第7話 行きずりの女

 翌日役目を終えての帰り道、小雪がちらついていたので此度の御礼を兼ねて豊川の屋敷に伺うつもりで一橋御門から城外へと出て、堀伝いに神田橋御門の方へと歩いて行くと、雪道の歩行に難儀してか、本多様の御屋敷の壁に手をついたまま立ち尽くしている島田髷の女を見かけると傍に寄って、

「如何した」と声を掛けた。

「はい、雪が歯の間に挟まってしまい歩きづらいものですから休み休み歩いて居りますが…」

 如何やら高歯のようだが雪が挟まっているらしく、それが膨らんで一層歩きづらくしているようだった。

「どれ取って進ぜよう」

 と女の足元に座り込むと、被り傘を取って、

「肩に掴まって左足を此処に載せなさい」

 と右手で右足の付根辺りを叩いて見せた。

「まあ」と躊躇しているので、

「構わぬから載せて」

 敬四郎は下駄を脱がすと、自ら女の足を膝の上に載せた。

「お武家様冷たいでしょう」

 女は素足であった。

「大丈夫だ」

 高歯の間に挟まった雪が脇に出るぐらい円く膨らんでいた。

「これでは歩きづらくなるばかりだ」

 敬四郎は小柄こづかを外して歯の間の固まった雪を突っついて取ると、

「じっとしてな」

 と言って女の左足首を掴んで下駄を履かせようと、指を拡げるように鼻緒の間に挿し込もうとしたのだがつい力が入ってしまい、両膝の上に女が転がった為、敬四郎は雪の上に尻もちをついた。

「ごめんなさい」

「いや拙者が悪いのだ。気にせずとも良い。さぁ今度は右足だ」

 敬四郎は尻に着いた雪を払って向きを変えて下駄を脱がすと、左膝にその足を載せて左肩に手を置かせたのである。

「何処から来られたか分からぬが、よく歩いて来たね」

 敬四郎は上から覗き込む女を見ながら雪を取り除くと、右足にも下駄を履かすのだった。

「御親切に有難うございました。難儀して居りましたので助かりました。御体が冷えてお仕舞いでしょう。家は近くですのでお茶ぐらいしかありませんが、少しは体も温まりましょうからお寄り下さいな」

 そう言われてまじまじと女の顔を眺めてみると、自分より幾らか年上のようで年増だが精々二十の半ばといったところだろうか…。それに豪く艶っぽいのだ。

 敢えて遠慮することもないだろうとついて行くことにした。

名前はお仙といって三河町三丁目の割長屋で三味線の手解と端唄という俗曲を教えていたのである。

実はもうひとつ手仕事を持っていたが、敢えてこの時は明かさなかった。

出張って行っての指導もしているらしいが、何方かと言うとお弟子さんが家まで来てもらっていたので居職である。

端唄などと聞いても、敬四郎には馴染みのない言葉であった。

 腰障子戸を開けて入ると先ず土間があり、六畳間には炬燵こたつが置いてあったので、火は入っていなかったが、言われるままに肩衣と袴を取ってお仙に渡すと足を突っ込んだ。

二階は四畳間だというが、独り者だから殆ど物置としか使っていなかった。

 敬四郎はお仙が七輪で消し炭を使って火を起こしたり、釜戸でお湯を沸かしたりしている間に、炬燵の脇に置いてあった綴じ本を寝転んで見ていた。

 題は『春爛漫』とあるが所謂枕本である。その横に二つ箱があり、一つはどうやら道具箱のようなので見ようとはしなかったが、今一つの頑丈な造りの小箱があったのでそっと開けてみると、何と張形が入っているではないかー。

