第8話 尾行の心算が
組屋敷を出た敬四郎は東に向かうと、表猿楽町通りに入り、大名屋敷から旗本の屋敷と抜けて町人の住む三河三丁目の裏長屋に入って行ったので急いで木戸から覗くと、声を掛けたらしく戸が開くのを待って居るのが見えた。
すると島田髷に結った若い女が顔を出して敬四郎に飛びつくとその腕を掴んで家の中に引きずり込んだ。
〈梅野葎でないことは確か〉
其処で戻ろうとした時、敬四郎が顔だけ出して松次郎の方に向って手を振ると戸を閉めて消えた。
どうやら尾行は気づかれて居たようだ。
松次郎は先程の様子から二人の関係を察することは出来たが、
〈兄者が何故町屋の女と…〉居るのか不思議でならなかった。
その足で連雀町に向かったのである。
一方割長屋の二人は炬燵に入ってお茶を飲んでいた。
「誰か知り合いでも居たの」
お仙は敬四郎の仕草を思い出すように笑って訊く。
「同役に付けられてたことは分かっていたが、気づかぬふりして此処まで連れて来たんだよ。最後に手を振って揶揄ってやったのさ」
「まぁ悪い人、女の人ではないでしょうね」 と角度をつけ始めた砲筒を行き成り攫むと強く握って扱き始めた。
「痛い痛い。少しは手加減しろよ」
此処五日ほど仕事に託けて、飲み屋や河岸に出かけたりしていたので、その間此処には来なかったのだが、如何やら空き家にされたことに腹を立てているみたいで、今日はとことん仕返しされそうであった。
それだけに手加減するどころか一層力を込めて責めて来るのがわかった。
それは憎くてそうしている訳ではない。
お仙にとっては愛する人であり、愛おしむべき大切なものなので、更なる境地を求めてぶつけて来たのである。
それは決して留まることを知らなかった。
扨て気になることと言えば、老女豊川の付け人の梅野葎の去就だが、如何やら相模守様の提言に従って豊川みなの養女となる公算が強まったようだが、事実上の恋人であった甘利敬四郎との仲はどのように解消するのだろうか…。
二人が会ってけじめを付けるのか、それとも圧力によって仲を裂かれるのかは不明だが、自然解消はとても考えられない。
だが養女の話が出て以来、御台所町への葎の足が遠のいたことは事実である。
おまけに疋田松次郎が行儀見習いのお絹の話を確かめる為敬四郎を尾行した結果、町屋の女と並々ならぬ仲を窺い知ると、その目撃した様子を帰り際に連雀町の御屋敷に寄ってお絹に会って話したことから、当然葎の耳にも入った。
お年寄豊川の付け人葎は、今でも御台所役の甘利敬四郎を慕い続けていたことは確かだが、付き人として或いは家長代理のような立場に立ってみると、自分の裁量で思うようにことを運ぶことが出来たので、次第にその運営に傾注して行ったのである。
「その話誰ぞに話したか」
葎はお絹に質す。
「いいえ存じ居りますは疋田様と私めのみに御座います」
「ならば良い。他言は無用ぞ」
何時にない厳しい口調であった。
その晩葎はみよの晩酌に付き添って、静かな口調で話し始めた。
「おみよ様の先達てのお話、お受けさせて戴きとう存じます」と、
「何と決心して呉れたか。それで良い。さぁこれからは母と呼ぶが良い」
「はい母上様」
「おぉそれで良い。其方はわらわの娘なれば大名にも嫁ぐことができる。一両日中に相模守様にお伝え申すわ」
みよはご機嫌であった。
将軍付の年寄であったならば、絶世の美女とも言える葎を上様の眼に届く様に出来ないこともないが、葎自身が望んでは居ないようなので、毎朝の惣触の儀式では出来るだけ目立たぬように並ばせ、深々とお辞儀させて居たのである。
この惣触の後四ツ時には中奥の御用部屋に老中が詰めるので御坊主に御老中の詰日と休日を訊ねると、非番ではあるが詰めているとのことであったので『例の件でお会いしたい』旨知らせて貰うと、八つ半(十五時)に相模守が御廣敷御錠口へとやって来たのである。
御坊主が迎えに出て部屋へと案内して来た。 折良く八つ半時は各部屋に置いておやつを頂く時刻であったので、相模守は羊羹を行器に入れて手土産として持参した。
渋いお茶に羊羹は年寄豊川の好物なので大層喜んだ。
「相模守様の御心に漸くお応え出来ることになりました」
「左様か、良くぞ決心されましたな。して葎殿は何処に居られる?」
「只今別室にて着替えて居ります」
「何と婿に会う訳ではないのにお召し替えとはのう」
葎は髪は中下げに結って、紋縮緬に板締めの間着に博多帯を締めて、老中土田相模守の前に三つ指を突いて、丁寧にお辞儀をした。
「これは美しい。それにしてもよう決心されたのう。豊川殿の娘なれば申し分ない。お相手の候補が三家程あるが、聟として其方に相応しい御仁を選ばして貰うので暫く待って欲しいが宜しいかな」
「はい、手前も奥に入るに相応しい教養を身に付けたく存じます故余裕を頂きたく存じます」
「それにしても其方は美しい。若ければ婿の座に座りたいくらいだ。はっはっは」
と高笑いしてご機嫌であった。
「豊川殿、何れにせよ旗本の大身の跡取り故家格に問題はない。何れの者も評判は上々にてお相手によっては事前に見合うを望む者もいるかも知れぬが、その節は良しなに」
