第21話 9月③

昭和おじさんの退職の意向を聞き、私は改めてショックを受けていた。

おじさんが私のことを「かおりチャン」と呼ばなくなったこともショックだったが、退職することで今おこなわれている不正義を容認しようとしていることについてはショックを通り過ぎて怒りすら覚えていた。

おじさんは辞めるからいいのかもしれない。だけれども残る私たちはどうすればいいのか? そんな疑問をおじさんにぶつけたかった。

その一方でおじさんの意思を尊重して、残りの会社生活はおじさんの好きにさせるべきではという思いもあった。

私はそんな相反する気持ちを解消できないまま、遂におじさんの最終出社日を迎えた。


お昼過ぎ、品質保証部のメンバーに召集がかかった。手の空いている者はフロアの一角にあるフリースペースに来るようにとのことだ。これから昭和おじさんの最後の挨拶が始まるのだ。

部の六割くらいのメンバーが集まったところで会は始まった。最初は岡田課長の挨拶だ。

「まことに急な話ではあるのですが、品質保証課ソフトウェア係の面道さんが今月末で退職されることとなりました。

 今日が最終出社日となります。

 大変残念ではあるのですが本人の希望ということもあり、それを尊重させていただくことになりました」

丁寧な言葉遣いだ。岡田課長はさぞ邪魔者が消えて嬉しいだろうと思っていたが、予想外にしんみりとした顔をしている。続いておじさんが挨拶を始める。

「みなさん、こんにちは。

 面道です。

 早いもので入社してから25年以上経ちました。

 これまで......」

当たり障りのない言葉が続く。最後くらい、辞めるのなら全部ぶちまけてしまえばいいのに。そんなことを思う。すると不意に私の名前が出た。


「心残りといえばチューターを担当している咲山さんに私の持つスキルすべてを教え込めなかったことくらいでしょうか?

 とはいえ、私の持つスキルの三割三分三厘くらいは習得できているので、なにかあれば今後は彼女を頼っていただければいいと、そんな風に考えています」

一部の部員から笑い声が聞こえる。

......なんだよ。三割三分三厘なんてえらく低いじゃないか。そんなに低い評価なら、残って最後まで面倒見てくれればいいのに。そう思っておじさんをにらもうとする。

けれど、けれど、もう眼に涙の薄膜うすまくがかかっておじさんの姿がよく見えない。私はこの場にいることが耐えられなくなり、トイレに駆け込んだ。


ふたの閉まった便座に腰かける。私は声を押し殺して泣いた。ハンカチを目と鼻と口に押し当てて。自分の心細さ、くやしさ、おじさんのやるせなさ、諦め、いろいろな感情を一手に引き受け、声を押し殺して泣いた。

今日はこんなつもりじゃなかった。おじさんの最終日なのだから、今日くらいは笑顔で送り出そうと思って家を出たのに。でも、おじさんが私の名前を出したところから耐えきれなくなった。


泣きながらいろいろなことを思った。

私の今までの選択は正しかったのだろうか?

おじさんが会社に残り続けられるルートはなかったのか?

おじさんを拒絶する会社とは何なのか?

私がこの会社にいる意味は?


どれも答えは出なかった。それでも今朝最初に思ったこと、おじさんを笑顔で送り出すという目的に立ち戻り、のっそりと立ち上がって自分の席に戻った。


午後5時半目前、そろそろ業務時間が終わる。業務時間の終了とともにおじさんはこの職場を去る。

私はおじさんに声をかけた。

「面道さん、正面玄関まで送ります」

お、そうかと言っておじさんは応じる。

私はしんちゃんと家永君にも一緒に見送ろうと声をかけた。だが、家永君は一瞬腰を浮かせたもののまた腰を下ろす。すみません、忙しいので、みたいな言い訳をする。気持ちはわからないでもない。今日でいなくなるおじさんの歓心を買うために岡田課長ににらまれたくないのだろう。

仕方がないのでしんちゃんと私の二人でおじさんの最後のお見送りをすることにした。


「咲山さん、さっきはイジってすまなかったな」

エレベーターの中で昭和おじさんが私に話しかけてくる。

「......いえ」

わたしはぶっきらぼうに目も合わせず返事をする。どうやら、おじさんは私がおじさんの挨拶の途中でいなくなったのを自分がイジったからだと勘違いしているようだった。


最後くらい笑顔で、とは思っているのだが顔を見るとその瞬間に泣いてしまいそうだ。会社に25年以上も勤めたのに最後はなんと寂しい終わり方だろう。先日の騒動による懲戒処分のせいか記念品や花束の贈呈すらなく、最後の付き添いは若手2人だけだ。


十数秒無言の時が流れて、エレベーターは正面玄関のある1階エレベーターホールに到着する。エレベーターホールから社外、セキュリティーゲートまでは目と鼻の先だ。と、セキュリティーゲートの外に10名ほど知った顔がいるのが目に入った。飲み会でもあるのかな? なんて思いながらゲートをくぐるとその中の一人、ソフトウェア設計課長の諸星さんが声をかけてきた。


「面道さん、辞めるって本当ですか?

 連絡もなしにひどいじゃないですか!」

ハードウェア設計課長の高田さんが後を継ぐ。

「面道さん、辞めるなんて冗談ですよね?

