第12話 6月②

あれから何時間か経過したが、私は自分の思考が作り出した渦から相変わらず抜け出せずにいた。朝、自分の査定を見たときに感じた嬉しい気持ちなど微塵みじんも残っていない。昭和おじさんが何か悪いことをしているんではないか? とか実は社長の息子で世を忍ぶ仮の姿としてここにいる? なんて突拍子のないことを考えてはひとつひとつその可能性を消していた。


そんな中、思考の外から声がした。

「......おい、咲山。面談。大丈夫か? 少し顔色悪いぞ」

クマさんだ。

「あ、はい! なんでしょう?」

「なんでしょう、じゃないよ。面談。予定表に入れただろ?」

「あ......はい、今から行きます」

私はあわてて返事をし、パソコンを持って立ち上がる。

「本当に大丈夫か? そこの隅の会議室な」

クマさんはしゃべりながらフロアの中でも一番小さな会議室を指さした。


「では、これから査定の説明を始めます。まず咲山の今回の査定だが平均に対してプラス0.1カ月の査定とさせてもらった。この理由だが......」

クマさんがいろいろと説明をしてくれているが耳に入ってこない。なんだか念仏のように聞こえる。私は置物のようになって念仏が終わるのを待った。


「説明は以上だが、質問はあるか? 別に査定のこと以外でもいいぞ」

クマさんによる念仏が終わりを迎え、ようやくその声が私の耳に届き始めた。

「プラス査定だったのに、そんなにショックだったのか? なあ?」

クマさんが心配そうに私の顔を覗き込む。私は聞こうかどうか迷ったが、ここで聞かないとずっとこの気持ちを引きずってしまうと考え、意を決して口を開いた。

「何を、何を聞いてもいいんですよね?」

「ああ」

クマさんはやっと会話が成立すると思ったのか、少し表情がゆるんだように見えた。


「大変聞きにくいことなんですが、面道さんの査定、なんであんななんですか?」

私がその質問をぶつけるとクマさんは驚愕きょうがくした表情を浮かべた。

「まさか、面道がお前に話したのか?」

私は無言で首をゆっくり横に振る。

「そうか、そうだよな。あいつがそんなことを言いふらすはずがないよな」

クマさんは自分で自分を納得させるように言った。

「たまたま、本当に偶然なんですが見ちゃったんです」

私は言い訳をするように説明する。

「まあ、わかった。それで咲山はどう思っているんだ?」

そうクマさんから聞かれて、私は思考の渦の中で浮かんだ考えをいくつか説明した。

「なるほど。犯罪説、世を忍ぶ仮の姿説、実は基本給がむちゃくちゃ高い説などなどか」

クマさんは私の話を楽しむような感じで説を要約してみせた。

「残念ながら全部外れだ。だが、どうしたものかな? これは面道の個人情報に触れる部分でもあるからな」

クマさんはあごを右手でこすりながら考えているようだったが意を決したように言葉を続けた。

「咲山、ここからの話はオフレコだ。それを前提にここからは俺のひとごとということで聞いてくれ」

私はうなずきながら一つだけ質問した。

「わかりました。でも、オフレコってなんですか?」


クマさんは私の前でわざとらしくずっこけた後、独り言を始めた。オフレコとはオフ・ザ・レコード、つまり記録に残さないという意味だそうだ。この職場は昭和おじさんのせいか、時折ときおり昭和の言葉が当たり前に使われている。


「まず最初の独り言だが、面道の基本給は決して高くない。いや、同年代に比べてかなり低いと言った方が正確だろう。グレードは3だ」

ここまで聞いて、まずびっくりした。この会社の制度ではグレード1から順に数字が大きくなるほど基本給が高くなる。大学を出て入社すると最初はグレード2に位置づけられる。私も現在はグレード2だ。そうして、平均的な昇格だと30歳前後でグレード3、40歳前後でグレード4、その上は課長以上でグレード5となる。

「なぜそうなのかというといくつかの原因がある。それは過去の上司に恵まれなかっただとか、昇格タイミングで大きなミスをしてしまっただとか、内規だとか」

私はうんうんとうなずくが独り言とのことなので口をはさまない。


「上司は相性もあるのでこれはある程度仕方ないだろう。だが、実際問題としてあいつの昇格は同期に比べて遅れた。そして、それを取り戻そうとして無理なハードワークをした」

そういえば出張の時に玉田さんから、おじさんが昔はかなりのハードワーカーだったと聞いた。

「だが、それがすべて裏目に出てしまった。ハードワークをしても上司からは思ったように評価されず、それはあいつの心と体、そしてあいつの家族をもむしばんだ」

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