第3話 奥女中葎
八月半ばともなると原っぱなどに赤とんぼが飛び交い、秋の様相を呈して来ると、朝晩に吹く風もすっかり涼しくなって来た。
十五日は朝早くからお月見の準備に追われ、月見団子の他に栗や柿、葡萄、芋などを三方盆に積み上げて城内の数か所に供えた。
市中では、その十四十五の両日は八幡さまの祭礼で、富が岡八幡宮や田町西久保八幡宮、高田穴八幡など近在の八幡神社で祭りが執り行われ、山車や神輿の渡御などの見物客で賑わった。
数日後の非番に、敬四郎は一人で日本橋の河岸に出かけて行った。
何時もなら松次郎も非番なので誘って一緒に出掛ける所だが、この日は敢えてそうしなかった。
何となく一人で散策したかったのだ。
三軒四軒と覗いていると、声を掛けるものが居た。
「甘利様、甘利様でしょう?」
見れば
上様、御台様の食膳を届けに行くとき、組頭と共に調理担当として同行したものだが、その時の受け取りに梅野が良く対応したのである。
「お勤めはお休み?」
「左様非番です。梅野様は何方かの御用でお出かけですか?」
「御錠口頭の玉野井様から用事を仰せつかりましたもので、こうして久しぶりに市中の空気に浸って居りますの」
「結構なこと。もし良かったら、その辺でお茶でも飲みませんか」
「まぁ、甘利殿とご一緒できるなんて夢みたいー」
梅野は耳まで赤く染めて、嬉しそうにそう言うのだった。
二人は茶屋に入るとお茶と羊羹を頼んだ。
「梅野様に伺いますが、正直にお答え頂けたら有難いのですが…」
「何なりとおっしゃって下さいな。知ってる限りはお答えしましてよ」
「良かった。実は氷室の日に献上されて来る氷のことなんですが」
「加賀前田家の氷のこと?」
「そうです。でその氷のことなんですが、御台様や上様の食膳に添える様なことはあるのだろうかと何時も疑問に思っておりまして」
「そのことなら…正直に申しあげると、ご活用されて居りませぬ」
「何故にお使いになられぬのでしょうか」
「それは
申し訳なさそうに話す梅野がとても意地らしく見えたものだ。
「確かに元々は天から降って来る雪ですから浮遊物を含んでしまうは仕方のないことだと思います。ですが食材の保管で考えるならば、長持ちさせるにこれ程有効なものは有りますまい」
役目柄ついつい語ってしまう。
「此処でお会いしたのも何かの御縁ね。何処かでお酒でもどうかしら」
と色っぽく迫る。
「いいですね!ゆっくりやりますか」
奥女中は滅多に外出など出来なかったが、上司の御錠口詰から市中への用事を頼まれ、序に暮六つ《18時》までに戻れば良いからと休暇を貰ったのことである。
用事は呉服橋先の呉服町にある呉服問屋への届け物であったが、自分で出向く訳にもいかず、梅野に頼んだものだった。
奥女中の楽しみと言えば、表の行事同様に御台様が主催する年始や五節句、六月六日の嘉祥の日十月初亥の玄猪の日に下賜されるお菓子や御餅が楽しみの一つで、その他には御台様やお年寄の寺社参詣のお供で出かけるぐらいであった。
「では行きつけの飲み屋に行きましょう」
敬四郎は梅野の戻りを考慮して常盤橋御門の対岸を龍閑橋から鎌倉町へと歩いて居酒屋に入った。
「旦那いらっしゃい。奥が空いてますよ」
亭主はご婦人連れと見るや女将に目配せで台脚の付いた衝立を置かせて目隠しをした。
「女将さん上酒と何か摘みを頼むよ」
女将が清酒と蛸の煮物を器に山盛りにして持って来た。
「凄いわね!」
「さあ梅野様先ずは一献ー」
敬四郎は奥女中の梅野に対して様と敬称した。表と奥の違いはあるにしろ、己は御目見え以下で御錠口衆は御目見え以上であったからだが、
「男の方とこうしてお酒を戴けるなんて思ったこと無かったわ。あぁ美味しい…ねえ敬四郎さま、私のこと葎と呼んで下され」
