第5話 表絵師の掛け軸
戻ると母ふきが父彦一が部屋で呼んでいると伝えに来た。
「父上戻りました」
「お帰り。ほら見てみろ、表絵師に頼んでおいた絵だ」
それは桐箱に納められ、蓋には達磨大師像、
蓋を取って箱から取り出すと、巻緒を解いて畳の上に転がした。
、禿げ上がった頭と蓄えた顎髭の間に、太い眉と睨みつける眼、そして存在感を示す鼻が確りと中央に描かれてあった。
禅宗の開祖達磨太師の像だという。
左肩には見事な草書体で『七転び八起き』と書いて在り、右下には狩野鴒蓬の文字と
像の描かれている本紙の大きさは二尺と二尺二寸程で、全長としては半月から紫檀の軸まで四尺二寸であった。
「どうだい敬四郎、いいだろう」
己が所有する物でないのに、自慢げに言うのだった。
この表絵師狩野鴒蓬の師匠は御用絵師の誰かには違いないが、何故かそれを明かそうとはしなかった。
破門された訳でもなさそうで本来は、御公儀より御家人格二十人扶持の待遇を得ている筈がどうもそうではない。だとしたら表絵師というのも可笑しいのだが…。
神田松田町の裏店での独り暮らしで、別段暮らしに困っている風でもなかった。
甘利彦一が台所役人の時に襖絵の修復に来ていた鴒蓬に弁当を出した折、雑談して親しくなったという。
詰まりこの時は間違いなく御家人格であったのだが、それもお抱えとして一代限りなので、引退と同時に只の絵師となったのであろう。
彦一が代金は二両だと言ったが、敬四郎は父の顔も立てて三両を包んだ。
「済まぬ。それでは早速支払って参る。あっそれと軸を巻き取る時はきつくしないことだ。きつく巻き過ぎると掛け軸を痛めてしまうでな」
彦一は機嫌よく出かけて行った。
するとふきが真新しい風呂敷を持って部屋にやって来た。
「この風呂敷に包んで持って行きなさい。ところで父上に代金を幾ら渡したの」と訊く。
「二両と言われたが三両渡したよ。それでも安いと思うよ」
母ふきも相槌を打つように肯いて見せる。
「鴒蓬殿がこれをお持ちになった時に二両を支払い済みよ」
と含み笑いを浮かべたので、
「では父上はねこばばしたと言われるか?」
「莫迦を御言いでないよ。あの人は今頃鴒蓬殿と何処かで飲んでいるわよ」
「なら良いが、でも一両も飲めないでしょうに」
「そりゃ心配ないさ、お釣りは当然鴒蓬殿が貰うのだから」
敬四郎は禅問答でもしているようでふきの言ってることが分からなかった。
「どう言うこと?」
「だからお前の気持ち一両を渡すのさ。それでは鴒蓬殿が素直に受け取らないだろうから、仕事の斡旋の手数料としてこれで奢れとやるのよ。お前の親父様だよ」
一見堅物にみえるが、そんな一面を備えていることぐらい妻として承知して居たので、確信するように愉快そうに笑うのであった。
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