その頃御膳所台所では夕飯の支度に取り掛かっていて、敬四郎たちは忙しなく仕込みを行っているところであった。
するとその傍らで台所頭と組頭の斎藤新之亟が気になることを話し始めたのである。
断片的ながら聞こえて来る言葉の端々に聞きなれた名前が聞き取れたのである。
豊川とは大奥年寄の豊川みよのことで、その娘に葎がどうとか、将又相模守様で仲人がどうだとか言ってるようだが話の筋は良く分からなかった。
その時組頭の声で、
「相模守様お帰りのようですよ」
と小声で囁いた。
見れば確かにお年寄豊川の寿賀の祝いに来た老中土田相模守に間違いなかった。
明らかに大奥に用事が有って来たのだろう。仮に豊川の元へ来たとしたら、お付き女中の葎に関係無くはないだろう。頭と組頭の会話の中に豊川とその娘葎とは一体何を指しての事なのだろうかと、急に気になり始めた。
一時期は有能であれば、一介の御家人の妻として閉じ込めては気の毒と思い、自ら離れて町屋の女に夢中になってしまったが、一度は情を交わした相手だけに、どうしても気に掛かってならなかった。
知りたいがほったらかしにして置いて、今更会いに行くことすら
そうした中での食材の持ち帰りも気が進まなくなって、開店休業状態となってしまったのである。
今日も手ぶらで組屋敷に帰ると、珍しく松次郎が頃合いを見計らうように、五合徳利を抱えてやって来た。
母親のふきが何事か聞いて居たが何も話さず敬四郎の前に座り込んだ。
「兄者何だか元気がないように見えるけど如何された?」
「別にーそれはそうと先達ては何故付けた? 詰問しようと言う訳ではないようだが、多少語気が荒かった。
「兄者とて気が付いて居たではないか。最後に揶揄っただろう」
「松には教えて置きたかったのよ」
「それじゃぁ葎様はどうするの?」
「分からん、自分でも解らんのよ」
と頭を抱えて見せる。
「兄者、それは無責任じゃろう」
「それは分かっておる。否な最初は葎のことを考えたら此方が身を引くが良いと考えたのさ。町屋の女とは偶然の出合いで、知っているのは松ぐらいだろう。両親にも教えてはいない」
「らしいね、先程母上さまに訊かれたが言わなかった」と松次郎。
「結構だ。実は今日八つ半(十五時)に相模守様が御廣敷御錠口へやって来て大奥に入って行ったのだが、上役らの話によると年寄豊川様を訪問したようなのだ。話の内容は分からないが…」
「兄者それは葎さまがお年寄の養女となって、大名か旗本の跡継ぎのところに嫁ぐという話らしいよ。どうするの」
「矢張りそうか、其の方が良い。葎殿の為にはその方が良いのだ」
敬四郎は自分に言い聞かせるように葎の為と強調するのだった。
「それは嘘だわ」
突然母ふきが襖を開けてそう言う。
「母上聞いていらしたのですか」
「頻繁に見えていた葎様が来られなくなったには何か訳があるに違いないと思っていたのよ。御殿であれだけの器量と知性を備えたお女中は滅多にお目にかかれないと思うから敬四郎には勿体ないと思って居ったけど、人を恋い慕うなどというものは決して単純なものでないことを物語っているのよ。お前たちが納得して別れるなら仕方ないが、不承不承ならきっと後悔することになる筈」
母ふきが奥に引っ込むと松次郎が急に畳に頭をつけて詫びるのだった。
「何してる松、お主が悪いわけではない」
「兄者、私がいけないのだ。先達ての尾行の時の顛末を豊川家の行儀見習いのお絹に話してしまったんだ。で多分そのことをお葎様に報告したのでしょう。その後の話でお葎さまがお年寄の養女となることを承諾され、老中に縁談の話を進めて頂くようお願いするらしいと言っていたんだ。兄者済みませぬ」
松次郎はお絹に気が有ったので、ついそのような話をしてしまったのだった。
葎にしても本心は敬四郎に添いたかったのだが、町屋の女に
「気にするな松、拙者も悪いのだから、仕方のないことよ」
こうして二人の夢は簡単に潰えてしまったのだ。
ところが此処に新たな恋が生まれたのである。それは他でもない、疋田松次郎と女中の絹であった。
二人の逢瀬は主に神田明神社だが、そこから下に降りて下谷廣小路界隈の出合い茶屋にしけ込んでから上野のお山に行くのがお決まりの経路となった。
時に松次郎はお絹のことで敬四郎に相談したが、敬四郎自身も同じ問題を抱えて居たので解決にはならなかったのだ。
お絹は未だ嫁ぎ先の決まらない葎に相談を持ち掛けたが同じような答えが返って来たのである。
障害は一つ。身分違いであった。
松次郎は士分でお絹は商人の娘である。
この二人の場合はお絹が御家人の養女になれば松次郎の元に嫁ぐことは出来るのだが、両親にまだ話しても居ないし、一度も会わせても居なかったのだ。
そこで松次郎はお絹の気持ちを確かめると、台所町の役宅に連れて行き、両親に会わせる約束をしたのである。
父信之介と母照子にその話をすると以外と冷静に聞いて応じて呉れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます