいよ」
落ち着きのないちびっ子たちに四苦八苦しながら、なんとか入浴を終えさせた。それぞれが、再び黄色い歓声をあげながら戻っていった。
「うう、ちゃぶい」
「なんか冷えてませんか」
裸で子どもたちの面倒をみていたので、すっかり湯冷めしてしまっていた。
「ちびっ子たちがあがってきたぞ。あれえ、なんでまた入ってるんだよ」
「てへへ」
「はは」
島田と鴻上が、ちゃっかりまたタライに入っていた。しかも、新しくきれいな湯へと交換している。
「ちょ、なにやってんだよ。あんまりお湯がないんだぞ」
「友香子、ずるいよ」
これには焦らずにはいられない。森口と十文字は急いで服を脱ぎ捨てると、とび込むように入っていった。
「おいおい、ここに四人は無理だって。それよか裕子、あんたのオッパイでかいわあ。ロクなもの食ってないのに、なんでそんなになるの」
「裕子姉さんは、水だけでもおっきくなるんだよ」
十文字がヘラヘラ笑いながら言う。
「え、じゃあそれに水が入ってるんですか」
「そんなわけないじゃないっ。唯までなにいってるのよ、もう」
とても窮屈なタライの中で、女子たちはキャッキャと笑っていた。
「ほらあ、カンタ。早くきなさい」
そこに再びタヌキ顔がやってきた。坊主頭の少年を無理矢理引っぱっている。
「お姉さんたち、この子も洗ってやってくれないか。最後に残ってたんだよ」
彼は裸であり、股間を精一杯手で隠し、へっぴり腰のまま恥ずかしそうにしていた。
「おまえ、カンタって名前だったのか」
十文字がタライから出てきた。彼の前で腕を組んで仁王立ちしている。もちろん、どうどうと全裸であった。
「カンタロウ、だよ」
坊主頭は、カンタロウと名乗った。十文字を直視できなくて、ずっと斜め下を見ていた。
「カンタロウか。カッコイイ名前じゃないか」
十文字はそう言って親指をたてるが、少年は終始モジモとしており、とても面と向かい合える精神状態ではなかった。
「おれ、やっぱいいよ」
「あ、ちょっと待ちなよ」
カンタロウは手で股間を隠したまま、逃げてしまった。中年女が、お湯がもったいないもったいないと叫びながら追ってゆく。
「あのくらいになると、女を意識するのかな」
「え、だってまだ小坊じゃんか。毛も生えてないんだし」
「かわいいイモムシさんだったね」
「裕子、見たのかよ」
「見えちゃったのよ」
年頃である女たちの話のネタに、男は欠かせない。たとえそれが年端もいかぬ少年であろうとも、気持ちも血管も火照っている女子たちにとっては、いいオカズとなっていた。
しばしのおしゃべりの後、島田と鴻上が先にあがることになった。もう、充分に湯を楽しんだようだ。
「なんだ、友香子と唯は終わりか」
入れ違いにやってきたのは新妻だった。彼女は一人でタライを独占する権利を得ていたが、皆がなかなか上がってこないので、しびれを切らしてしまったのだ。
「私も仲間に入れてくれるかな」
「はい、どうぞ」
リーダーと密着した時を過ごすことになった森口と十文字は、少しばかりの緊迫を感じている。
「姉さんは、ほんとスタイルがいい」
森口が褒めるまでもなく、新妻の身体は均整がとれていて美しかった。陸上部で鍛えていたボディーは存分に引き締まっていて、それでいて女を特徴づける個所は、しっかりと主張していた。アメリカ人とのハーフであるので、ボディーが日本人離れしている。背の高いこともあって、同性から見ても、ほれぼれとする逸品だった。
「はは、ほめてもなんもでないよ。それに、男には見せられないよ」
新妻が自嘲気味に言った。なぜなら、いまの彼女は傷だらけなのだ。
大小十あまりの生々しい切り傷や刺し傷が、背中や脇腹、太ももに走っていた。それは彼女がリーダーの責務を果たすうえで、命を賭した場面で幾度も刻みつけられたものである。
「だいぶ目立たなくなったみたい」
十文字が、脇腹のとくに大きな傷にそっと触れた。
「うわっ、おい來未、やめてくれよ。くすぐったいだろう」
新妻は恥ずかしそうに身をよじるが、十文字は、なおも触り続ける。興味、憧れ、色欲などが入り混じった感情が、彼女の手を無意識に動かしていた
「そこから先はダメだよ」
リーダーの鋭い目で睨まれて、十文字はハッとして我にかえった。あともう少しで、新妻の乳首に触れようとしていたのだ。
「も、もう、風呂はいい」といって逃げるように出ていった。
「あの子、そっちのほうに興味があるかも」
「まあ、男が極端にいないからね。それはそれで仕方がないことさ」
十文字が同性愛に走ったとしても、おそらく誰も文句は言わないだろう。略奪や人殺しが、日常茶飯事な世界で生きているのだ。ゲイになったとしても、たいして気にされもしないし、そもそもジェンダーは自由であるべきだとする認識だ。
「ところで、あんたはどうなんだい、裕子。そういえば彼氏はいなかったよな」
この世が混沌に突入する前、森口に男子と付き合っている事実は周知されていなかった。すなわち、彼氏はいなかったということである。