梅野葎は顔や首筋まで真っ赤にして早くも酔いが回ったように見える。
「葎殿酔われたか」
敬四郎は葎に砕けた言葉を使った。
「女将、から汁(おから入りの味噌汁)を頼むよ」
二日酔いに効果があるようだが、予防としての効果は如何であったか…。
葎は普段の緊張から解放されたように敬四郎に凭れかかるようにして何事かを口にしていたが、そのうち眠ってしまった。
女将が気を利かして箱枕を出してくれたのでそっと宛がうと寝返りを打った際に如何した訳か裾が
良く観ると裾避けも着けていた。
初めて目にする訳ではないが、それをまじまじと見たことは無かったので、目が釘付けとなってしまい、我に帰えると慌てて開けた裾を閉じようとして攫んだ際、無意識に肌に触れてしまったのである。
〈何と柔らかい〉
敬四郎は俎板上で包丁を滑らすように、指を下から上へと滑らせて、盛り付け皿の縁を撫でるように、付根の縁からのびる筋に当てがって指を這わせたのである。
葎の躰が小刻みに震えたので、慌てて乱れた裾を隠すように羽織を脱いで掛けてやると、葎は又寝返りを打つように羽織を蹴飛ばして開け、枕を除けて頭を股間近くに載せると、右手で内腿を弄るように触れて来た。
敬四郎は思わず覗き込んだが寝ているのは確かであった。
見た感じでは態とではない。
夢でも見ているのかも知れないと思ったが、片外しの
と、行き成り葎が目を覚まし、驚きの声を上げそうになったので、敬四郎は右手でその口を押えて、
「ぐっすりと寝てましたよ」
と耳元で囁いて髱からそれをそっと抜きながら布切れの端で光る物を拭いて取った。
葎は気がつかなかったようだが、衣類の乱れに気が付いて、恥ずかしそうに居住まいを正した。
「葎殿お腹が空いたでしょう。茶漬けでも頂きますか」
二人は茶漬けに沢庵と小魚を食べて居酒屋を後にしたが、未だ昼八つ(二時)なので、御城に戻るには早かった。
葎は後一時半位はゆっくり出来るというので、敬四郎は葎の手を引くと意を決したように近くの出合い茶屋に上がったが、初めのうちは互いのことについて話をするだけで過ごした。
梅野葎の実家は
葎自身は禄高七石三人扶持の御錠口衆で御目見え以上ではあったが、容姿端麗でも
対する敬四郎は齢二十二で未だ独り身だが親や親類が勧める縁談には見向きもしなかったのである。
台所役人としてのお役目と
「雪氷の話だけれど…」
話題に詰まったらしく、葎は唐突にそう切り出した。
「雪氷があれば確かに食材が痛まずに済むわよね、でもその氷も暑い時には直ぐに解けてしまうでしょう。なのに献上氷が雪で作られたものだとしたらどうやって保存したのかしら…。前田様の領國加賀は寒い所とは聞いているけど、仮に三月四月に降った雪があのように凍って、況して温かくなって来るのにどうやって保管したのか不思議でならないわ」 葎は暑いらしく扇子を取り出して扇ぐ。
「葎殿、確かに雪は冬の寒い時期に降るものだが、それを献上氷で見るように取って置くことが出来るのです」
「如何にして?」
奥女中の中でも献上氷について興味関心を示したのは葎ぐらいかも知れなかった。
「それは…」
「それは?」
「
「氷室とは吹上の庭の何処かにあるというひむろの事?」
「そう、その氷室です」
「でも其処に入れるだけでは何れ融けてなくなってしまうでしょ」
「そうです。ですから何らかの工夫がされていると思うのですが、実際見たことが無いので解りませぬ」
「氷室への保管はお台所衆のお役目でしょ。敬四郎様はご覧になったことは…」
「ありませぬ。軽輩で庭園に入ることの出来るのは管理の足軽や台所方では六尺ぐらいでしょう。その六尺にしても詰所で足軽に渡してしまう為、氷室がどのような構造かも知らんのですよ。ですが想像は付きますがね」
