第15話 料理人梅吉
年が改まって正月気分も抜けると、敬四郎は街中を歩き回って表店の空き家を探していたのである。
間口は狭くても良く、表通りでなくとも良かった。
お仙はそう言う意味では行動範囲が広く、広範囲に物件を探し得たのだが、安い物件となるとそうはなかった。
二月になると敬四郎は髪型も身形も変えてすっかり町人となった。
髪は女房のお仙が髪結いだから、床屋に行かなくとも本多髷位簡単に出来たのである。
お仙としては肩衣と袴を取った亭主の髪型を通人のように、髷は折り返しの無い前出しにしたかったのだが、敬四郎が嫌ったので、商人風の後ろ三分前出し七分の髷にして、揉み上げは剃り落としたのである。
綿入れの小袖や文無しの羽織等はお仙が富沢町の古着屋で購入したものだが、柳原の古着と違って上物であった。
名前は梅吉と変えた。
お仙には、
「うめー食い物で良し」という意味だとか何とか言ったが、葎の苗字梅野の梅でもあったのだ。
梅吉は真新しい雪駄を履いて、恋女房然のお仙と共に豊島町の裏店から家探しに向かった。
「いい天気だなぁ。いい所があったら決めるからな。良いかい」
「あいよ、あんたの思いのままに」
傍から見れば町人夫婦だが、どうも亭主の歩き方が武士のようで何となく固い感じである。
「も少し楽に歩いたら」と笑うと、
「可笑しいか」と口調まで戻っている。
「無理しなくても良いわよ」
こんな調子で新橋を渡り、神田川沿いに
泉橋を過ぎると、神田佐久間町でその近辺に町人地が広がっている。
御徒町の通りを入って行くと、神田松永町までが町屋で、その先は下谷廣徳寺前辺りまで御家人の屋敷地であった。
松永町から西に入ると神田相生町や仲町に花房町とあった。
「お仙、この辺りにあると良いな」
と辺りを物色して回る。
すると下谷御成街道にほど近い花房町代地と仲町三丁目の間に、間口二間の手ごろな空き家があった。
大家は花房町の乾物商六左衛門で御内儀の妹がお仙の三味線のお弟子さんという偶然もあって一千文のところを八百文としてくれたが借りるに当たっては店子としての挨拶料として二百文を渡したのである。
間口二間の奥行き四間で向かって右側は裏口まで土間であった。
出入り口に土間があり、手前が三畳で奥に四畳半があった。後ろは竈に流しがあり、二階に上る階段があった。
調理道具や皿などの器類は買い揃えたが、損料屋から借りて間に合わせる物もあった。
甘利の家を出る時、母ふきが営業資金に使うようにと十両を財布に入れて寄こした。
それは多分将軍弁当の稼ぎの一部を渡していたこともあり、使わず貯めていたものや、家計の遣り繰りからコツコツと貯めたものであったに違いなかった。
開業して間もなくは嘗ての仲間や将軍弁当のお得意さんらが冷やかしによる程度で町人の客は少なかった。
然もその多くは加賀前田家の
或る時、野村甚五郎が仁吉と翔太を連れてやって来た。
「此方の料理は確かに美味いんですよ。でも上品過ぎるというか、我ら庶民の舌には上等過ぎるのかも知れません。これで行くならお武家さん相手の方が良いかも知れませんよ」
梅吉はうんうんと肯きながら聞いて居た。
「今日のように寒い時は鍋ものが良いでしょう。どぜう鍋とかどぜう汁なんか出したらどうです」
この仁吉の言葉に嘗て松次郎と居酒屋や飯屋に入って実体験していたことを思い出したのである。
町屋の料理人になろうとした動機は美味い食材を多くの人々に広めたかったのだが、自分が納得する味にこだわり過ぎたようだ。
梅吉は店を休んでお仙を連れて飯屋を廻った。
「どうだったい」
「あれが庶民の味かな」
お仙は梅吉がしょぼくれない様にやんわりと意見を述べた。
〈みそ仕立てで丸ごと煮るのがいいんだな〉
それはどぜう鍋であった。
翌日竈職人を呼んで、大鍋の掛けられる竈を入って直ぐのところに造って貰った。亦入り口には『どぜう鍋、どぜう汁』の看板を立てて客足を誘ったのである。
朝振り売りがどじょうを売りに来たので、二篭分買い取った。
丸ごと一匹入った汁が一杯十五文で、鍋が五十文で出した。
近くに扱う店が無かった所為か、客の入りは悪くなかった。
