第12話 迷 い

 敬四郎はそのことを改めて両親に打ち明けたのである。

「だが葎様は豊川様の養女ではないか、身分不釣り合いで叶わぬのでは?」

 母ふきの言う通りだがー。

お相手は大奥お年寄の娘である。

葎がどのようにお願いしても許されるとは思えなかった。

 仮に葎に代わる人材が居たとしても、お年寄が承知する筈がないと、事情通なら思うに違いなかった。

「それ故先ず葎が話すと言ったのです」

「難しいなぁ」

 彦一はそう言って腕組をした。



  連雀町の屋敷に戻った葎は、隣家の屋根越しに見える黄金月を眺めながら考え事をして居たが、急にそうを持ち出して弾き始めたのである。

葎の奏でるその音色は、優しく緩やかに響いて、聴く者の心を和ませた。

だが一人だけその音色に違和感を覚えたものが居た。

 御当家当主の豊川みなである。

演奏者が葎であることは直ぐに分かった。

以前にも聴いたことはあったが、全体的にもっと滑らかな演奏をしたものが、如何したことか、所々が沈んで居るように聞こえたのである。

 勿論みな自身も嘗ては箏を奏でたものだが、近頃は聴くばかりで弾くことはなく、専ら葎の演奏に耳を傾けるのであった。

 みなはお絹の代わりに入った行儀見習いのお千佳を連れて葎の部屋へと向った。

途中から全く聴いたことの無い楽曲に代わったのを知った。

「お葎さま母上様に御座います」

 と於千佳が声を掛けたが返事はなく演奏も止まなかった。

「入りますぞ」

 みなの突然の入室に葎は慌てる様子も見せず、そう(こと)から退いて丁寧にお辞儀をした。

〈矢張りいつもと違う〉とみなは感じた。

 みなは千佳が用意した座布団には座らず、葎の前に立ったまま、背中を向けて月を眺めて居たのである。

「何かあったか?」

 と訊ねる義母に、

「御座いませぬ」

 と答えた。

「嘘であろう。其方の心に乱れを感じるが…この母に隠し事は無用じゃ。何事も正直に教えて欲しい」

「義母上様、それでは申し上げます故お人払いを」

「於千佳外で待ちなさい」

 隣りに居ようが廊下に居ようが然程変わらなかったが、葎は二人っきりになりたかったのだ。

「もう直十三夜かな?」

「その様です」

「十五夜を観たなら片観月にはすまい」

「はい余程のことが無い限りはー」

「葎ほどの美貌と才智に畏れ慄くとは、男子危うしかな。だが中にはそのような男も居るのだな。捨てたものではないな」

 葎は未だ詳細に話してはいないのだが、お年寄は葎と敬四郎の縒りが戻ったことを察して居たようである。

「葎と敬四郎の心に迷いが無ければ許そう。但し息女としての勤めは続けて貰うが良いかな」

「はい承知しました」

 葎と敬四郎の新居は義母のみなが組頭斎藤新之亟に、その配下の甘利敬四郎と養女葎の成婚を伝え、暫くは組屋敷外に住ませたいとの要望と組屋敷には隠居夫婦がそのまま住んで居られるように頼むと、組頭は明屋敷奉行松岡大善に相談した。

「本来当主は甘利敬四郎であるから、その当主が住まないとなると親であっても出て行かなければならないのだが、転勤でも処罰でもないので、形として組屋敷に住んで居ることにしては如何だろうか。然すれば御隠居らもそのまま居続けられよう」

「左様か、忝い」

「ただ夫婦の新居をどうするかは豊川様に町屋に求めて頂く以外にない。重ねて与えることは無いでな」

 こう言いながらも住宅事情に詳しい松岡は、ある空き家を教えたのである。

 それは豊川の屋敷のある連雀町からほど近い場所で、敷地三百坪程で建坪は六十ほどだろうか…。

以前の住民は御家人であったが、何かの事情で立ち退きを命じられたようで、以来五年ほどは空き家になっているとかであった。

庭は手入れが必要なほど荒れていたが建物は外側は問題ないように見えた。

「此処はどうやら放置されているようだが、さて如何したものか」

 明屋敷奉行の松岡大善の言葉に、屋敷奉行とか新地奉行とかに訊ねて見てはどうかと言う。

扨てそんなお役が有ろうとはとんと知らなかったが、正式には屋敷改め、新地改めであった。

 書院番・小姓組の出役で、若年寄の支配に属し、屋敷に関する一切の事務を司り、江戸市中の屋敷の所在地、坪数、相続などを調べ、届出を『諸屋敷帳』に記すのが役目であった。

 お年寄豊川は思い切って老中土田相模守に相談した。

「何とご息女があの男と一緒になると言われるか。併しそれはかなうまい」

 相模守は扇子を左掌に何度か打ち付けて首を捻つてみせる。

「相模守様、実を申しますと葎を梅野家に復縁させたいと思うております。故に台所役の甘利敬四郎とは同格となりましょう。これで成り立ちますれば問題は御座いませんでしょう」

