ep.3 星条旗の正義
「我々にある選択肢は二つです。現状のまま挑発を続け、日本が仕掛けてくるのを気長に待つか。あるいは我が国から対日宣戦をするか」
ホワイトハウスの大統領執務室で、集まった政府閣僚らに対して統合参謀本部議長のウィリアム・リーヒが言った。
日本に対する制裁と並行して、日本軍への神経戦を仕掛ける。遠からず日本側は発砲するので、それを機にヨーロッパの戦争に介入すればよい。そうすれば大統領の公約である不戦の誓いを破ることにもならない。
そんな作戦案が承認されてから既に5カ月あまり。
2カ月も持たないだろうという当初の想定に反し、日本軍は一切挑発に乗ってこない。
現場からの報告では、任務に携わる兵士の苛立ちは日増しに大きくなっており、このままでは合衆国の側から撃ちかねないとのことだった。
いつまでも参戦を先延ばしにしていれば、ナチス・ドイツに欧州が席巻されかねない。
誰も口に出さないが、策の行き詰まりを伴う焦りがある。
リーヒの発言を受けて、次に口を開いたのは商務長官のジェシー・ジョーンズだった。
「やはり、太平洋とヨーロッパの二方面戦争は避けるべきではありませんかな。まずはドイツを打倒した後に日本を――」
「問題はありません。我が国の国力であれば十分に対応できます。参謀本部では複数国と同時に戦争となった場合の計画も考えております」
「貴官はそう言うが……」
人は死ぬのだぞ。
ジョーンズは続きの言葉を飲み込み、分かりやすく表情を曇らせた。
「大統領閣下、日本と妥協するという選択肢はありませんか?」
「ない」
遠慮がちな問いかけに、合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトは断固とした口調で返す。
「日本はインドシナのフランス領、オランダ領への進駐をもって、己が侵略性の強いファシズム国家であることを明らかにした。ヨーロッパにもアジアにも、そのような軍事国家の存在を許すことはできぬ。打倒しなければならない世界の敵となったのだ」
「ミスター・ハル、日本が合衆国の要求を受け入れ、インドシナから撤兵するという可能性はありませんか?」
なおも重ねたジョーンズの問いに、国務長官のコーデル・ハルが返答した。
「可能性は限りなく低いと考えます。日本との交渉は仏印問題以降平行線をたどっており、妥協の糸口すら見えません。蘭印で莫大な資源を手に入れた日本が、我が国の勧告に従う可能性は万に一つもないでしょう」
「大統領閣下。確かにインドシナへの進駐は大事かもしれませんが、所詮は他国の植民地です。日本軍は我が軍の挑発に一切反応する様子を見せておらぬとか。合衆国と戦う意思のない国と戦端を開き、合衆国の若者を戦地に送るというのは、如何なものですかな」
ジョーンズに代わるように内務長官のハロルド・イケスがルーズベルトを詰問するような口調で言った。地元で黒人の地位改善を主張するなど、リベラル色の非常に強い閣僚で、日本をきっかけにヨーロッパの戦争に介入しようとする方策にも事あるごとに反対を表明して来た政治家の一人だった。
「もはやそのようなことを言っていられる状況ではないのだ、イケス。侵略国家を野放しにすれば、必ず将来に禍根を残す。日本もドイツもイタリアも。合衆国が叩き潰し、世界に平和と秩序をもたらさなければならぬ。未来の合衆国国民のためにも」
「統合参謀本部では、緒戦で日本に大打撃を与え、速やかに城下の盟を迫る作戦を立案しております。早期に日本を打倒できれば、戦力の全てをヨーロッパに割り振ることも可能となり、結果的にナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアの打倒も早まるでしょう」
リーヒの言葉にルーズベルトは満足げに頷いた。
「イケス、国内世論はどうなっているかね?」
「開戦やむなしと考える声であれば、対独については77パーセント、対日については53パーセントとなっております。対伊についてはサンプルが少ないですが、50パーセントは間違いなく超えているかと」
「半数を超えたか」
先ほどは対日開戦に反対するような口調のイケスだったが、私情を挟むことなく正確な情報を伝えた。そして、その数値はルーズベルトを満足させるものだったらしい。
