第2話 氷室という保存庫


 それから何日かして敬四郎は松次郎が明けて帰宅したばかりの五つ半(九時)に見たこともない男を連れて声を掛けたのである。

加賀前田家の足軽だという男は野村甚吾郎と名乗った。

 この男は手木足軽てこあしがるの頭で、本郷の上屋敷で造園管理を任されて居るとのことだが、実は氷室ひむろの管理もしているとのことだった。

氷室については昨日敬四郎から聞いたばかりだが、食材保存という点から大いに興味があった。

 三人は行きつけの飯屋に入って話をすることにしたのだ。

亭主に奥の部屋を使わして貰いたいと頼むと、一つ返事で承諾してくれた。

 野村甚吾郎と甘利敬四郎の繋がりは如何やら氷献上の日に遡る。

それは四年前のこと、朝の調理のひと段落付いたところに献上の氷を持参した加賀前田家の手木足軽野村甚吾郎が届け先を訪ねて来たのである。

「加賀前田様からの御献上品でござるか、生憎取次方が留守して御座るに、拙者台所役方甘利敬四郎が此方でお預かり致しましょう」 と受け取り、見れば長持ちを担いで来たそれら足軽らが大汗をかいて居たので、上がり框に座らせて、黄粉きなこを付けた葛餅と飲み水を出してやったのである。

 野村甚吾郎らは豪く恐縮して帰って行ったようだが、その後会うことは無かった。

 敬四郎らが食材を流用するようになったのはここ一二年の所だが、最初は無駄をなくす為に始めたことで、懇意にしている番方に無料で提供したのが始まりで、金を払うからと注文が来るようになって、何時しか今日の流れになってしまった。

需要は絶えないので暑さ対策が必要になり、前田家の献上氷を思い出したのである。

 あの時の足軽頭に会って話が訊きたいと思って居た折、神田明神社の参詣で偶然にも境内で再会したのである。

顔を見て双方とも相手を理解すると、旧知の仲のように自然に横にある茶屋に飛び込んだのであった。

 敬四郎は甚吾郎に事情を話すと、氷室についての利便性を説いて聞かせてくれたのだ。一般の屋敷地でも作れないことは無いとのことから改めて話を聞かせて欲しいと要望した結果、この日の来訪となったのであった。


「忙しいところ申し訳ない。何れこのお礼はさせて頂く故…今日の所は勘弁願いたい」

「何を申されます。私のような軽輩にお声をおかけ下され、有難く存じます」

 確かに軽輩ではあるが手木足軽は単なる軽輩などではなかった。

加賀前田家では特殊技能を持った技師であったのだ。その辺り敬四郎も心得たもので決して軽んじることなく接したのである。

「甘利様、御屋敷に氷室を造りましょうか」

「野村殿、この間の話からして役宅に造れるものだろうか」

「百坪ほどの敷地があれば裏や横の何処かに空き部分が有りそうですがね」

 二人の会話に松次郎は割って入れず唯黙って聞き耳を立てるだけであった。

「穴蔵を掘るとなると結構大掛かりになるだろうから費用もかかるだろうに」

「甘利様御心配は無用です。材料もありますので殆ど掛からないと思いますよ」

「とに角野村殿にお任せするのでよしなに」

 敬四郎は一息ついたように、甚吾郎の盃に酒を注いだ。

「なあ松次郎、氷室が有ったら食材の保管が楽になる。そしたら安心して美味い菜が食べて貰えるぞ」

 確かに安心だが、そうであっても食材の流用は決して好ましくないと松次郎は思うのだった。

 この日甚吾郎は甘利家に寄って、敷地と建物の配置を確認して帰って行った。



 五月の半ばと言えば初夏である。

非番の筈なのに、松次郎は朝五つ半(八時)に母親に起こされたのである。

「お隣りの甘利様の父君がお前を呼んで居るんだよ。起きておくれ」

「兄者の親父様が何の用事だろう?」

 急いで支度をして表に出ると、父親と並んで甘利彦一が話して居るのが見えた。

「甘利の親父様何事ですか?」

「おお松次郎休みなのに済まない。倅は当番で不在なのに知り合いだとかいう前田家のご家来衆が何やら道具を持って来て、ひむろがどうのこうのというのだが、倅から何も聞いて居ないのでどうしたものかとおやじ殿を呼んで思案していると、松次郎の名が出たので呼んで貰ったのだよ。そちは氷室を造るとかの話を知っているか」