さり気なく蓋をして戻し、ぱらぱらと絵を見ているうちに、手荷物を戸口の横に置いたことを思い出した。

「お仙どの、済まぬが戸口の横に雪に挿した荷物があるので取って呉れぬか」

「まぁ大事な物なのでしょ。お忘れになるなんてー今入れますよ」

 お仙が外に出た隙に今一度箱の中身を見た。如何やら愛用の物らしい。

「雪は止みましたよ。はい此れでしょ」

 袋を炬燵の上に置いたので中の食材を出して見せた。

魚と貝に青物に蒲鉾などが入っていた。

「お仙どの晩飯か朝に使うと良いよ」

 と差し出すのだった。

「だってお宅に持って行く為のものでしょ。いけないわ」

 受け取ろうとしないので、

「では一緒に食べよう。魚は煮付けて、貝は味噌汁にしてくれるか」

「いいんですか、持って帰らなくて」

「いいよ、これは約束のものではないから帰ったら母上に食べて来たと言えば良いのだ」

「はい」

 お仙は嬉しそうに台所に立った。

炬燵も温かくなって、お茶も飲んで体が熱くなってきた。

「お仙さんも入りなよ」

 向かい側に入ろうとするのを右隣に移させると、

「あら嫌だご覧になったんですか」

 お仙は敬四郎の後ろに裏返しになっている秘本を慌てて隠し、その横に並べて置かれていた箱も後ろに隠した。

お仙は恥ずかしさのあまり敬四郎の顔が見られなかった。

敬四郎とて盗み見した引け目と中身が中身だけに、何とも言いようがなかったのである。

「おっ煮つけが出来たようだ」

「はいお待ちになって下さいね」

 お仙は炬燵の上に板を載せると、一皿に二尾煮魚を盛り、茶碗とお椀、平皿に蒲鉾を載せ、小皿に沢庵を載せて出した。

「お口に合いますかどうか」

 お仙は敬四郎が煮魚を口にするまで箸を持とうとしなかった。

「うん、美味い。美味いよお仙さん、汁もだしが効いていいぞ、上手だね」

 決してお世辞ではなかった。

商売人としての評価感想であった。

自分が台所役人と言ってないが、お仙にしてみたら殿方から褒められただけで嬉しかったのだ。

「上等な物をどこでお求めになられまして」

 まさか将軍様の食べ物の余りとは言えないので答えなかったが、お仙は色違いの麻の上下からしてお偉方でないことは分かったが、それでも軽輩でないことも見当ついた。

 お茶を飲みながら当たり障りのない話をして、

「さっきの答えは今度教えてやるよ」

 と立ち上がって衣桁に掛けてある袴を取ろうとすると、お仙が背中に抱き着いた。

丁度帯の結び目の上辺りに二つの山が当たっていて首筋に濡れた唇が優しく這った。

 敬四郎は振り向いて応えようとすると、お仙はすり抜けるように腰を落として畳の上に仰向けに寝ると、目を瞑って誘った。

敬四郎は葎のことを思い出して躊躇ったが、寝転ぶお仙の横に『春爛漫』の題字の綴じ本と張形の入った箱が転がっているのを見ると、歯止めは外れて覆い被さった。

 お仙にとっても初めてではないが、張形と違って自然な形状の生身の張りから発する律動をしっかりと受け止めながら、その喜びをうねりとして返すのだった。

それはお仙も敬四郎も初めて味わうものだった。

敬四郎は葎によって男として目覚めたが、それを更にお仙と情炎したのである。

 敬四郎は同じ行為でありながら全く違う感触を二人から得た。

葎はどちらかというと上品であったが、お仙はねっとりと絡んで濃厚で激しかった。

其れは生まれつき備わったものだから、誰もが得られるものでは決してなかった。

 敬四郎もお仙もその相性を確かめるように決して離れようとはしなかった。

他人が見たら驚くばかりの精力と持続力で、それを見るものが居たら呆れるばかりであったに違いない。

 結局敬四郎はお仙の家で朝飯を食べ、離れ難く再び結び合わせると、お仙はしっかり捕まえて放そうとしなかった。

「またいらっして下さいな」

 お仙は相手が武家であることから、気持とは相反した言葉を口にした。

御城勤めであることは分かったが、正直何処に住んで居るかも聞いては居なかったので、このまま別れたら二度と会えないかも知れないと不安になったが、それを口にする訳にはいかなかった。

