第6話  寿賀の祝い

 扨て一月廿日は朝早くから豊川家の台所は準備で大童であった。

料理は松次郎と竹中吾平に末吉甚六が造り、席順を葎と決めて、損料屋(貸し物屋)から借りた御膳等の整理をし、盛り付けの手順を下女らに説明していた。

 其の三十畳の床の間には、前日当家の主人豊川みなに挨拶に伺った折、寿賀の祝いとして贈った狩野鴒蓬作の達磨太師像が掛けられてあった。

 お年寄はその掛け軸を眺める度に、大層ご満悦な様子であったと葎は話して聞かせた。

「良かったではないか葎殿」

「はい敬四郎様のお陰ですわ」

 二人は何時になく他人行儀な会話に、思わず顔を見合わせて笑った。


 定刻近くになると客人が続々到着した。

奥女中はお年寄から二人、御客会釈おきゃくあしらい、中年寄、御中臈、御錠口詰、御錠口衆、御祐筆、表使、呉服の間頭、御次頭、御三の間頭、御廣敷、御坊主、御切手とこれらは御目見え以上の女中達で屋敷内が何時になく華やいでいて、それらの話し声も屋敷中に響くほど賑やかであった。

 表向きからは老中や若年寄に、勘定吟味役と吟味方改め役、目付、御台様御用人(御廣敷御用人)、奥医師、御膳所台所頭、御膳所台所組頭等、役目柄懇意にしておく必要のある者を選んでいた。

 これは葎が草案しみなが決めたのである。列席者数は役目の都合で辞退者が出た為、最終的には三十二名であった。

 お女中の中でも葎と親しい者達といえば御錠口詰、御錠口衆に御祐筆、表使らで、これらは早めに到着して、葎が大勢の賄い女中にてきぱきと指示を与えているのを観て、その変貌ぶりに感心するとともに、羨望の眼差しを向けていたのである。

 一月も下旬である。今にも雪が降って来そうな程冷え込んでいたが、広い座敷の各所には火鉢が置かれてあったので、若い女中たちはそれらを囲んで話し込み、宴の開始を待って居た。

「おさよさまのその筥迫はこせこは色合いが落ち着いていて宜しゅう御座りますが、何方にてお求めでしょうか」

 若い表使の久が御錠口詰の紗代の打掛からはみ出ている袋物を目ざとく見つけてそう訊ねた。

「おうこれは出入り商人の常盤屋から買うたもので、この色合いに魅せられてつい買うてしもうたわ。いやそなたの筥迫もなかなかな物ではないか」

 赤い生地に花柄模様が描かれて、真ん中にある胴締めの先には落とし巾着があり、その脇には飾り房がぶら下がっていた。

奥女中に限らず、町屋の娘たちも外出時は手ぶらであったので、その筥迫の中身は如何やら懐紙や櫛、白粉、紅板(口紅)などの化粧道具に銭入れとして使った物だった。

 そうしている間に表向きの役方も到着し、其々指定された席に着いて、老中の到着を待つのみとなった。


「御駕籠が到着されました」

 使用人がそう知らせると、豊川みよと梅野葎が玄関に出迎える。

「相模守様、本日は御多忙の中を御来宅下さり、恐悦至極に存じます」

 土田相模守政直は穏やかな表情を見せると、祝いの言葉を述べながら軽く答礼のお辞儀を返した。

二人が着座すると、豊川家のお女中衆が銘々膳を運び入れると、酒礼の前に梅野葎が挨拶し、豊川みよがお礼の挨拶をした。

その後老中土田相模守の祝辞を戴き、祝宴となった。

 饗膳は本膳、二の膳、三の膳と配膳し、その料理の中身は同じであっても、御膳や盛り付けの器は、身分各差をつけて出したのである。

 相模守は盃を口に運びながら豊川に床の間の掛け軸について訊ねる。

「この絵は誠に見る者の心を見透かすような鋭さと厳しさがあり、よこしまな心根ならば一瞬にして打ち砕かれてしまいそうな畏怖と或いは畏敬の念を抱かせられるが、狩野鴒蓬なる名を耳にしたことが無いというのはどうしたことだろうか…」

「付き人葎の連れ合いとなる甘利敬四郎の話では、鴒蓬は神田松永町狩野派の門人で一時は表絵師として禄を食んでいた由に御座りまする」

「それは分かったが、何、あの美人の付け人が先程筆頭料理人として挨拶したあの男と夫婦になるというか」

 意外な組み合わせに相模守は驚いたように再度訊ねる。

「正式な手続きは未だですが両名ともそのつもりに御座います」

「あれ程の器量と裁量を持ちながら、上様付とはならなかったか…。不運よのう」

「お言葉ですが、それで良かったのではないでしょうか。第一あの子の実家は徒士の御家人ですので、余程のことが無い限り御中臈には為れませぬ。これまでは御錠口衆で御座いましたが、幾たびか接しているうちに、あの子の並々ならぬ才能を知り、御錠口衆を解いて付け人と致しましたの」

