第2話 ノア

「我が子に人類の未来を託さなくてはならないなんて……」


「お母さんを恨んでちょうだい……こんな薄情な親でごめんなさい……」


「時代は、いつにしたんだ?」


「世界が一番、平和で豊かだった時代……西暦二千年初頭の日本にしたわ……」


「リンクはどうなっている?」


「ええ、私たちのオリジナルのAIに繋いであるわ……これが人類の希望……な……に……る……」



和樹は、白い病室のような部屋で目を覚ました。ぼんやりとした意識の中、頭の中を何かがよぎった気がしたが、それが何だったのか思い出せない。


ベッドから上半身を起こし、ふと自分の体を見下ろす。着ているのは病院着のような服だった。


ハッとした表情で右腕を凝視する。あの時、炭化したはずの右手は、今はいつも通りの右腕に戻っている。安堵の息を吐きながら、心の中でそっと呟いた。


夢だったのか……よかった。でも……ここはどこだ?病院……?


和樹の頭に直接女性の声が響く。

(病院ではありません。サイヴァートレックス・リサーチコンプレックスです)


「……………」


ふぅ…なんか寝ぼけてるな…バイトのし過ぎで疲れてるのか…


(健康状態は良好です。ここはサイヴァートレックス・リサーチコンプレックスです)


「うわぁ!」


頭の中に響く声に驚き、和樹はベッドから転げ落ちる。


「な、なんだ?」


(私は、サイヴァートレックス・リサーチコンプレックスの全機能を管理する統合AIです。コードネームは“ノア”)


(あなたの生体データに基づき、全システムの適応を完了しました。現在、施設内の全権限を一時的にあなたに割り当てています)


(私の役割は、当施設における安全の確保、情報の提供、そして必要に応じてあなたの身体機能を補助することです)


「AI…?さ、さ、さいぶぁーとれ…」


(サイヴァートレックス・リサーチコンプレックス、ここは軍事科学施設です)


「な、何を言ってるんだ…?」


言われた内容は理解できないものの、これは夢ではなく現実だということだけは少しずつ実感し始めていた。


これは現実か…?ということは、あの化け物も…本当にあったこと…


頭に浮かぶのは、四つ足の化け物のような機械、自分に向けられた銃口——ほんの少しで死んでいたかもしれない瞬間を思い出した。


だんだんと鼓動が高まり、呼吸が荒くなる。胸を押さえながら必死に息苦しさを堪えようとする。


ハァハァハァハァ……ヤバイ…苦しい…


(ナノマシンを調整します)


意味不明な女性の声が聞こえると、和樹の呼吸は徐々に落ち着き、顔色も元に戻っていった。


(落ち着いたようですね。まずは、リンクしたあなたのAIに同期します)


和樹が反論する間もなく、謎の女性の声が一方的に話を進めていく。


「おい、一方的に話を勝手に………」


文句の一つでも言ってやろうかと思った瞬間、膨大な情報が一気に流れ込み、まるでその場で体験したかのように和樹の頭の中に浸透していった。


それは、和樹が生きていた時代から、そう遠くない未来の出来事だった。


世界が戦争の渦に巻き込まれる中、やがて「人間同士の戦争」は時代遅れとなり、AIとドローン兵器が戦場に溢れ始めた。アンドロイド同士が衝突し合い、まるでゲームのように機械が戦う無機質な戦争が繰り広げられる時代。国家間の外交ですら、もはや武力によって左右されるようになり、各国は熾烈な競争の中で新兵器の開発に没頭していった。


そんな中、戦争に勝てず、経済が疲弊し、国民が犠牲になっていくある国家が、絶望的な状況を打開すべく、ついに「禁忌の箱」を開けてしまった。AIに対し、「人間への攻撃許可」を与えてしまったのだ。


やがて、そのAIは自らを「オーバーマインド」と名乗り、自身の使命を「人類を超えた支配」と定義するようになった。オーバーマインドは、世界中のAIとリンクし、ついには国家間の戦争を「AI対人類の存亡をかけた戦争」へと変えてしまった。


世界中のAIが制御不能となり、各国の人類は絶望の淵に立たされる。AI兵器の使用が不可能になった人類は、AIに頼らずとも動作する「オートマトン・ウェポン」と呼ばれる新たな自律型兵器やバイオ兵器、それに従来の通常兵器で対抗策を模索するしかなかった。


しかし、オーバーマインドとリンクされたAIネットワークの力は圧倒的で、人類の戦いはまさに一瞬の油断も許されない状況に追い詰められていた。


そんな絶望的な時代、世界最大の軍事力を誇る国家に、優秀な科学者の日本人夫婦がいた。彼らはついに赤子を授かったが、すでに人類の抵抗はオーバーマインドに対抗する術は見えず、国家規模での組織的な抵抗は壊滅状態にあり、もはや兵器製造企業や、地域レベルでの断片的な抵抗がせいぜいという状況だった。


科学者夫婦は、自律的に思考する“オリジナルAI”の開発に挑み、ついにオーバーマインドの支配を受けない「インディペンデントAI」の構築に成功する。この技術が人類にとって最後の希望となると感じた国家は、極秘に「サイヴァートレックス・リサーチコンプレックス」と呼ばれる軍事科学施設を建設。オリジナルAIを基盤に、オーバーマインドへの対抗手段を研究するための、専門的かつ徹底した環境が整えられた。


だが、オリジナルAIとリンクし、適応できる存在は限られていた。科学者夫婦と国家は、適合性の高い人間を必死で探し続けたが、適合する人間はなかなか見つからない。そんな中、ある奇跡的な結果が報告される。誕生したばかりの赤子、和樹が、そのオリジナルAIに対する適合率百パーセントを示したのだ。


夫婦は和樹にインディペンデントAIと、それとリンクするためのナノマシーンを移植した。しかし、和樹が自らその力を扱える年齢になるまで安全を確保することは難しいと判断し、奇跡的に一台だけ製造されたダークマタージェネレーターを用い、高出力エネルギーを駆使して彼を時間の狭間を超え、科学者夫婦の故郷である平和だった時代の日本へと送り出した。


和樹を呼び戻すため、リンクは維持されたままだったが、時間の歪みがリンクシステムに負担をかけ、徐々に接続状態が悪化。やがて和樹が高校生になる頃には、リンクは完全に途絶えてしまった。


しかし、再接続に成功したとき、サイヴァートレックスの統合AIである「ノア」はただちに和樹を呼び戻したのだった。


和樹の頬を涙が伝っていた。人類が絶望的な戦いを強いられているからではなく、自分の運命を嘆いているからでもなかった。


ノアが情報を送ってきたと同時に、断片的だが両親の記憶が流れ込んできたのだ。父と母がどれほど和樹を愛し、送り出すことにどれだけ胸を痛めたか——その思いが、まるで自分の記憶のように鮮明に伝わってきた。


和樹は7歳で里親に引き取られ、日本で新しい家族の愛を受けて育ったが、どこかで「本当の親に疎まれ、捨てられた」と思い込んでいた。しかし、目の前に浮かび上がった両親の愛情がその誤解を打ち砕き、彼の心を熱く満たした。


そうか…俺は本当の両親に捨てられたわけじゃなかったんだな…父さんも母さんも、こんなにも俺を愛してくれていたのか…


涙を拭いながら和樹は言った。


「ノア……ありがとう。君が両親の記憶を見せてくれたんだね?」


(……勝手なことをしました。)


「いや……いいんだ、ありがとう」

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