 それを察した敬四郎はお仙をしっかり抱きしめると、

「案ずるな。非番には出来るだけ来れるようにしよう。お仙とて出掛けることもあるだろうから、帰宅可能な時刻を示す札を腰障子の中桟と竪桟の内側に置いて分かるようにしよう」

 敬四郎はそう言って長屋を出た。

 


 何処も一面銀世界であったが、その雪も朝早くから動き出している者達によって踏み固められていた。

 木戸番の茂次が、

「旦那お早いお帰りでご苦労さんです」

 と声を掛けてきた。

「おぅ何時もご苦労さん」

 親父の代から木戸を護って呉れている番太である。

「少ないがこれ食べて」

 と、袋の中に詰めた雪の中から小魚を取り出して上げた。

「何時もごっっおうさんです。七輪で炙って頂きやす」

 茂次が小屋の脇の雪だまりの上にそれを置いた。

「玉に気をつけな」

 飼いネコも寒いと見えて出て来なかった。何時もだったら、忽ち持って行かれることだろう。

 そろりと玄関から入ると、

「お早いお帰りで」

 母のふきがお勝手から顔を出して嫌味を言うのだった。

「帰れなくて御城に止ったのかと思ったわよ 夜具が無いわけではないので泊まれなくもないが、それは緊急事態以外先ずなかった。況してや昨晩の降雪程度では皆帰宅できたのである。