「はい話は存じております。ご家来衆はどちらにいらっしゃいますか」

「庭に居るよ」

 そう聞くと松次郎は急いで甘利家の敷地内に入ると、何やら満載した荷車の傍に野村甚吾郎とその手下らしき人物が数人待って居た。

「疋田様、甘利様は今日非番じゃなかったですかね。三番勤めと伺ってましたから前回から算出して間違いなく御在宅と思って伺ったのですが間違いましたか…」

「あっいや間違いではなかったのですが、兄者は、あぁ甘利殿は途中誰かと差替えしたんでしょう。本来なら休みですよ。ところでこれから工事ですか?」

「よろしかったら造作したいと思いますが」

「では野村殿、暫しお待ち下され、隠居されているとはいえ父君に話を通さねばなりませぬので」

「お願い致します」

 松次郎は甘利彦一に氷室設置についての経緯を丁寧に説明すると、

「分かった。休みのところ済まないが立ち合ってくれるか」

 彦一は仕事に役立てる為の造作とみて、内心嬉しかった。

造営場所は北面西寄りで隣接する疋田家の勝手口に近い所であった。

そこには両家が出入りする潜戸があり、敬四郎は両家で共用出来る氷室を考えたのであった。

前回敷地を見に寄った野村にはその構想まで話してあったのだ。

 穴蔵の大きさは幅一間に奥行は一尺五寸の階段を含めて四尺で深さは六尺許であった。穴を掘っている間に何度か、何処からか比較的きれいな廃材を持ち込んだ。

穴蔵の中は雪氷が保管できるように石なども使い、長持ちするよう造作するという。

又穴蔵の上には雪の落とし穴を付けて室温が上がらないようにする工夫が凝らされるようだ。

 この穴蔵の存在を近所に悟られないようにする為に小屋を建てて露見を防ぐとかー。

入れ物が出来たので先ずは彦一に見て貰おうと松次郎が遠慮すると彦一は詳細を覚えられないからと言い、結局松次郎が使用上の注意と使い方を教わった。

 雪氷は六月朔日の氷室の日以降に入れるのでそのことを敬四郎に言付けたのである。

掘り出した土は甘利家の庭に入り切らなかったので、疋田家の庭に入れてちょっとした築山を造った。

流石造園師である。盛り土と共に石の配置まで簡単に変えて庭らしくなった。

 手木足軽らを労う為疋田家で料理を振舞った。

調理は疋田信之介と甘利彦一が久しぶりに腕を振るったのだが、それも突然の氷室建造の話を知って、作業が始まって間もなく、二人は日本橋にある河岸に出掛けて行った。

 鰹や鮪に鯵などが並んでいたが、鰹は他の魚に比べると未だ高額で売られていて手が出しにくかったが、店の親仁が信之介が他の店に足を向けて姿が消えたのを機に、

「旦那、大事なお客さんなら猶更のこと、此奴は江戸っ子が欲しがっても易々とは口に入れられねえ代物ですぜ」

 負けて一分(二万五千円)と値を下げた。

「その辺りもお付けして御屋敷までお届けしましょう。何方ですか」

 彦一が言い渋って居ると、

「御台所町だが」と信之介が戻って来るなりにっこり笑いながら答えた。

「お人が悪い。お二方ともお役人さんでしたか。早く言って下されば掛け値なしでお話ししましたのにー」

 と揉み手しながら照れ笑いして見せる。

「確かに以前は台所人だったが、ご覧の通り二人とも隠居の身なんでね。恥ずかしながら懐が寂しいのだよ。だが倅らの友人が食材の保管庫を作って呉れてるもんで、老いぼれても礼をさせて貰おうと思うてな。通りかかったらこれが目についたと言う訳だ。彦さんどうするよ…」