「頃合いかもしれんな」
「問題は、日独伊の三国を合衆国とイギリスだけで相手取らなければならない、ということです」
外交顧問のハリー・ホプキンスが言った。大臣の地位にはないが、ルーズベルトの強い信任を受け、特別顧問として出席している人物だ。
「遅すぎた、と言いたいのかね」
「はい。少なくとも半年……いや3カ月でも早く宣戦していれば、このような事態には陥らなかったでしょう。ロシア戦線、北アフリカ戦線の悪化はもとい、蘭印についても日本が態勢を整える前にケリをつけることができたはず。無礼ながら、日本軍への神経戦は判断ミスであったと言わざるを得ません」
遠慮のない口調にルーズベルトは僅かに表情を歪めたが、すぐに平静に戻った上で、机上の世界地図に視線を向けた。
「ソ連はもはや頼りにならぬか?」
「援助によってドイツと戦わせる、という手段なら使えなくはありませんが、今のソ連にそれが出来るかどうか……」
ホプキンスの目くばせを受け、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルが答えた。
「イギリスに派遣した武官の報告によれば、本年7月1日の時点でドイツ軍は既にキエフ、レニングラード、ノヴゴロド、スモレンスク、ムルマンスクといった有力都市を陥落させ、モスクワに迫っております」
一同の視線が世界地図の内、ソ連に向けられた。
ドイツとソ連の支配領域を色分けしているはずなのだが、情報が錯綜しすぎているため幼児が絵具をぶちまけたような勢力図になってしまっている。
ただそれでも、ソ連が苦境に陥っているということは容易に想像できた。
今年、1941年の3月末、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、総勢360万を超える大戦力でソ連領へと侵攻を開始した。奇襲への備えなど全くしていなかったソ連軍は全戦線で総崩れの様相を呈した。偶然にも今年は雪解けが遅く、泥濘に阻まれなかったドイツ軍はフランス侵攻戦を上回る勢いで急進した。
ソ連の指導者ヨシフ・スターリンはモスクワから全国民に向けて徹底抗戦を呼びかけているものの、状況は芳しくない。既にウクライナ、
「ムルマンスクが陥落した今となっては、ソ連政府自体がどうなるのか予断を許さぬ状況です。このままモスクワが陥落するようなことになれば、ソ連政府の求心力は地に落ちます。下手をすればソビエト連邦という国家そのものが消えかねません」
ハルの言葉通り、これまでは北海に面したムルマンスクが、ソ連援助の主な窓口として機能していた。しかし同地はフィンランドから侵攻してきたドイツ軍によって既に陥落してしまっている。
もう一つの窓口であるアルハンゲリスクは未だソ連が確保し続けているが、この港はムルマンスクよりも遠隔地にあり難易度が高い。
マーシャルが口を添えるように付け加えた。
「もちろん今後もアルハンゲリスクを経由した援助は継続します。ですがそれもドイツへの牽制、兵力の吸収くらいには使えるでしょうが、戦術レベルに留まるでしょう。あえて申し上げますが、当面は戦略上のファクターから外すのが賢明かと考えます」
「……やむを得ぬか」
ルーズベルトは頷いた。
「イギリスの独力で、あるいはソ連によってドイツを打倒したかったが、できぬのならば仕方あるまい。勝利の代償を他国民の血だけで贖うというのは、合衆国にしては虫が良すぎたかもしれぬ」
「事態は一刻を争います、大統領閣下」
リーヒが励ますように言った。
「今ならまだ挽回は可能です。ヨーロッパでも、アジアでも、我が軍は敵を打倒する力を持っております。合衆国はミュンヘンから学ばねばなりません」
ミュンヘンとは、チェコスロバキアのズデーテン地方の帰属をめぐって英仏独伊の四ヶ国が開催した国際会議の事である。知れた通りこの会議では「これがドイツの求める最後の領土要求である」というドイツの言い分によって要求のほとんどが通ってしまった。
英仏の国民は戦争を避けられたと歓喜したが、ドイツはすぐさま手のひらを返し、チェコスロバキアそのものを併合、後のポーランド侵攻に繋がった。
