『役得人生』

夢乃みつる

第1話 役得

 江戸城を田安門から出ると右側に九段坂、次に中坂、そしてモチの木坂とあるが、その中に旗本屋敷に囲まれるように町人の町飯田町があった。

 その飯田町の真ん中を北に抜ける道を行くと、台所町という江戸城御廣敷膳所台所に勤める旗本や御家人達の住む組屋敷地がある。

 台所方の多くは御家人で禄高は十俵から五十俵で、武士としては端役である。

組頭で百俵程度で、支配頭で二百俵に役料が百、二百俵と付いたが、これら少額所得者らの住まいは長屋であったり、百坪程度の敷地に拝領屋敷とその前側に数軒の貸家が付いていた。


 そこに甘利敬四郎と疋田松次郎という略同年代の若者が居り、其々が親の後を継いで台所人として配置されて居たのである。

 二人とも腕利きの料理人ではあるが性格は全く異なっていた。

疋田松次郎は生真面目な性格というより寧ろ融通の利かない無粋者であったが、甘利敬四郎はその反対で要領の良い狡猾さを備え持った男であった。

 御目見え以下の身分だが、二家共譜代で甘利敬四郎は家禄五十俵で役料も五十俵だが、疋田松次郎は家禄四十俵の役料が五十俵であった。

上下役かみしもやくなので肩衣袴で通いそのまま勤務したのである。

詰席は二人とも焼火之間の譜代席であった。 肩衣着けて調理場に立つ台所人が奇異に思えなくもないが、それが彼らの殿中での身形で作業着でもあったのだ。

だが中には肩衣を外して調理している者も居た。敬四郎が正にその類であった。

 上司がそれを咎めると、

「料理中に肩衣を汚さぬとも限りませぬ。その汚れたものを着て控えの間に入る訳には参りませぬ故ご容赦を…」

「それは下の者に任せてないのか」

「滅相もないこと。お偉い様のお口に供しますれば、任せっぱなしとは参りませぬ」

「あい分かった勝手にせい」

 敬四郎は通勤着でもある新調の肩衣を汚したくなかっただけで、どちらかというと洒落者であった。

 其れに比して松次郎は汚れが付いても気にしなかった。

それどころか皴だらけで薄汚れた肩衣を着けて澄まし顔なので、これもどちらかと言えば上司に疎まれる口であった。



 この二人、組が違うので非番が合うと一緒に出掛けることが多かった。

二人とも薄給ではあったが独り身なので、こうしてしょっちゅう遊んでいるように見えるのだが、その実は市場を覗き込んでは季節の食材の研究に余念がなかったのだ。

 飲み屋や飯屋では庶民の食材の扱い方を調べ、調理の方法を学んで居たのである。

特に松次郎は熱心で、食材の無駄のない扱い方を見ていたのだが、敬四郎はというと別の観点からそれらを見ていたのである。

「松次郎よ、町屋の食べ物が豪く美味いがどうしてだか分るかい」

「鮮度が良いのと、調理して直ぐということじゃない」

「そうだな。それじゃ飯はどうだ?」

「粗米だけど実に美味い。御城の米の方が上等なのに町屋の方が美味いよ」

「どうしてだと思う」

それは兄者、煮炊きの違いじゃないの」

「流石だ松次郎。お湯の中に米を入れるのと違って水から炊き上げるのとでは、ご飯の旨味や歯ごたえがまるで違うわな」

 敬四郎は胡坐を解いて薄縁の上に足を伸ばすと猪口を口に運ぶ。

「ところで松次郎、お主の家では何を食べている?」

「六分搗きの米と玄米だが…」

「前からか」

「あぁ昔からだよ。兄者のとこは?」

「うちは時々かてめしを食っとるよ」

 敬四郎は悪びれることなくそう言ってカラカラと笑って又酒を飲む。

「何を混ぜてるの?」

「青物とか芋なんかだが」


 かて飯とは雑穀や野菜などを米に入れて量を増やしたもので主に大根や芋類などを混ぜて食べた。

時には筍や栗といった混ぜ飯にしたり、小豆飯等を食べた。

 農民はともかくとして江戸市中に於いては、商家を始め庶民の間では一日三食白米を食べるようになっていたので、下級武士とはいえ芋や菜っ葉などを混ぜた飯を好んで食べるなどは傍からみれば変わっていると思われたものだ。



 日本橋は伊勢町に米の河岸があり、六分七分搗きの精米をその米屋から買って、一汁一菜の白米偏重の食事をしていた。

 松次郎や敬四郎らは下っ端とは言え武家である。支給される米は必要な分だけ食料として残し、後は現金に換えられたのだから、玄米のままや態々かて飯を食べることは無かったのだが、それには理由があった。

 二家共代々台所人を勤める家柄であった為食材の持つ栄養素を自然に学んで、経験の中から調理料理の仕方を修得して行ったのである。

 御飯の炊き方もそうだが、上様や御台様が召し上がる御米は、白ければ白いほど良いとされたものだから、御春屋おつきや(一橋御門横、竹橋御門と平川御門の前に在った)での精米で研ぎに研いで栄養分を落としてしまったものであったので、上等なお米であっても、栄養分が削がれた上冷めては決して美味しく無かったに違いない。