 もう一押しと見た店主、

「それでは旦那方二朱と百文(一万五千円)で手を打ちましょう。それとこの後のご予定は?」

「帰るだけだがー」

 彦一が怪訝な表情を見せると、

「貞吉この品とお二方を俎板橋まないたばしの先までお送りしておくれ」

 うまく乗せられて買わされたが、こんなことでもない限り鰹を食べることもないので、二人とも満足であった。


 二人を乗せた子船は日本橋から一石橋を潜って内堀を右に出て神田橋御門から一橋御門前を通って俎板橋の先黐もちの木坂通りで堀留川(堀)は終わった。

 送って呉れた貞吉という小僧に駄賃を握らせると、その先用水沿いに歩いて組屋敷に帰った。

 余談だが、二人が舟で戻って来た川は堀留川と言ったが、元々は神田川が掘削される以前は、平川の流れとして海に流れていたのである。

 さて二人が屋敷に着いた時分には裏の作業場の穴蔵掘りも終えて保管庫の組み込みをしているところであった。

大工仕事も出来る仁吉や庭師に弟子入りしたことのある翔太ともう一人若手の足軽が立ち働いていたのである。

「後でゆっくり見させて貰うよ」

 老調理人の二人は久しぶりに包丁を握って、甘利家の台所で始まった。

共同の台所でなくとも各屋敷の台所は比較的広く余裕があったので、大人数の料理も熟せたのである。無論疋田家で出来るものは同時進行で行ったのである。

 


 慰労の宴は七ツ半(十七時)に始まった。疋田松次郎が当主敬四郎に成り代わってお礼の挨拶をすると、甘利彦一が御礼の言葉と持成しの料理について簡単に話し、無礼講で宴会が始まった。

 皿には鰹の刺身が盛られ、小皿にはなますが添えてあった。

「刺身はからしでもわさびでも好きなものを付けて食べなされ…ミョウガもあるからどれでもお好きなように」

 野村らは鰹の刺身を実に美味そうに食べて居た。

「滅多に食べられませんので味わって頂いてます」

 野村もその手下らも酒に酔いながら、滅多に食べられない鰹に舌鼓を打つ。

「野村殿少しばかりだが切り身を酒に浸けて置いたので、お持ち帰り下され。疋田殿も自宅に持って帰られよ。お湯でも良いのだが、酒に浸しておけば二日ほどは持つので安心して食されよ」

 半時ばかり過ぎた頃敬四郎が帰宅した。

訊けば翌朝の段取りを済ませて頭の計らいで帰してくれたのである。

野村甚吾郎は改めて敬四郎に氷室の図面を見せて細かく説明すると、氷室の日前後に氷を届けるというのだった。

 生ものが日持ちするというのが夢であるならば、その入れ物が自宅に出来たこと自体夢のような出来事であった。



 六月朔日氷室の日は松次郎が当番であった。出仕して間もなく、御進物取次頭の横田兵馬が、加賀前田家の氷の献上を告げにやって来た。

献上品の確認は既に済んでおり、一先ず御廣敷御台所にて預かって、後で必要な量だけ取り置いて六尺らに吹上の氷室に保管するよう命じた。


 同じ頃、板橋平尾にある加賀前田家下屋敷の裏手から長持ちを担いで速足で歩く足軽の一団があった。

前後を担ぐは仁吉と翔太で脇に付いているのが豊治と頭の野村甚吾郎であった。

如何やら御台所町の甘利敬四郎宅に向かっているようだった。

幸にして非番の敬四郎は氷室の小屋に居て、細部に亘って造作を認め、運用について何やら思案しているような面持ちであった。


「敬四郎、野村殿が見えたぞ」

 と親父の彦一が声を掛ける。

「良くぞ参られた。今日は?」

 敬四郎は用件を察してはいたが、敢えてそう訊ねた。

「氷を持って参りました」

「それはそれは忝い」

 外を覗くと翔太と仁吉らが長持ちを下ろして会釈した。

「終わりましたらお呼びしますのでお待ちください」

 敬四郎は作業を覗いて見たかったのだが、庫内は然程広くないので、甚吾郎の言葉に従って書斎で調べ物をする等して待つことにした。


 氷室を持ったことで生ものや青物の保管が非常に楽になるのと、将軍弁当の中身自体更に上等で豪華なものが出来そうであった。

 御廣敷御台所の献立は頭二人が交代で立て、頭支配の組頭三人がその当番日にお番衆役人らの食事や弁当の献立を担当したのである。 大名は基本弁当を持参し、役人は弁当を持参する者と飯だけ持参し、菜は配給を受けるといった者もいた。

