第13話 同居人
相模守は豊川みなが在宅時に屋敷を訪問し、此度の屋敷地の確認内容を告げた。
「御多忙の中、お調べ下さり有難く存じます。それにしても明地に家屋があるというのも不可解ですね」
「元々は御家人が住んで居たようだが、何らかで
丁度そこへ葎が顔を見せ、入り口で挨拶をした。
「益々美しくなられて、甘利敬四郎に嫁ぐは目出度いが、真に惜しい限りだ」
これは本音に違いなかった。
「葎、相模守様の御足労のお陰で、あの地は帳面上は明地とかで使用のお許しを戴きましたぞ。後は建屋の具合と敷地を見て整備をすることになろう」
豊川はホッとしたように言う。
「葎殿は果報者よのう」
「はい御老中様、真に幸せに存じます」
「葎のお陰で幸せで御座います」
この二人は真の親子以上にお互いを信頼し合い、深い愛情で結ばれて居たのである。
葎は二人に遠慮して、お礼の挨拶をして下った。
相模守が豊川の屋敷を後にしたのは其れより一時程経ってからのことであった。
翌日敬四郎が屋敷に来たので新居の候補について話し、早速現場を見に行った。
庭は荒れ放題だが、手入れすればよくなりそうな配置であった。
恐らく当初は専門家が造園したに違いなかった。
家の中は松杉材が多用されていてしっかりした造りであった。
御家人と聞いたが、如何やら旗本が住んだ屋敷のような間取りであった。
有難いことに湯屋もあった。
台所が狭いので広い土間に板を張るなどの改築を考えた。
其れと真っ先に浮かんだのが氷室であった。畳の入れ替えや襖の取り換えなど切りがないが、修繕などで使えるものは再利用して、極力出費を抑えたのである。
翌日敬四郎は本郷の上屋敷に野村甚吾郎を訪ね、仔細を話すと、早速その翌日には台所町に来てくれたので、新居となる場所に案内したのである。
一緒に仁吉が付いて来た。
神田川を上水樋の横に掛かっている水道橋で対岸に渡り、そのまま昌平橋まで行って内側に戻った。
橋を渡って真っ直ぐ行き、左に戻って直ぐの道を入るとその屋敷があった。
敷地に入った甚五郎らは〈此れは良い〉と呟いた。
彼らは造園の専門家であり、仁吉は大工でもあったので、家の中外をじっくり見て廻った。
「台所の直しとかは仁吉に任せて下せい」
幾らお屋敷の仕事が暇だからと言え、ほとんど毎日通ってきて材料もどこかで調達してきたので、今回はそれなりに御礼をしなければならなかった。
「御屋敷の仕事は大丈夫かね」
と甚五郎に訊くと、
「お殿様や津田の御家老様も國許ですから、手入れは殆ど終わってましてね、暇なんですよ。上屋敷から中屋敷若しくは下屋敷へと年中出歩いて居りますので、此方に出張ってもわかりゃしません。ご心配なく」
敬四郎は馴染みの五人に必ず昼食を用意して、八つ半(十五時)には茶菓子を添えて休憩して貰ったのである。
時折豊川と葎が顔を出した。
部屋は客間を入れて全部で九部屋在った。
料理の間と台所との間に土間を挟んで湯殿がある。
厠は全部で三か所にあった。
玄関を上がると左に折れて使用人の部屋四畳半が二部屋在り、南縁側に出て八畳の次の間に十畳の奥の間、これが続きの部屋でその先一番奥を義母みなの部屋とした。
その西側の廊下に出て北に回ると湯殿があったが、その横に客間に通じる廊下があり、西側から書斎、居間、応接間と続き、左側には湯殿から土間、台所料理の間と続き納戸があった。
この家の修繕については仁吉が主となって翔太や豊治らが手伝い、また同時に庭の手入れを甚五郎が主となって翔太も手伝わせていたのである。
この辺りは彼らの本業であるから手慣れたものであった。
家の補修改築が略略済んで、庭の整備も形が出来て来た頃、今度は若手二人が裏手で新たに作業を始めたのである。
甚五郎に訊くと、
この氷室は本格的で地下の穴倉は小屋で覆う形に出来上がった。
小屋の中は裏の百坪ほど空地の半分を畑にして貰った所から、農作業の道具が入れられるように工作してあった。
この完成に際し、仲間に来てもらって調理を頼み、野村甚五郎らの慰労を兼ねて祝いの席を設けたのである。
真ん中の列の部屋は西側から十畳、十畳、八畳なので襖を取っ払って二十八畳の続きの部屋として披露に供したのであった。
招待客は甘利夫妻に梅村夫妻、疋田老夫妻に松次郎お絹の若夫婦、大奥から御小姓や御祐筆頭に御錠口関係者、三の間頭等の他、御使番や御仲居などが手伝いを兼ねて参加したのである。
表からは老中土田相模守、若年寄に新地奉行の丸岡善兵衛を招いたのである。
四十名程であった。
料理の用度品の一切を損料屋から調達した。
来客の全てに料理を振舞い、土産を持たせたのである。それと手木足軽の五名には一人当たり二両の謝礼をした。
これは事前に別室に招いて豊川が直に渡したのだが、野村らは初めは固辞したが、目出度き祝い事の御礼だからと受け取って貰ったのである。
その他の手伝いに対してもお礼は出した。扨て総額が幾らになるか分からないが、その全てを老女豊川みなが出したのである。