 だが食材は上物じょうものを仕入れて居たのだから、調理後速やかに配膳されて居れば美味しく頂けた筈である。

 

 それらは毎食御廣敷にある台所で調理して、十人分用意した。

出来上がると御台所頭(御家人二百俵)が御廣敷番頭おひろしきばんとう(旗本二百石)に知らせて、御用達(旗本二百石)と共に一食分を毒味する。

そして何事も無ければ、残りの九人分を舟という台に載せて伊賀者詰所の対面にある御錠口に運んで詰所の奥女中に渡したのである。その料理を奥の御膳所で炭火で温め直した後、中年寄ちゅうとしより(奥女中)が一膳毒見をして後、御次らが長局の庭に面した長い廊下を伝って行き、御台様の居る御殿の御休息之間に漸く運び入れたのである。

 上様は御台様とは殆ど別に食事を取る為、此処から更に奥女中らが中奥の将軍の部屋に残り全てを運び入れ、二人の小姓が一膳分を毒見をしてから、漸く上様が食されたのである。

 残り五食分は隣りの部屋に置いて焼き魚を差し替えたり、御飯は御代りに供されたのである。

 調理されてから上様が食されるまで優に一時いっとき(二時間)かかったので、途中で温め直したが冷めた状態で食べなければならなかった。

 冷や飯とも言える食膳だが、朝昼食は一の膳、二の膳が付き、夕食は一の膳だけだが品数は多かった。

 その朝食だが、一の膳に御飯と汁物、向こう付が刺身や酢の物などで、二の膳にきすご(鱚)等の焼き魚とお吸い物が付いた。

昼は二の膳に鯛やヒラメなどが付き、夕食は鳥料理等が付いた。

その内容たるや意外と質素であった。



 ホッと一息付く間もなく、表台所人の手伝いの為、中奥にある御膳所に入る。

それは本丸に勤務する番方や役方の一部の為に食事を用意するのだが、寝番の明けに朝食として弁当を出したのである。

 役人の殿中での食事は、弁当持参か飯だけ持参して、おかずは官給の物を食べた。

それら番衆は各詰所や部屋で食べたのだが、台所に取りに来る者もあれば羽織袴も付けない白衣という小袖姿の小者らが各部屋に届けたりするのもあった。

 中にはそれらとは中身の違う如何にも豪華な食材を使った弁当を届けている者も居たのである。

それこそが台所役人らの小遣い稼ぎで、将軍と同じ食材を使った役得弁当であった。



 役得弁当で小遣い稼ぎとはどういうことかお解りだろうか…。

将軍や御台様の調理に当たる料理人たちが食材を多めに用意させ、使えない物として塵扱いしたり、鰹節のようなものはちょっと使っただけで除けて、その他の食材同様家に持って帰って家で使ったり、弁当の菜を作って役方や番方に売ったのである。

 食材の流用というと乾物ばかりでなく、魚などのように生ものもあった筈で、冬の寒い時期ならともかく、夏や暑い日の保管には工夫が要った。

 それに通常は三番勤めだから三日のうち丸一日勤めて翌日の朝五つ(八時)には交代して下城したのである。

この勤めを終えて帰る時に食材を持ち帰り、その日と翌日が休みであった。

魚や青物は腐ったり萎れてしまうので、休日と初日の朝早くに調理して、出番の者に頼んで届けて貰ったり、出仕時に持参したのである。

 同僚に頼む場合は勿論手数料を渡したので、相手にとっても小遣い銭稼ぎにはなった。

自分が休みの時には他の者が食材を持ち帰って呉れたので、略毎日朝早く調理したものだ。

 疋田松次郎はそのようなことは決してしなかったので、お得意とも言える利用者からは熱望されたが、何事に於いても融通の利かない男であったので、頑として受けなかった。 甘利敬四郎の所属する斎藤新之亟の組と、疋田松次郎が所属する田邊久太夫の組に進藤孝左衛門の組とで交代で三番勤めをした。