 台所役人が組屋敷の自宅で弁当を作って持ち込んだものは、上様や御台様が食べる食材を使ったもので、秘かに将軍弁当と言われていた。

 確かに上等な食材を使ったので美味しかったに違いない。

いや寧ろ弁当の方が味が良かったのである。それについては松次郎も認めていた。

いや其ればかりか、弁当を試食した台所頭の一人も、上様や御台様の召しあがる物より美味と称したのである。

 これは奥や表に使う調味料には制約があった為で仕方のないことであった。

調理を終えて、御廣敷番頭と御御用達の二人の毒見が済むと、玄関奥にある御錠口まで運んでそこからの台所で温め直した後、大奥お年寄りによる毒見と言うより味見が行われたのである。

 御台様と言えば将軍の正室であり、宮家か摂家から嫁いで来たので、料理の味付けも当然京風とは違うので神経を使ったようだ。


 玄関先で野村甚吾郎の声がしたので急いで行くと、

「収まりました」

 顔や体に僅かだが滲んでる汗を拭きながら、満足そうに笑っていた。

「見て良いかね」

「えぇどうぞご覧になって下さい」

 小屋の入り口近くには、仁吉に翔太と豊治が地べたに座り込んで居た。

甚吾郎について小屋に入り穴蔵への階段を下りた。

「涼しいね」

「そうでしょう。穴蔵ということもありましょうが、氷の所為でもありますよ」

「結構広いな」

「疋田様と供用されるとのことでしたから、二段にしましたが、下段でも取り易くしておきましたので、お好きな方をお選び下さい。それと氷を割る為の鏨と金槌もここに置いときますのでお使い下さい」

「何から何まで済まない」

「何を言われます。あっそれと上に在る雪の投入口から落とした雪は、これら保管庫の後方と両脇に積み上がって、氷の解氷を防ぎますので小屋や穴蔵の入り口は開けっ放しにしないよう気を付けて下さい」

 保冷庫は二段に分かれていて、其々に引き戸が付けられていた。

上下段の棚には、布に包まれて三貫目位ずつ雪氷が入れられていた。

布に包まれた透明の氷の周りには砕いた雪の塊が笹の葉に包まれるように被せてあった。「食べる為の雪氷はきれいな布で包んで、その周りに解けないように雪を詰めて下されば良いです」

 氷は四月ぐらいにはお届けしますので、雪が降ったなら塵や泥を付けないように採取して、上の穴から投入して下さい」

 作業が一段落したとみて母のふきが切り羊羹と冷えたお茶を持って来て手木足軽らに丁寧に礼を述べた。

「この様な物を造作して頂けるなんて夢のようだわ。実に有難いことです」

「母上様どうかお顔をお上げ下さい。私らは普段甘利様にお世話になって居ります故、ほんのお返しをさせて頂いただけで御座いますよ」

 四人は一休みすると、本郷の上屋敷で作業があるからと帰って行った。


 その晩に松次郎が顔を出した。

「よっ松次郎、お勤めご苦労さん。今日野村の甚さん達が氷を持って来てくれたのよ。氷を入れたら穴蔵の中は尚涼しくなってさ、良いもの造って貰ったよ。上下二段の氷棚の内うちは上を使わせて貰ったよ。肉魚の保管には持って来いだな」

「良かった。ところで兄者、沙紀という御右筆の奥女中をご存じですかな」

「聞いたことがあるような名だが…それがどうした?」

「献上氷が届いたので、御進物取次頭の横田兵馬様と一緒に奥の分を届けに行った際、御錠口で会った奥女中なんだけど、その沙紀というお女中が言うことには、毎年届けて頂いている氷は殆ど御台様の為に使われることがないと言うんだ」

「だろうなー。それは何となく感じてはいたが、そうかやっぱりな…」

 敬四郎はそう言って北叟笑む。

「何だよ兄者理由を知ってるの?」

 松次郎とて氷を貴重な物と捉えていたので奥で徴用しない理由が解らなかったが、敬四郎はそうなることを察していたようだ。

 二人の談義を隣りの部屋で聞いて居たのだろうか、彦一が襖を開けて顔を出すと一升徳利と御猪口を持って入って来た。

「松次郎よ、お前たちが言葉を交わすことの出来る御末らと違って、長局の中で上臈や御年寄、御客会釈に中臈等は一の側の個室に一生奉公として住み、中年寄や小姓、御錠口に祐筆、表使い等は二の側、三の側(各二十部屋)に住んで居る。