「だが然し、其方の娘御ではなくなるでは御座らぬか」

「はい籍上ではそうですが、息女としての勤めは継続致します」

「良く分からぬが、ところで御老女殿の本日の御用向きは?」

「葎と敬四郎に別宅を持たせたいのですが、そのことで相模守様にお願いがございます」

「云、それは構わぬが台所役人ならば台所町に住もうておろうが…その辺りのことはどうするおつもりか」

 流石は老中、細部にまでは精通していなくともある程度の仕組みは分かっていた。

「甘利敬四郎は当主ですから建前上は御台所町の組屋敷に住むことになるのですが、葎が主婦を兼ねて当家を取り仕切るとなりますと近い所に住まいを設けてやりたいと思うのです」

「それで」

「連雀町の屋敷より一町ほどのところに空いてる屋敷が御座いますので、若年寄様配下の新地奉行方にある『諸屋敷帳』に詳細が記されているとしたなら如何なものかと思いまして」

 年寄豊川はお願いしますと深くお辞儀をしたのである。

佐柄木町さえきちょうの前辺りだね。訊いてみよう」

「有難き幸せに存じます」

 齢五十とは言えまだまだ美しかった。

土田相模守には奥方も側室も居たが、未だみなよりは若く男盛りであった。

時々はこのようにして会ってお茶を飲み、言葉を交わすだけでも結構気晴らしにはなったのだが、男女の中とは不可解なもので、その程度では収まらないもののようである。

そうした意味合いから申せばまた会う理由は出来たのである。

 若年寄に指示されて、土田相模守の詰所御用部屋上の間にやって来た。

「多忙の所済まぬの」

「とんでも御座いませぬ。閑職にて御老中様のお役に立てることでしたら何なりとお申し付けください」

 丸岡源兵衛はそう言いながら『諸屋敷帳』という台帳を前に差し出した。

「おぉ調べて貰いたいのだが、神田佐柄木町の前辺りに敷地三百坪ほどの空き家があるようだが、如何なっているか分かるか」

 丸岡源兵衛はパラパラと捲って目的の頁を見つけたらしく指の動きを止めて見入る。

「これのようですが……」

 その個所を老中に示した。

「此処はどのような扱いなのか」

「はい此処は本来は明地で御座います」

「明地とは?」

「明地・火除け地の明地に御座います」

「では空き地なのか」

「本来はその筈ですが」

「其処に屋敷があること自体可笑しいではないか」

 豊川は妙なものを見つけたものだといぶかったが、ならばと丸岡源兵衛にただす。

「帳面上は飽くまでも明地なのだな。であれば現存する建屋などは其のままで構わぬわけだな」

「左様で」

「人が住んでも構わぬな」

 相模守は念を押すように訊いた。

「はい、ご存じのように改めはわれらしか致しませぬ故特に問題は御座いませぬ。但しお気をつけ頂きたいのは火の不始末による火災に御座います。それと移転されます時には、必ず建物を解体して更地に戻して下さるようお話しください」

 老中の知り合いの誰が住むかは分からなかったが、事情があっての話なので丸岡は注意事項のみ伝えたのであった。

「御老中様、ではこれにてご免蒙ります」

 と下がろうとすると、

「待たれよ、暫し良かろう」

 と引き留めた。

 一人の茶坊主がお盆に急須と茶碗を載せてやって来ると、もう一人が食膳に刺身を載せて入って来た。

それと付き人の若侍が風呂敷に包まれた横長の箱を抱えて持って来たのである。

 茶葉は入れてあるようで相模守自ら注いだのである。

みれば茶碗の中は透明で鼻孔を僅かにくすぐる香りに違和感を覚えたが、勧められるままに飲んだ。

「これは!」

「お嫌いかな」

 茶碗を手にした瞬間に察したであろうが、老中辺りになると、南蛮の変わった飲み物を口にしていないとも限らないので変わり種のお茶の味を見ようとしたのであるが、間違いなく酒であった。

詰まりお茶けと言う訳だ。

「其方はいける方とみたがどうかな」

 相模守は赤身の刺身を美味そうに口に運ぶと丸岡源兵衛に、

「美味いから食べて見よ」

 と勧めるのだった。

恐らくは口にしたことないのではないかと用意したものだった。

「これは美味で御座いますな」

 二切れ三切れと口に運んだ。

「其れは鮪という魚だが、食したことはないか」

「御座いませぬ。可なりお高いもので御座いましょうな」

 誰もがそう思うに違いなかった。

 すると相模守はカラカラと笑って、

「これは町人の間でも下魚扱いで鰹のようには食べられておらんようだ。実はこれお廣敷台所役人の甘利敬四郎という若者が捌いたものだが、実に料理が上手い」

「その名を聞いたこと御座います。確か表向きでその男の弁当の菜は評判に御座います」

「左様か、其れも良いような悪いような…」 老中は言葉を濁した。

その男が例の家に住むことになるのだと言いたかったのだがそれを言わなかった。

「奉行これを其方に進呈致す。屋敷の床の間にでも飾られるが良い」

 と風呂敷で包んだ箱を渡して、

「これは表絵師の狩野鴒蓬の絵である。其方らは知らないだろうが、中々の物だ。一幅だがどうか気の向いた折には飾られよ」

 達磨太師の絵であるが、豊川宅に飾られている物とは構図が違った。

これは以前に豊川を通して甘利から依頼して描いて貰った二蝠の内の一幅であった。

 相模守は一幅五両で十両支払ったのである。まさかこのような場面で使おうとは思っても居なかったが、こうした気遣いが豊川との仲を密にして行ったのだ。

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