 どの組の者も食材の持ち帰りはしたが、弁当にして持ち込んだのは敬四郎の組だけであった。それとて寒い季節のみで温かくなってくると数も減り、軈て休業した。



 五月の或る暑い日のこと。

斎藤組で林茂吉という料理人が急病で休みとなった為、甘利敬四郎の頼みもあって松次郎は非番を返上して急遽出仕した。

千代田城に向かう途中で敬四郎が松次郎に可笑しなことを言うのだった。

「松次郎は欲がないのか馬鹿正直なのか分らぬが、お前ほどの腕を持ちながら生かさぬという手は無いぞ」

 松次郎は初め何を言ってるのか分からなかった。

「弁当は常連が待って居るから良い稼ぎになるのに何故やらぬのだ?」

「何故って、食材の流用は好くないよ。然もこう暑くなってきたら食材が腐ったりするじゃない。人の腹に入るものだから食あたりしたらどうするつもり」

 松次郎はこのように真面目故、いい加減な行動は慎んで居た。

「相変わらずだな。まあお主の言うことは真面だが、それでも人は幾らでも美味い物を欲しがるものさ。幸い上役の方々も見て見ぬふりで咎めもしない」

「事故が起こったらそうはいかないよ」

「そこでだ松次郎、妙案を考えたので明日にでも話そう」

 そんな話をしている間に雉子橋御門から梅林門を抜けて大奥横の敷地を通って御廣敷門から入った。

これが大体六つ半(七時)ぐらいである。


 組頭の斎藤新之亟に挨拶してから中に入ると、既に部屋の中央にある大きな俎板の前で四、五人が、それぞれ担当する食材を調理していた。

これらは寝番の番方用の朝食で殆ど出来上がっていた。

 非番の筈の松次郎の姿を見つけると、近所の役宅に住む先輩が手を動かしながら声を掛けてきた。

「疋田まで副業を始めたか」

「滅相もないこと。方々のように器用ではありませぬ。本日は林殿の代わりに出仕したのです」

 男は苦笑いを浮かべて作業を続けた。

その他に十数人の調理補助が居て忙しく立ち振る舞っていた。


 引継ぎが終わるとこの日の当番の甘利敬四郎と疋田松次郎らは早速昼食の準備に入った。


 一の膳は御飯に汁物、鰹の刺身に酢の物と二の膳は鯛の尾頭付きであった。

果物はミカンを付けたが、殆ど食さず、そのまま戻って来ることが多かった。

 賄い方がその日の献立に合わせた器を台上に用意して、盛り付けを待つばかりの状態になっていた。

 その盛り付けが終わると、御台所頭が手の者に御廣敷番頭と御用達を呼びに行かせ、その二人が一膳を分けて毒見をした。

毎日毎回のことながら料理人たちはこの一瞬に緊張したものだ。

 食べ終えて暫く様子を見て何事も無ければ、番頭が台所頭に「よし」と伝える。

こうして九食分を御廣敷御台所から御錠口へと運んだのである。



 其々の御休息の間から下げられて来た食膳の残飯を処理するのだが、将軍の元から下がって来た食膳は殆ど箸が付けられて居ないので、その他表向き食材と合わせて台所人たちの腹の中に納めて片付いたのである。

 後片付けを補佐達がしてる間に焼火之間で休憩を取った。

「さっきの話だが」

 敬四郎は番茶を啜りながら、隣りで寛いで居る松次郎に小声で話しかける。

「真夏でも食材を痛まないようにすればいいのさ」

 少し離れた所に組頭が横になって居たが気にも留めず語り始めた。

「来月の朔日は何の日か分かるか」

 と敬四郎が訊くが、

「兄者の生まれた日?」と珍しく茶化す。

「莫迦なことをー知らぬのか」

「聞いたことはあるが良くは知らない」

「毎年六月朔日に加州公(加賀前田)より氷の献上があるんだよ。御進物取次番が荷姿を解いて中身を確認すると、献上品とはせず、荷姿のまま台所に下されたり何処かに分配しているようだが、下々には係われないのでその先のことは分からない」

「氷なの?」

「まあ氷と言うが雪の塊と言った方が正しいのかな」

「解けてしまわない?」

「そのままだったらな。ところが毎年献上される品を無視するわけにはいかなくなって、如何やら保管場所を設けたらしいのだ」

「城内に?」

「そうよ場外では意味がないだろう。何処だと思う?」

「床下ではないよね…」

「床下程度では直ぐ融けてしまうだろう」

「では穴蔵か…」

「いいぞ松次郎、正にその穴蔵よ。それが何処に在るかというと、明暦の大火後に御三家の屋敷が吹上より退去させられて庭苑となったが、その何処かにあるようだ」

「兄者それは確かなの」

「確かだ。六尺の仙五郎から訊き出したのだから間違いない」

 それは本丸の西に広がる庭で吹上門から入るのだが、将軍家一族の保養地で特別の者以外は矢鱈と入れなかった。

「仙五郎は穴蔵と言っただけで中がどうなっているかなど詳しくは知らないというのだ」

 ここで組頭の斎藤新之亟が作業開始を触れたので、

「後で…」と言って敬四郎は立ち上がって作業場に向かった。


 この日夕食の片付けが済むと、敬四郎は松次郎、同僚と共に酒盛りして早々に休んだ。 

翌朝暁七つ(四時)には作業を開始していた。

明け六つ(六時)には出来上がって居なければならなかったからだ。

これが済むと番方の寝番の為の朝食造りの手伝いがあった。

 朝五つ(八時)敬四郎は勤めを終えて帰り支度をした。

と言っても殆どの者は上下を着けたままであったから着替える必要など無かったが、敬四郎は肩衣などは外して作業していたのだ。

それと持ち帰る食材を物色して居たのであった。

松次郎は本来の当番日であったので、そのまま作業に入った。

 敬四郎は、

「では頑張れよ」

 と言って、食材の入った袋を下げて下城して行った。


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