 敬四郎は裏庭の雪の状態を見て、氷室に入った。

父彦一が日中雪を落としてくれたようで、脇には新しい雪が詰まっているのが見える。

二段の棚には其々に布に巻かれた雪の塊が置かれてあった。

如何やらそれは松次郎がやって呉れたものだった。

 敬四郎は部屋に戻ると机に向かってぼんやりしているとふきがお茶を持って来た。

「何を考えているの。まあお前のことだから料理の事か、葎さんの事だろうが」

 と言われて思い出したのが、お仙に話した障子札であった。

「母上切れ端で結構ですが、障子紙はありますか」

「何するんだい」

 そう言いながら納戸の奥から障子紙の使古しを出して来た。

「書物につかうなら藁半紙があるよ」

「これで結構です」

 敬四郎は細筆を持つと卯という字に半と続けて書いた。次に辰、別個に辰半と記す。

最後に申半として筆を置いたのである。

 ふきがお茶入れ直して来るとそれらを見て、

「時刻を示しているようだが何に使うの」

 と意味を解いて見せた。

「ちょいと使うことがあってね」

 まさか夕べ知り合った女の家の所在札とは言えないので、曖昧に答えるのだった。

敬四郎はそれらを桟と組子の大きさに切って厚紙に張り付けた。

 枚数にして十一枚、先ずは六つ半を卯半(七時)の二文字で表し、辰(八時)、辰半(九時)というように暗号表記の札を作ったのである。

 それを障子を通して見ると、中には見えにくいものもあったので、それらの上からなぞり書きして、墨字が少しでも浮き出るようにした。

 敬四郎はそれを持って翌日の非番に長屋を訪れた。

表の主要通りの雪は殆ど解けてなかったが、人が脚を踏み入れない所や、日が当たらないところには未だ残っていた。

 木戸を入ると井戸端やどぶ板を直したりしている住民数人に見られたが、構わずお仙の家の前に立って声を掛けた。

「まあ敬四郎様。さぁさ、どうぞお入り下さいな」

 お仙は敬四郎の手を引いて中に招き入れると、外を窺うように見て腰障子を閉め、心張棒を掛けた。

「来て下さったのですね。嬉しいー」

 お仙は腰の物を預かると、妻女宜しく大事に抱えて奥に置いた。

敬四郎は炬燵に脚を入れると、持って来た袋から札を出してお仙に見せる。

 文字の書かれたその札を捲って見ると、午と一文字だけ書かれたものや、申半などと書かれたものがあった。

「これは何ですの」

 お仙は申や未、辰に巳という文字が時刻を表わすものである事ぐらい察しが付いたが、辰半となると別の意味のように取れないこともなかった。

「分かったか」

「サッパリです」

 別にあてものをしている訳ではなかったが、お仙は何のことか見当つかなかった。

「ちょっと来てごらん」

 敬四郎は土間に立って心張棒を外すと、お仙を外に立たせて中桟の上を見るように言う。

「文字が見えるか」

「えぇ見えるわ」

「読んでご覧」

「たつはん」

「これは?」

 というように内側の中桟と組子の間に札を入れて、外から読めることを確認したのである。

敬四郎は炬燵に入ると、お茶を飲みながら札を一枚一枚出してその意味を教えた。

「これは巳半と読み、察しの通り四ツ半時(十一時)のことだ、そしてこれは未の刻、詰まり昼八つ(十四時)だ。使い方はお仙さんの不在と帰宅時刻を示すもので、どのくらい待てば戻るかが判る。仮に出かけたばかりであったとしても現時点との差で凡その帰宅時刻が分かれば、半時(一時間)程だったら待ってられるからな」

「嬉しい」

 お仙は敬四郎の袴を脱がすと、衣桁に掛けて更には腰障子に心張棒を掛けた。

「稽古は無いのか?」

「えぇ誰も来ないわ」

「そうか…」

 敬四郎は料理人としての腕は一流だが、女人の扱いについては未熟であった。

御殿女中の葎と町屋のお仙とを天秤にかけたとしたら、多分お仙に比重が傾くような気がしたのである。

 夫婦となるには、葎は身分的には問題なかったが、お仙は町人なので身分を合わせなければならなかった。

身分を合わすにはこの場合、将軍様の家来である以上お仙が御家人の誰かの養女になる必要があった。

だが現段階ではそのようなことを考える必要はなかった。

 葎との交際は微妙だが、お仙とは気楽に付き合いたかったのである。  

それはある意味お仙も承知していた。

例え敬四郎に許嫁いいなずけが居たとしても構わなかった。

 敬四郎はこれまで梅野葎と添えるものなら添いたいと思ったことはあったが、御錠口衆からお年寄豊川の付け人に取り上げられて以降、その思いが何故か遠のき始めたのである。 

それを確定付けたのが寿賀であった。

祝賀全般に亘る計画から段取りの一切を仕切った辣腕ぶりに感服し、家庭という狭い枠に押し込めるより、もっと大きな活躍の場を与えるべきと考えたのである。

 それを機に少しずつ距離を取るようになったのだが、期しくも豊川の元に老中土田相模守から縁談話が持ち込まれたのだった。

それが大名であれ大身の旗本であっても、葎を豊川の養女にすることが前提条件とされたのである。

 豊川みなの出自は信州伊那高遠城主内藤正勝の四女とされてるが定かではない。

 葎にしろ敬四郎にしろ、それぞれが嫁ぐも娶るも自由であった。

この二人恋仲ではあったが結納を交わした訳でもなければ願い書を出してる訳でもなかったからである。

 だが敬四郎とお仙の関係は両親すら知らないことであった。

両親は敬四郎の相手は奥女中の葎と思い込んでいる。

 元来武家の跡取りの嫁取りは親が決めたものだが、甘利家では敬四郎の意思を尊重して自由にさせていたのである。

 一人前に為っても料理には関心を示すものの、異性には興味を示さなかったのだ。

それがある日突然奥女中を連れて来たのである。

その相手も頻繁に訪れて来れば一緒になるものと思っても可笑しくはなかった。

ところがある時から葎が家に来なくなったのだ。

だが息子は非番になれば必ず出かけて行った。

以前であれば非番の松次郎を誘って出かけたものだが、一人で何処かへ行くようだった。

 松次郎が或る日偶然日本橋の魚河岸で豊川家の見習い女中のお絹と会ったので、敬四郎のことを訊ねると、

「最近はお葎様もお忙しくしてらっして甘利様とはお会いになって居ないようです」

 とのことだった。

〈では毎回何処に行くのだろうか〉

その疑問を拂拭する為に松次郎は後を付けることにした。

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