娘の為というが葎は養女である。
余程深い愛情が無いと此処までは出来ない筈である。
みなは信州の大名の娘で、可愛がられて育った筈だが、その傍らでは寂しい思いを抱いたことがあったのかも知れなかった。
というのも実母は五つの時に亡くなったと聞く。
乳母は居たが、実の母ではない為馴染むことは無かった。
成人しても縁談を避けた為、父親に言い含められて千代田城の大奥に入ったが、表情に影があった所為か上様の目に留まることなく、歳を重ねたものだった。
三十路、四十路と重ねるにつれ、開き直って生きて行くことが出来るようになり、五十前になって葎と出会ったのである。
葎は初め宿下りをする為に偽っていたのだが、それを見抜かれると素直に白状して詫びたのである。
側に置いてみると何事に於いても冷静に対処し、奢ることなく偉ぶることもせず、目下の者に接して優しく注意指導するのであった。
催事を任せれば企画力を発揮して、実行力をみせたのだ。
琴は正式に習ったわけではなく、見よう見真似で覚えたというのだが、天賦の才とでも言うのだろうか、素晴らしい演奏をして見せるのであった。
その腕前を見せるべき時が来たのである。九月十三日は後の月(十三夜)である。
この日は城内に於いても黄粉を塗した団子を十三個供えて食した。
部屋に依ってはお月見をしながらお神酒を戴く者も居たが、そんな中何処からか箏の音が鳴り亘って来たのである。
如何やら長局の一之側から聞こえてくるようだった。
酒を飲む者や月を眺める者も暫しその動きを止めて、一日の勤めの疲れを癒してくれる様な柔らかく穏やかな旋律に、酔いしれるように聞き入っていた。
初めに聞こえてきたのは『六段』であったから誰にも馴染みの曲であったが、次第に聴いたことの無い箏曲が大奥になり渡って来るが、其の箏の調べを何というのか知る者は居なかった。
それはそれを奏でる者の即興曲であったから当然であった。
「ねぇねぇ、あれって豊川の葎様が弾いていらっしゃるのでは?」
嘗ての同僚や後輩の御錠口衆の面々が口々に言い始めるのだった。
「素敵だわ、私も習いたい」
「何よ大したことないじゃないの。髙が田舎大名の娘の養女じゃないの」
不機嫌に酒を呷る者も居た。
同僚が格が上がった上結婚というのだから、羨ましいを通り超して憎々しく思えてならなかったのである。
奥女中の殆どは長局で一生を過ごすことになるのだから致し方ないが、上になればそれ相応の待遇を得るのだから、町屋の女に比べたら贅沢であった。
この様に年寄の付人である葎が泊りの時は、屋敷には二人の使用人と敬四郎の三人しか居なかった。
そうした時に、以前だったら料理の研究や弁当作りに励んだものだったが、葎との婚儀に際しての条件に、将軍弁当の取り止めを言い渡されたのである。
これは豊川の意見というよりも、老中土田相模守よりの
余った?食材の持ち帰りは見逃しても、弁当として注文を取って代金を貰うなどは以ての外と言う訳だ。
それは何れ罰せられ、廃止になるに違いないというのであった。
年寄の娘婿がその首謀的立場にあったら、面子は丸つぶれであったから娘の為にも止めさせたかったのである。
敬四郎は余った食材での小遣い銭稼ぎは馬鹿にならなかったが、その忠告を真摯に受け止めて、その仕出しを止めたのである。
其れで晴れて豊川(梅野)葎との婚礼となる筈だったが、一部の連中に公表しただけで正式には結納の儀も祝言も執り行ってはいなかった。
以後もそれは行われず、葎の籍も元に戻さなかったのである。
如何やら二人の愛の巣としたこの屋敷のお披露目が代用した感じとなった。
敬四郎は其れでも良かった。
ただ住まいが変わっただけの話で、葎にしても殆どお城か、連雀町の屋敷に居ることの方が多い為、殆どすれ違いであった。
救いは夜の営みであったが、不思議なものでそうなると双方とも次第に求めなくなっていったのだ。
敬四郎は非番になると一人で日本橋の河岸に出かけて行ったり、近くの居酒屋に行くようになった。
それは飽くまでも料理人としての勉強の為であったが、今一つはお仙の行方を捜して居たのである。
蒸発した理由は不明だが、何故か近くに居るように思えるのだった。
あれから二度ほど三河町の五郎長屋に行ってみたが、到頭戻っては来なかったのだ。
自分に愛想尽かして消えたとしても、女々しいようだが、本当の理由が知りたくて、暇を見つけては探し歩いたのである。
今では非番の殆どを出歩いて居たので、葎が何処へ行くのかと訊いて来た。
「別にどこということは無い。街中を歩けば学ぶべきことは沢山転がっているのさ」
と適当に答えた。
そう言う葎も今ではすっかり奥女中である。
どうも家庭に収まって居られる性格ではないことを自覚し始めているようだった。
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