「まぁ凄い。役目柄想像できるということ? 葎の眼が好奇心に満ちているように見えるのは気の所為か、
「実は前田様の御家臣に親しい者が居りましてね。下屋敷の中に氷室があるそうで、庭園の管理一切を担っているようです」
「素敵だわ。行ってみたいけどそれは無理よね、いいなぁ」
「葎殿見たい?」
「えぇそりゃ見たいわよ。どんなものかは何となく分かるけど見てみたいわ」
「なら見せて上げましょうかー」
「敬四郎様揶揄わないで!」
と、気安く肩を叩く。
「冗談ではなく、うちに有るのです」
酔っぱらっている訳ではないが、二人とも遠慮のない言葉遣いになって話して居た。
葎は敬四郎にしな垂れかかって、
「見せて欲しい」
と
「ならば見せてあげる」
敬四郎も自制心を解いて肩に手を回して葎を抱き寄せた。
誰に教わった訳ではないが、二人は自然の形に収まった。
そして寄り添ったまま離れようとしなかった。
「先程は途中で気が付いていたね」
と敬四郎は葎の顔を覗き込むと、微笑みながら
敬四郎はとも角、葎はこの歳まで経験もなく、奥女中としてこのまま無為に過ごして一生を終えたかも知れなかったが、上司に用事を言い付けられて息抜きの心算で市中に出かけたことが思わぬ希望を齎したのである。
例え一瞬の夢と潰えたとしても構わなかった。 ところが敬四郎にしても
というのも自分は当番以外なら自由に出来たが、奥女中の葎は今回のように用事がない限りは外出が出来なかったからで、何とかして会いたいと思うようになった。
今度は自宅に連れて行って氷室を見せて上げると約束したのである。
ひと月ほど経ったある日の朝、当番の敬四郎は料理の扱いについて注意事項を伝える為御錠口まで付いて行くと葎が応対し、注意事項の添え書きを渡すと、代わりに小さく折り畳んだ書付を敬四郎の手に渡した。
それには『四日後の昼四つ(十時)に
敬四郎は三日後が次の当番日で四日、五日と非番であったからそのように仕組んだに違いなかった。どのような口実で外出してくるのか分からなかったが、落ち合う時刻を昼四つ(十時)にしたのは、恐らく五つ半(九時)に
葎から変更の連絡がなかったので、四日後の昼四つ前には雉子橋通と表神保小路の交差地点に着いていた。
葎は昼四つ丁度に橋を渡って来た。
外出着に身を包んでいるが髪が片外しなので、行き交う者には御殿女中であることに気がついたようだ。
「お待ちになって」
「着いたばかりだよ。ところでどうやって外出の許可を貰ったの?」
「母が病気なので様子を見に行きたい」と話したら…お年寄と御錠口詰があっさり宿下がりを許可したというのである。
日数は五日だというから四日は一緒に入られることになる。
葎は茶目っ気たっぷりに嬉しそうに話すのだった。
「嘘と分かったら唯では済まないぞ」
と脅かすと、
「心配要らないわ」と自信ありげに話した。 奥女中の宿下がりは御目見え以下に与えたもので、葎のように御目見え以上の者は許されても女中の監視が付けられて、単独では行動できなかったものだが、葎の場合は一人で規則通り平河御門から出て来たので、手続きを踏んでの外出に間違いなかった。
「まぁ良いだろう。では宅へ参ろうか」
雉子橋通を裏神保小路を過ぎて次を左に曲がった先が台所町であった。
町木戸から入って三軒目が甘利家である。
玄関先に父彦一と母ふきが出迎えた。
「良くぞ来られた。お上がりなさい」
二人は予め敬四郎から話を聞いて居たので葎を見て驚きはしなかった。
観れば容姿端麗で育ちの良さが窺えるなど、御殿女中という以外文句なかった。
況してや料理以外に興味が無く、妻帯の意思が見られなかった敬四郎が自ら家に連れて来たのである。
この方が青天の