甚五郎らが土間や店先に置ける長椅子(縁台)を作って持って来た。
その長椅子に座ってふうふう言いながら美味そうに食べている様子を見れば、又客が入った。
最初の内はお仙が手伝っていたが、忙しくなってくるとそうもいかなかった。況してや本業にはお得意さんが付いて居たので其方を放って置くことも出来なかったので、松次郎夫妻が遊びに来たのを幸いに店番を頼んだのである。
主人が留守してる間はどせう汁のみでいいからと言って出かけて行った。
そこへお仙が戻って来ると、
「お久しぶりです。まあまあお武家様にこのようなお願いをするなんてご免なさい」
と謝るのだった。
「何処へ行ったのかしら」
思い立ったように出掛けて行ったというのだ。
扨て御当人はというと、嘗て葎と同居していた屋敷を訪ねていたのである。
「ご免ください」
大きな声で呼ばわると、
「はいはいはい、何方様でしょうか」
と登米が出てきた。
「元気そうだね」と声を掛けると、
「えぇあっ旦那様?」
「登米さん、もう旦那じゃないよ」
「まぁすっかり御変わりになってしまったもんで分からなかったですよ」
ところでお前さんたちは未だここに居るのかい」
「あぁもう出なきゃならないんですよ。今日も亭主は家探しに出てましてね」
「そりゃ何かい、この家を壊すとでも言うのかい」
「いいえ~お年寄様方が引っ越して来られるんですよ。彼方の御屋敷より敷地も広いようですから子育て……あっあっあそうだ、お葎様がご懐妊されたんですよ。ご存じありませんか」
「葎殿が身籠ったというのか…」
「はぁいそうです。てっきりそのことで来られたのかと思いましたが?」
「知らぬよ、お相手は何方だ」
「何ですかね、旦那様じゃないんですか」
「違うだろう。幾月だ」
「六月目だそうですよ」
敬四郎(梅吉)は思わず指を折って数えた。すると同時にあの晩のことが思い浮かぶのだった。
葎の思いによるものか、或いは義母の考えに因る物かは分からなかったが、種を宿したことには変わりなかった。
以前葎は『あなたのお子を産む』と言ったことがあった。
知り合いの蘭学医に教わってあの晩を選んだのか、思えばそれはその前の風呂場への呼びつけから始まって居たと言えるようだ。
望みながらも叶わなかった二人の思いが確実に実を結んだならば嬉しいには違いなかったが、複雑な気持ちでもあった。
「まあそのことはいいとして、それならどうかね登米さん、政吉さんと共に私の店を手伝っては呉れないか」
「お店を出したんですか、町屋に?」
「そうだ。来てくれるか」
「そりゃもう喜んで参りますとも」
この日はそれを土産に帰ると、松次郎夫妻が接客に疲れたように座り込んで待つていた。
「ご免ご免待たしてしまったな」
用向きの結果を三人に話しながら晩飯にしたのである。
「それは良かったよ兄者」
お絹は葎のことを話すのではと内心ハラハラしながら聞いて居た。
如何やら種は間違いなく敬四郎(梅吉)のものであったからだ。
この二組が顔を合わせたのは品川御殿山の花見以来であった。
「ところで兄者のその髪はいいじゃないですか、似合ってますよ」
とお絹も声を揃えて誉めた。
「そうかい、こいつぁお仙が結ってくれたのよ。似合うかい」
梅吉はお仙の顔を見てにっこり笑って見せた。
「ところで新人はどうだい」
五代目を継いだ彦六のことだが、松次郎は組が違うので側で見ることは無かったが、評価は悪くはなかった。
「兄者、姉さんそれじゃまた来るよ」
「有難う、気を付けて帰られよ」
登米と政吉の二人は葎に正式に暇乞いをすると花房町の店にやって来た。
「今日は見てるだけで良いから、荷物はそれだけかい。奥の部屋に置いときな」
この日はお仙が手伝いをしていたので、二人に見合わせると、登米も政吉も前掛けをして店に立った。
要領を得て来ると登米は客のあしらいも上手く、政吉は鍋から汁を掬ってお椀に盛ると、長椅子に座って待って居る客に手際よく配った。
梅吉は二人の為に裏店に住まいを用意しておいた。
四畳半一間に角火鉢と行灯が一つと家具というべきものはないが、空の行李と枕屏風の中に二人分の夜具が折り畳んであった。
これ等はお仙が気を利かして用意したものであった。