「成程それは役得と言うものだな」

 何処かで聞いた言葉だが、大奥の最高位にある者にとっては造作の無いことであった。

その妻女を嫁に迎えることが可能な将来の婿殿はこの接客料理の中で幾つかの食材を試しに使っていたのだが、話に夢中なお女中衆や大半の役方はそれを口にした時、上手いとは感じたもののその食材の正体を知ろうとはしなかった。だが殆ど残されることなく完食されるに到たっては、先ず先ずの手応えと言えたのだ。

 だが中にはそれを見逃さなかった者が数人居たのである。

「豊川殿これは何という魚で御座るか」

 訊かれたみよとて判ろう筈もなく隅に控えて居る敬四郎を手招きで呼ぶと、葎も一緒に御前に畏まった。

「この料理は何という?」

 それはたれの掛かった肉で青物が添えられていた。

「鯨で御座います」

「それではこれは何か?」

 それは赤身の刺身であった。

「鮪に御座います」

「何と下魚か!」

 横合いから豊川がそのように言う。

「畏れながらその鮪は脂がのっていて宜しいかと思いましたがお口に合いませぬでしょうか」

 敬四郎が恐る恐る訊ねると、

「いやそうではない実に美味いがこれまで食べたことなど無かったものだから」

 土田相模守政直は下總古河の殿様である。食通の江戸っ子だって敬遠するような下魚を食するわけがない。

恐らく殿様としての食膳に下魚など出たことが無かったに違いない。

旗本とて同じであったから、それら美食家の舌を満足させたに違いなかった。

 聞き耳を立てていた女中方も手をつけていなかったそれらの食べ物を改めて食べてみると蕩ける様な舌触りに全てを食べ尽くすのだった。

 豊川は驚きの表情を見せていたが、梅野葎はしてやったりと許甘利敬四郎と顔を見合わすと微かに笑みを浮かべて見せた。

 土田相模守は帰り際に年寄豊川に耳打ちした。

「改めてあの付け人のことで話そうではないか、声をお掛けする故その時は会うて下され。折角の美貌と才能が勿体ない」

 相模守は一介の御家人の妻にするには惜しいと思ったのである。

二十四歳というから年増には違いないが、年寄の付き人であるだけに上様の眼に触れないこともない筈だし、それが叶わないにしても大名の側室として推挙出来ないことはなかった。


 豊川に従って葎と敬四郎ら一同は客人らを門の外まで見送ると、賄い分として取り置いた料理を食べ終えて、部屋の片づけに掃除を済ますと、葎は改めて慰労の酒を振舞ったのである。

葎は豊川を休ませる為部屋に連れて行き、行儀見習いの絹と、車座で飲んでいるお手伝いの人々にお酒を注いで回った。

 絹は商家の娘で十八だが何方かというと大人びていて、台所役人らに人気があった。

「お絹さんは江戸の生まれかい」

 敬四郎に触発されて目覚めた訳ではなかろうが、珍しく松次郎が最初に絹に話しかけた。

それを見て敬四郎は葎と顔を見合わせ、堅物の変化に期待を寄せるのだった。

 しこたま飲んで竹中吾平に末吉甚六が明日はお勤めがあるから失礼すると立ち上がると、松次郎も話を中断して帰ると言い出したので、敬四郎は葎に耳打ちをして後を追った。

 途中松次郎は敬四郎を称えるように、

「流石兄者だ。鯨はとも角、鮪があれほど受けるとは思わなかったよ」

「いやいや皆があの味を知らぬだけのことで食べてみれば判るのさ」

「町人にとっても下魚扱いですからね」

 と、吾平や甚六は唯料理するだけではなく、それらを最適な形で消費する者に知らしめるというのも料理人の腕であり、勤めであると思うのだった。

 

  この翌日、明け方より雪が降り出して江戸市中を白銀に染めた。

前日の寒さは半端でなかった訳だ。

敬四郎は父彦一に起こされて庭に出てみると、三寸ほどの積雪があり、大粒の雪が降り続いていた。

「この雪は取って置くんだろう」

 彦一は掌を上にして雪を受けるようにして敬四郎と共に裏の小屋に行くと、

「少し水っぽくねえか」

 と疋田信之介が木戸を開けて顔を出す。

「おじさんお早う御座います。雪は二尺も積もれば落とせますよ」

「出来るだけ綺麗なやつをな。うちのやつも入れたらいい」

 師走に何度か降った雪も入れてあったので氷室の中は十分冷えていた。

夏にその温度なら申し分なかった。

 昨日の朝早くに氷室で出来た雪の塊を荷車に積んで豊川の屋敷に運び入れ、寿賀に使う食材の品質保持に役立てるつもりではあったが、結構低温であったので無くても問題なかった。

 雪は夕方には止んで組屋敷内の空き地の随所に雪だるまや訳の分からぬ雪像が作られてあった。

 敬四郎は母ふきが用意して呉れた藁沓わらぐつを履いて出仕したのである。

笠を被り、皮の足袋の上に藁で編んだ葉佩が付いているので、雪道を歩くには楽であった。


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