御目見え以上の奥女中であることが障害ではあったが、二人の気持ちが本物であるならば、何とか添わせてやりたいと思うのが親心というものだが…。
「ご両親はご健在ですかな」
「はい、二人共無病息災健康に過ごして居ります」
「それは何よりで御座る。ところでご実家は何方に?」
「神田川に架かります和泉橋を渡りまして、三町ほど参りまして右に入って行きますと御徒組屋敷が御座いますが其のすぐ側に御座います」
「藤堂様や佐竹様のお屋敷に近い所にある組屋敷かな」
「はい
「御実家が近くにありながら宿下がりも叶わぬとは奥勤めも因果なもの」
二人の会話を黙って聞いて居た敬四郎が頃合いを見計らうように、
「父上その位で葎殿を開放して下され。氷室を見て貰いたいのです」
「そうですよあなた」と母ふきも助勢する。
「では葎殿参りましょう」
敬四郎がせっつく様に葎を連れて行こうとすると、
「お待ちなさい」とふきが止めた。
「そのままではお召し物が汚れてしまうから、地味だけど普段着に着替えた方が良いわ」
と葎を奥へ連れて行った。
「お前もこれで漸く一人前に為れそうだな」
「父上からかわないで下さい。未だ分かりませぬ」
とは言うが、これまでの敬四郎とは違っていた。
「お待たせ敬四郎」
母ふきの呼びかけに振り返ると、縦縞の袷に山袴に身を包んだ葎が、まるで恥じらう新妻のように見えた。
〈綺麗だ〉この心の呟きが聞こえでもしたのか、葎はにっこりと笑顔を返したのである。
「さぁ良いよ」
ふきは見惚れている我が息子に号令をかけた。
敬四郎は葎の手を引いて裏手に回ると、
「あの中に在るんだ」
と小屋を指して教えた。
小屋に入ると雪の落とし口や氷室への階段の昇降について注意した後、先に降りて葎を下から支えるようにした。
山袴の葎の動きは意外と軽快で危なげなく下りた。
「これが雪氷で食材を保存する氷室だよ。二段の上段がうちの置き場で、下の段は隣りの疋田家が使うので間違わないようにしてるが、場合によっては融通し合うこともあるだろう。親父たちの代から仲が良いものだから」
まるで嫁に言い聞かすように話すのだった。
母屋に戻ると父彦一とふきが河岸に行って来ると出かけて行った。
茶の間にはお茶とお菓子が用意されて居たのでそれらを頂き、空間で誰にも気兼ねなく、二人だけの濃厚な時を過ごしたのだ。
葎は五日間の内三日目だけ実家に帰ったが、後は敬四郎と二人っきりの時を過ごした。
その五日目最後の日に、敬四郎は葎と共に日本橋に出かけて行き、小間物問屋で櫛や
前回葎は用事を言いつけられての外出ではあったが、お年寄豊川の許可もあったと聞き及ぶに於いて土産を携えてお礼に上がったのである。
そして此度の外出に於いては、母親の病を口実にお伺いを立てた所、
「僅かであれ老いたる親の看病をするは子の勤めなり。必要とあらば亦行って孝行すべし と五日間の外出許可を下さった上、今後も必要ならば許すというものであったので、葎はお年寄豊川様に
敬四郎にとっては思わぬ出費ではあったが、心を通わす人との逢瀬には惜しげもなく使ったのである。
また将軍弁当で稼げば良かったからだが…。
「さぁもう八つ半(十五時)だ。帰らなければいけないな」
「一橋御門の手前まででいいわ」
「分かった。門に入るまで見ててやるから、風呂敷包みを落とさぬようにな」
葎はにっこり肯くと、足早に橋を渡り、門内に消えた。
此処から平河御門を通って、御廣敷玄関脇にある七ツ口から大奥に入るのである。
ここがお女中らの唯一出入り口で、他には切符を持った出入り商人が通行したが、何れも夕七つ(十六時)には閉められて通行できなかったのである。
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