この方々は御目見え以上だが、その中でも御年寄について『奥女中法度』に、この者の言付は何事によらず背くべからずとある。

この御年寄や中臈がお前達の調理したものを味見するように、御台様に係わる物についての検査は非常に厳しいのよ。例の氷のことだが、氷と言っても雪の塊だ。謂わば天から降って来る物だけに不純物が混ざっていると言うのだろう。それを高貴な方のお口に入れる等汚らわしくて、畏れ多いとなる」

 敬四郎はうんうんと頷いているが松次郎は得心が行かないらしく、

「親父様、氷は砕いて食べなければ問題ないでしょう」

 松次郎の問いに苦笑する彦一であった。

「お前はどうも直線的な思考なんだな。いいか、お年寄や中臈というお女中衆は大名や旗本の娘が多いんだな。謂わば上流育ちで上品に育った方々なんだ。

我らは食材が痛まぬように工夫するが、お偉方はそのような心配はしない。物を観て良否の判断をするのみだ」

 彦一はそう言うと一旦奥に引っ込んでお椀を持って戻って来ると、それに大徳利で酒を注いだ。

敬四郎はそれを笑いながら見ていたが、

「松次郎は食材の保存のみに使えば良いと考えているようだが、お女中のお偉いさん方は違うんだ。下の者達の中には雪氷の活用を考えてる者も居るようだが上が使わせない」

「それじゃあの氷はどうなっちゃうのかな」

 松次郎は御右筆に渡した氷の行方が気になった。

「それはよ御台様や重役の方々には使われないかも知れないが、多分御目見え以下の三の間や火の番とかお使い番、或いは御末や御半下等の下級女中らが自分たちが使う台所で上手く利用してるに違いない。あの娘らはそれなりに苦労しているから、捨て置くことなどしまい」

 彦一らの時にも気位の高いお女中が沢山居たので、似たような経験をしていたのである。

「父上鮪という魚を食べたことはありますか?」

 敬四郎が突然そのようなことを言いだしたので

「いやないよ。鮪は下魚として町人とて食べないし、況してや御膳所で扱うことは先ずあるまい。まさかお前弁当に付けようという心算ではあるまいな」

「いけませぬか」

「それはならぬ。それはやり過ぎだ。屹度咎められることになろう。それでなくとも食材の流用は問題になりかねないのだぞ」

「兄者私も反対です」

 松次郎は元々食材の流用を快く思ってはいなかったのだ。

 敬四郎は将軍弁当の得意先が増えて来たことで如何やら調子に乗って、やや暴走気味になりつつあったが、当人からすれば如何に美味しい食べ物を提供できるか、更なる食材はないものか等の探求の結果、市場に出回っているものの中から見直して料理の仕方や薬味味付の工夫を試みての結果、人々の評価を得たいと思ったのである。

だがそれはひとつ間違えれば罰せられるに違いなかったのだ。

 彦一の諫言で思いとどまった敬四郎の頭の中に、新たな発想が生まれていた。

それは当然の成り行きとも言えそうだが、具現化するにはまだまだ先の事で、その内容については誰にも明かさなかった。


 さてこの日は弁当の菜になる食材の入手がなかったので、敬四郎は朝少しばかりゆっくり出来た。

 当番にしろ非番にしろ、弁当の菜を作るには組屋敷を出るのが大体六つ半(七時)頃なので、七つ半(五時)位から調理しないと間に合わなかったのである。

何れにせよ朝五つ(八時)が交代時間であった。

 因みに当番が上様や御台様が食される朝食の出来上がりは明け六つ(六時)で、毒見がある為、大奥の御台様と中奥の上様の元に食膳が運ばれるのに一時(二時間)ほどかかり、朝食も慌しく召し上ると、半時もしないうちに上様は大奥に向かって御台様と奥女中らの挨拶を受ける惣触の儀式に臨むなど予定が詰まっている為、調理は予定通り終えなければならなかったのだ。

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