第20話 9月②

翌日、珍しく昭和おじさんは会社を休んだ。体調不良、ということだ。私は緊急の調査で忙しかった上に岡田課長にあそこまで責められたのだから仕方ない、そう思いつつ嫌な予感を払拭ふっしょくしきれずにいた。


あくる日、おじさんが出社した。私は努めて明るく、岡田課長に責められていたことなど知らないと言ったていで挨拶をした。

「おはようございます! 面道さん」

だが、おじさんの反応は鈍かった。

「......おはよう......咲山さん」

私は朝からショックを受けた。今まで「咲山さん」などと呼ばれたことはなかった。だが、「チャン」付けはセクハラではないか? と疑いをかけられたので呼び方を変えざるを得なかったのだろう。私はそのおじさんの私への呼び方を聞いて一瞬固まってしまった。


今まで通り「かおりチャン」でいいですよ。

どれだけ言おうとしただろう。でも言い出すことができなかった。それを今このタイミングで許してしまえば、おじさんの立場を一層悪くしてしまうことが明白だったからだ。

私は呼び方が変わったことに気付かなかったふりをして返答する。

「面道さん、昨日いきなり休むから大変だったんですよ。今度、埋め合わせしてくださいね」

「......ああ、すまない。わかった」

我ながら白々しい言葉のやりとりだ。


昨日のことに関しては確かに私の貸しなのかもしれないが、いままでの信用貯金の貸し借りからすれば、私が一カ月まるまるおじさんにお昼をごちそうしても足りるかどうか。だけれど、今はこれ以上深入りしたくなかった。恐らく、おじさんも。


それからというもの、私とおじさんの間には高くて冷たい壁ができてしまったようだ。なんにしても一歩引いたやりとりとなってしまっていた。本当はこんな関係を望んではいなかったが、おじさんにコンプライアンス部門から嫌疑をかけられているという現状からすると下手なことはすべきではない、そう思っていた。だけれども数日後、それがどうやら無駄だったことを知った。


9月も中旬を過ぎたころ、あるうわさが私の耳に入った。昭和おじさんがどうやら会社を辞めるらしい、というものだ。私はそのうわさを聞くや否や、おじさんを喫茶コーナーに呼び出した。うわさの真偽を確かめるためだ。

「あの、変なうわさを聞いたんですが」

そう私は切り出す。おじさんは私に缶コーヒーを渡しながら聞き返す。

「うわさって?」

おじさんは何も思い当たることはないと言わんばかりだが、それは嘘だと見破り強い口調で聞く。


「面道さんが会社を辞めるかもっていううわさです! 

 嘘ですよね?」

後半は半ば私の願望だが、それを交えて聞く。すると、

「......うわさは本当だ。

 今月末で辞めることにした」

と観念したようにおじさんが白状する。私は言葉を失いかけたが、自分の気持ちを取り戻しさらに聞く。

「なんで......確かに課長には責められましたけれどよくあることじゃないですか。

 こんなことで辞められたら困ります」

「よくある、か。

 確かにそうかもしれない。

 でもね、この問題、この状態は早く解決しなきゃいけないと思ってる」

おじさんはさとすように言う。


「面道さんが辞めることで解決になるんですか?

 戦えばいいじゃないですか!」

出過ぎた発言とは思いつつも、おじさんをけしかける。

「......もちろん考えたよ。

 自分の全身全霊をかけて岡田さんと対決すれば勝てるかもしれない。

 でもね、無傷では済まないよ。

 俺や岡田さんだけじゃない、課のメンバーもどちらにつくかで傷付くことになる。

 仕事の本業以外のところで」

そこまで言って、おじさんは缶コーヒーをくいっと一口飲む。

「そうなったとき、残るのは傷付いた課員と50過ぎのおじさんだよ。

 俺は、それがやるべきことに思えなかった」


ダメだ。

ダメだ、ダメだ!

こんな不正義を許しては。

私は反論する。

「だからって、面道さんが辞めることはないじゃないですか。

 部署を変わるとか、あるんじゃないですか?」

そういうと、おじさんは頭をかきながら言った。

「ごめんな、咲山さん。

 今から新しい部署で球拾いから始めるとか、そんな歳じゃないんだわ。

 正直今回の件は心底疲れた。

 それに岡田さんは俺とそりが合わないとはいえ、会社が選んだ課長だ。

 そんな人に弓引くのは会社を敵に回すということでもあるからね。

 俺も若いころは散々会社とやりあってきたけれど、今はそういうのは避けたいんだ」


そこまで言うと、話を強制的に打ち切るようにおじさんはコーヒーを持った片手をあげて去っていった。

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