 今からでもひっくり返せないですか?」

「辞められたら困ります。

 これから誰に相談すればいいんですか」

とこれはソフト設計課の伊藤さん。他にも何人もの人が口々に辞めないでくれとの大合唱だ。私は勝手気ままに自分の言いたいことを言う彼らを見て怒りが込み上げてきた。


おじさんのジャケットの袖口そでぐちをつかむ。おじさんは驚いてこちらを振り向いた、のだろう。だが、私からは見えない。私は地面を見つめている。怒りと高ぶる感情をうまく制御できないまま私は言う。

「......てなこと......でください」

え? おじさんが聞き返す。

「勝手なこと......言わないでください」

みなが静まり返る。私は感情にあらがおうとゆっくり口に出す。

「......しだって......わたしだって......イヤです......おじさんが辞めるの。

 でも......おじさんが決めたことだから......」

いつの間にか滲み出てきた涙を止められなくなっていた。しゃくりながらしゃべっているせいで言葉が続かない。それでもがんばって絞り出す。

「本当は......本当は私が一番おじさんに辞めてほしくないんです。

 でも、でも、ここにいても......またつらい目にあうだろうし」

涙と鼻水で息が続かなくなる。言葉を一度切り呼吸を整えて、再び口を開く。

「だから我慢して......おじさんの決断を受け入れようとしていたんです。

 なのに、なのに......みんな、ずるいです」

おじさんをつかんだ袖口は離さず、もう一方の腕で涙と鼻水をぬぐう。

「今日で最後だから......最後くらい笑顔で......笑顔で送り出そうって思ってたんです......。

 今日は......今日は絶対泣かないつもりだったのに」

そこまで言い切ると、もう感情を抑えきれなくなった。子供のように、赤子のように泣きじゃくる。涙をぬぐっても、上を向いて涙をこぼすまいとしても、すべてが無駄な努力だった。

私自身どうしていいかわからず、おじさんの服をさらに強くつかみ引き寄せた。おじさんのジャケットに涙と鼻水まみれの顔を押しつける。おじさんが困っていることがジャケット越しに伝わる。


「お、おい! とりあえず壁作れ!」

誰かの声がした。きっと、あの好き勝手なことを言っていた連中の一人だろう。私とおじさんは10人ほどの男たちが作った人の壁に囲まれた。私とおじさんからは男たちの背中だけが見える。事情を知らない人たちから見ればさぞ滑稽こっけいな光景だろう。

壁の中で二人きり、こんなシチュエーション、映画なら抱きしめられたりするのにな。でもおじさんじゃ、それはないか。そんな風に思っていたら、おじさんが何度か私の頭をなでてくれた。そのおかげで私は落ち着きを取り戻しつつあった。


「咲山さん、悪かった......」

おじさんが心底申し訳なさそうに言う。だけれども私は許さない。

「それ、やめてください」

「え?」

「今さら『咲山さん』なんて他人行儀たにんぎょうぎな呼び方、やめてください」

ここ二週間くらい、急に呼び方を変えられてショックだった。ここぞとばかりに不満をぶつける。

「あ、ああ。わかった。

 かおりチャン、悪かった」

今日はおじさんが素直だ。こんな風になるのなら泣くのもそんなに悪くないのかもしれない。

「おじさんがいなくなった後、また不正がおこなわれたらどうすればいいですか?」

おじさんは少し間を置いてから言った。

「不正かどうかは物事の一面かもしれないね。

 今回のことも彼からすれば不正じゃないのかもしれない」

おじさんは岡田課長のことを彼という呼び方で弁護した。

「それでも、今回の俺のように我慢ができなくなったのなら、その時は戦えばいい。

 社外に飛び出してもいいし、外の力、例えばここにいるダンやトーマの力を借りてもいい」

本当はおじさんにも社外に出る以外の戦い方をしてほしかったと思いつつ、私は首を縦に振った。


「私、おじさんが辞めるって聞いて、すごく不安になったんです。

 今まで困ったことがあっても必ず最後は何とかしてくれたのに、これからはどうすればいいんだろうって」

おじさんは何度かうなずいた後、言った。

「大丈夫。

 必要なことは全てかおりチャンに教えたから。

 もし行き詰まったら、俺なら何て言うだろう? どうするだろう? って考えてみてよ」

「でも三割しか教えていないって言いました」

私は文句を言う。

「いや、あれは野球に例えているだけだよ。

 三割三分三厘、最高のバッター級に育てたって意味だから」

おじさんは相変わらず意味不明だ。でも、思っていたよりもいい意味だったらしく、ほっとする。

「それでも......それでもどうしようもなかったら、また助けてくれますか?」

私は無理だとわかっていつつ聞いてみる。でも、こんなときのおじさんの答えは決まっている。

「ああ、もちろん。

 必ず助けに行くよ」

それは嘘だろう。そう思いつつ、私は心底安心してしまった。


「ところでかおりチャン、おじさんって誰?

 俺はお兄さんなんだけど」

私が落ち着いたところを見計らって、おじさんがぶっこんできた。そういえば、さっきからおじさんのことをずっと「面道さん」と呼ばず「おじさん」と呼んでいた。面と向かって「おじさん」と言ってしまったのは今日が初めてだ。

私はぷっ! と小さく笑って言った。

「おじさんはおじさんです。

 面道さんはおじさんですよ!」


私とおじさんの会話が一段落したころ、壁を作っている一人、諸星さんが発言した。

「えーと、こういう状況なので、今さら辞めないでほしいとは言えなくなってしまったんですが、一旦ここは面道さんの門出を祝わせてください。

 じゃ、みんなで円陣組みましょう!」

諸星さんの指示に従って円を作る。先ほどの壁と似ているが、今回は私とおじさんも壁の一員だ。向きも円の外ではなく内を向く。

「では、面道さんの今後のご活躍とご発展を祈願しまして......」

そこまで言ってみんなのこぶしを合わせる。

「ファイト! ファイト! ファイトー!」


私はようやく当初の目的、昭和おじさんを笑顔で送り出す、を達成することができた。


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