嫌になった

 俺は去年仕事を辞めた。嫌なことがあった訳じゃない。人間関係はうまく行っていた。別にやりたいことがあった訳でもないし給料もまあ満足に出ていた。


 ただ、働くことが嫌になったんだ。それだけじゃない。何かをすること、考えること、全部嫌になったんだ。


 今俺は理想的な暮らしをしている。ただ寝ているだけ。飯を食うために嫌々動くだけ。妻には酷く怒られた。俺の代わりに家事も仕事もしてくれた。なんとか外に連れ出そうとしてくれた。


 でも結局俺は変わらなかった。最後には愛想を尽かされて家を出て行った。その時も俺はゴロゴロ寝そべっていた。当然、家にはゴミが溜まるようになり、飯は自分で調達しなければならなくなった。


 さて困ったなと思っていたが、それもすぐに慣れた。なるようになる。生きていくのに最低限のことだけをやればいい、それだけは決めた。


 ある日の昼、窓を開けて寝ていると、向かいのマンションの屋上に人がいるのが見えた。普段人が立ち入るはずはない場所だ。ああ、そうか、もしかして。


 屋上に見えた人間はマンションの淵に立ち、祈るように空を見上げている。どれぐらいそうしていただろうか。少し辺りが賑やかになってきた。そう思っていると、男はふと足を一歩前に踏み出すと、頭から地上に落下していった。その後すぐに、何かがぶつかったような衝撃音が響いてきた。


 ああ、やっぱりそうか。


 可哀想だとか、痛かったかなとか、そういった感情はなかった。ただ、死ぬ勇気があったあの男が少し羨ましくなった。


 ところが、不思議なことが起きた。


 次の日の昼、また同じ男が屋上にいたのだ。あれ、昨日見た男だ、そう思ったけれど感想はそれぐらいだった。


 どうせ見ているだけなのだから何を思っても考えても変わらない、だから対して深く考えなくていい。そう思った。


 案の定、彼はまた同じように飛び降りた。


 次の日も、そのまた次の日も、同じように男は飛び降りた。


 次の日、俺は漸く見に行ってみよう、そう思った。いつもと同じ午後一時半、あのマンションの下で。


 俺は何ヶ月ぶりか服を着替え、靴をはき、家を出た。


 マンションの下には花が手向けられていた。


 ちょうど時間になった。


 頭上を見ると男が落ちてきた。そして、地面に着く前にすっと消えた。


 彼はこうして毎日、同じことを繰り返しているのだろう。


 ああ、俺も同じだ。ただ諾々と流れる毎日の繰り返しだ。


 俺は踵を返して家に向かった。


 今日は飯でも作るかな。

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