「このまま合衆国が参戦しなければ、ドイツも日本も領土を拡大し世界に覇を唱えるでしょう。そうなれば次に奴らが狙うのは合衆国の打倒です。宥和は愚策、禍根の芽を摘み取るは今しかありません」
「その通りだ」
ルーズベルトは大きく頷くと、閣僚らに対して宣言するように言った。
「侵略者には、不当な手段で手に入れたものをすべて吐き出させる必要がある。アンシュルツ、
ルーズベルトの言葉に執務室の空気がしばし張り詰めた。
戦争に介入しないという合衆国の方針が撤回されたことを誰もが悟ったのだ。
さらにアンシュルツ――ドイツによるオーストリアの併合や、満州問題についても一気に解決する。それはつまり両国を全面降伏に追い込むまで戦争を継続するという意思をルーズベルトは露わにしたのである。
「イギリスについてはどうだ。我が国から日本に宣戦布告した場合、共に戦ってくれるだろうか」
「イギリスは蘭印問題では合衆国と歩調を合わせて日本を非難しましたが、戦争となると話は変わってきます」
ルーズベルトの言葉にハルが慎重に答えた。
「駐英大使館の報告によれば、日本大使が外務省や首相官邸を頻繁に訪れ、会談を行っているとのことです。おそらく合衆国との戦争になっても参戦しないよう呼び掛けているのでしょう」
「自分たちが弱いという自覚は持っているようだな」
嘲るように言ったルーズベルトに、レーヒが口を開く。
「イギリスには期待せぬ方がよろしいでしょう。本土航空戦にこそ勝利を収めましたが、未だ大陸反攻の目処は立っておりません。加えて北アフリカ戦線の防戦一方となれば……このような状況で日本に宣戦しても、極東植民地を奪われ、逆に日本の拠点を増やすだけに終わります。むしろ足手まといかと」
「イギリスの助力など無用です。合衆国海軍は単独であっても、日本を打倒するのに十分な力を有しております」
海軍作戦部長のハロルド・スタークが口元を僅かに吊り上げた。
マドリード軍縮条約の結果、日本は当初合衆国が要求していた主力艦の対米比率6割を超える比率6割5分5厘の海軍力を擁してしまっているが、それでも両者が保有する戦力おいては歴然とした差が存在する。
日本海軍ごとき、合衆国だけで十分叩き潰せる。スタークはそう言いたげだった。
「日本は関係悪化前にイギリスやフランスを、協定締結後にはドイツを経由することで、技術力の大幅な向上があったと聞きますぞ」
「どれほど技術を得ようとも、それを量産し使いこなせなければ、脅威ではありません」
ホプキンスが警告するような視線を送ったが、スタークは鼻で笑い返した。
「開戦を議会に伝えよう。世論もそれを望むのだ。合衆国は世界を導く自由の砦であり、民主主義の灯であらねばならぬ。議員も国民も、その使命を理解してくれると私は信じる」
意を決したように、ルーズベルトは一息に言った。
「大統領閣下、改めて申し上げるべきことではないかもしれませんが、敵とはいえ日本もドイツも世界の列強に数えられる大国です。当然戦争は長引きますし、犠牲も相当なものになるでしょう。その点はご覚悟なされますよう」
「犠牲を払おうとも、成さねばならぬことはある」
念押しするようなイケスに、ルーズベルトは向き直って頷いた。
そしてハルの方に視線を向けた。
「日本大使のノムラと交渉してくれ。合衆国の要求を改めて突き付けるのだ」
「ノムラには気の毒なことになりますな。合衆国との戦争を誰よりも避けようとしていた人物に、交渉は実を結ばぬと暗に伝えることになるのですから」
「私自身、ノムラとは親交がある。彼は立派な紳士であったし、付き合っていて気持ちの良い友人だった」
駐米日本大使の野村吉三郎はルーズベルトと旧知の間柄であり、対米開戦を避けるため大使に任命されたという過去を持つ。
「だが、個人の友人であることと国家間の友諠は別問題だ」
ルーズベルトはハルに向かって笑みを浮かべる。
それは好々爺じみた彼の笑みを酷薄なものに見せた。
「合衆国は最後まで戦争を回避するべく交渉を続けた。愚かにもその手を振り払ったのは日本である。その体裁は、整えておかねばな」
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