多分荷物など無いだろうとの梅吉の見解に従ってみると、二人の所持品は着物類を入れた風呂敷が二包みあるだけだった。
屋敷を辞する時に葎は登米に餞別を呉れたという。
この二人が店の切り盛りが出来るようになると、梅吉は更なる展開を考えていた。
それは旗本屋敷や御家人、更には商人や町人富裕層への料理の仕出しであった。
これは各家庭に於ける行事や祝い事に伴う祝い膳の出張料理、仕出しである。
それまでは各家に於ける女中が賄っていた。 以前より専門書として料理本が出回ってはいたが、それをお手本にして実際に料理してみると本のようには仕上がらず、専門家のようにも出来なかったのである。
客人が満足するような料理が出せれば良いが、その様な腕前の料理人はそうそう居るものではなかった。
その点御膳所で鍛えられ、同僚の松次郎と町屋を食べ歩いて食への飽くなき探求を心掛けてきた敬四郎(梅吉)には自信があったのである。
巷間に出回っている料理書なども一応参考にして、人其々の趣向、味覚の違いを考慮しながら季節に合った食材の選定と調味料の使い分けや薬味の添え方などを考えて料理したのである。
仕出しについては松次郎が表向きの嘗てのお得意さんらに宣伝すると、口伝えに御家人から旗本の下役から徐々に大身へと伝わり、利用者の評判が自然伝播して行った。
こうして徐々に引き合いがくると、それなりに人手が要るようになり、松次郎や嘗ての同僚らにも声を掛けて、非番で出られる者に応援を頼んだ。
松次郎を始めとして大概の者は、梅吉の要請に応じて応援に来てくれたのである。
殆どの者は家禄四十俵か五十俵と云ったところなので、銀十二匁(二万円)の報酬は大きかった。
多くの御家人たちは、食べる為に組屋敷内でも内職をして居たほどで、梅吉から頼まれる高額報酬の手伝い仕事は、彼らにとってはこの上ない稼ぎであったのだ。
それ故この手伝い仕事が続いてあればいいと思うのだが、梅吉は何時までも人頼みではいけないと思っていたので、弟子の育成を考えていた。
其れとともに仕出しもある程度で止めて、料亭を構える算段であった。
その為には土地建物が必要であった。
資金さえあれば町人でも土地を手に入れることが出来たのだが、その資金はまだ十分ではなく、最初は小さな料亭でも良かろうと、大家や地主に当たってみたが条件の合う物件はなかなか見つからなかった。
そんな折、疋田松次郎の妻絹が花房町の店に立ち寄ったのだ。
「これはお絹様、ようこそお出で下さいました。どうぞお上がり下さいませ」
偶々店に居たお仙が応対したのである。
「すっかりお武家様の御新造様になられましたこと」
お絹は手土産を出してお仙に渡した。
「お気遣いなさらずお気軽にお立ち寄りくださいませな」
「敬四郎様は御在宅でしょうか」
「近くに出かけて居りますが、直戻ると思いますが…」
如何やら本人に直接話したいらしく話題を逸らす。
「此方のお店はご城内でも評判のようですよ」
「それは疋田様が皆様に触れて下さったお陰ですよ。有難いことです。あら戻ったようですよちょいとお待ち下さいませ」
お仙は表で近所の職人と話し込んでいる亭主に、
「お絹様が見えてますよ
と声を掛けた。
「あいよ、お前は出かけるのかい」
「あんたに話があるみたいだし、あたしゃ多町の友弥さんにお三味線の稽古をつけなきゃならないから」
「分かった。気を付けて行きなよ」
お仙はお絹に断って出かけて行った。
「松次郎殿には再三面倒をかけて申し訳なく思ってます」
と深々と詫びると、
「とんでもありませぬ、そのお陰で随分と助けられているのですから」
「ところで今日は、何かお話でも御座いますかな」
お仙の言葉を思い出してそう訊ねると、
「実は豊川のお葎様からの御言付けが御座いまして、お伝えに参りましたのです」
「何と仰せで」
「近いうちに御屋敷に来て欲しいとの仰せです」
「それだけ?」
「はいそれだけです」
「何方の御屋敷に参れば宜しいか」
「佐柄木町の方です」
そこは嘗て葎と同居していた屋敷であった。
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