「そうなの。男に縁がないのよね、私。あんがい、來未とデキてるかもしれないよ」
「それはそれは」
二人はニヤニヤしながら会話を楽しんでいる。お互いの太ももがぴったり密着していた。
「帰ったら、來未を抱いてやろうかと思っていたけど、彼女がいるんじゃあ、それはできないかな」
「いいえいいえ、遠慮なくどうぞ。よければ三人で楽しむってのもありますけれども」
森口が意味ありげな目線を流す。新妻は、この会話がどこまで行くのか、興味津々といった様子だった。
そこに、まだ裸のままの十文字が突入してきた。どうやらすぐ傍で、聞き耳をたてていたようだ。
「私はレズじゃないから。絶対にレズじゃないんだから―」
顔を真っ赤にしながら真剣に否定する十文字だった。
「ぷっ」森口がふき出す。
「くくく」新妻も、爆笑をかろうじて堪えていた。
「な、なんだよー、姉さんたち、私をからかったのか」
自分が嘲笑の的になったのだと知って、十文字は少々戸惑っていた。
「ひとを小馬鹿にして、なにがおもしれんだあ。バカ野郎」
そして怒りだしてしまい、涙目になりながら、今度こそは出ていった。
「ちょっと、からかい過ぎちゃったみたい」
「これは、しばらく機嫌が悪いな」
新妻と森口は長風呂となっていた。身体だけではなく、あの薄汚れた下着類もついでに洗っていたからだ。
「姉さんの傷、ホントに目立たなくなった」
さっき十文字が触れた傷をまじまじと見て、森口が言った。
「綾瀬のおかげだな」
「綾瀬さん、仕事はホントに丁寧にやるわ」
新妻は以前、中華包丁で切りつけられてかなりの裂傷を負ったのだが、綾瀬がその傷を治療したのだった。
「さすが、学年一の優等生だけあって器用だわ。きれいに縫い合わせている」
「でも、かなり痛かったよ。あいつ、麻酔薬がもったいないって、ほんの少しし打たなかったんだ。信じられないよ、ほんと」
「姉さんだから大丈夫と思ったんでしょう」
「私は怪獣じゃないよ。これでも女の子なんだからね。ホントに女の子なんだから」
女の子を連呼する言い方がおかしくて、森口はくすくすと笑った。
綾瀬穏香(あやせしずか)は、新妻が率いるグループで医療を担当している。といっても、大学や看護学校で医学を学んだわけではない。本や動画で必死になって勉強し、独学でいまのレベルまで習得したのだ。
基本的にはシロウトであったが、幸か不幸か、臨床の場は豊富にあった。怪我人がひっきりなしに運ばれてきて、好むと好まざるにかかわらず、彼女はやるしかなかった。
場数を踏むうちに、切断や縫合などの手術くらいはできるようになっていた。持ち前の勤勉さで種々の薬とその効能、使用法を研究し、いまでは医療担当として、グループに欠かせない人材となっている。
「今回、薬を見つけられなかったのは残念だったよ。綾瀬からしつこく頼まれていたからさ」
「姉さん、仕方ないでしょう。ドラッグストアにはモノが一つもなかったし、病院は骸骨ばかりで、薬どころか注射器の一つもなかったじゃない。コンビニにナプキンがあっただけでもめっけものよ」
「ナプキンだけじゃなあ」
今回の探索では、食料はなんとか手に入れられたが、薬品類を見つけることができなかった。遠征は、回を重ねるごとに収奪物が少なくなっていた。
「次は、もう少し遠くに行かないとダメですかね」
「そうかもな」
現状のきびしさを、リーダーである新妻はひしひしと感じていた。
「さあ、パンツも洗ったし、あがって寝ようか」
「そうですね」
二人は風呂を終えた。後片づけをして、タヌキ顔に丁寧に礼を言った。
「喜んでもらって、私もうれしいよ。今夜は冷えるから、風邪をひかないようにね。毛布だけはたくさんあるんだよ」
「そういえば、かなり寒くなってるな」
新妻は肌寒さを感じていた。長風呂したからだと思っていたが、そうではないらしい。
「千早姉さん、みぞれが降ってるよ。たぶん、朝には雪になりそう」
「え、マジか」
明かりが漏れないように、図書室の窓という窓には目張りがされていて、外の様子は見えないのだが、上の階はほぼ出入りがないために窓は元のままだ。お化けが出ると中年女がホラを吹いているので、子どもたちはほとんど立ち入らない。鴻上は、そこの窓から外を眺めてきた。
「昨日までは砂漠のような暑さで、今晩は雪か」
ふーと、深く息を吐き出して新妻が言った。
「これじゃあ、せっかく植えてきたトウモロコシの苗も全滅かな」森口も嘆いていた。
異常気象が地球のリズムを滅茶苦茶にしていた。天候の極端な変動は植物を枯らし、人心を暗澹たる気持ちにさせた。
森口は、苦労して手に入れたトウモロコシの種を十センチほどの苗にして、それらを即席の畑に植えてきていたのだが、これでは育たないどころかすべて枯れてしまっただろうと落胆するのだった。
「また植えればいいよ」と新妻が慰めるが、「そうですね」と力なく返事をしただけだった。
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