第11話 6月①

担当プロジェクトの炎上も無事鎮火し梅雨を迎えたころ、私、咲山香さきやまかおりには二つの心配事があった。


一つはなんといってもボーナスだ。会社の主力商品であるヘッドフォンは昨今のテレワーク需要や音楽視聴スタイルの個人化に伴ってここ数年好調を維持しており、今期のボーナスも期待できた。とはいえ係の異動による査定基準の変化や昨今のトラブル対応が上司にとってプラス評価なのかマイナス評価なのか判別がつかず、この点がずっと気がかりだった。


プラス評価だったら自分へのご褒美として以前から狙っていた革製のバッグ、ノートパソコンが入る通勤用のだ、を買おうと思っている。だが、マイナスだったら冬まで我慢してボーナスは堅実に貯金と投資かな、とも考えている。

既に査定は終わっているはずだから今更やきもきしても仕方ないのだが、考えまい考えまいとしても頭に浮かんできてしまうのだった。


もう一つの心配事は人事異動のうわさだった。人事異動といっても自分ではない。自分の所属する品質管理課の課長である熊野さん、通称クマさんの人事異動だ。クマさんは社会人二年目からの上司で最初の上司も別に悪くなかったのだが、どちらか好きな上司を選んでいいと言われればクマさんを選ぶだろう。クマさんは一見豪快なようで繊細さを併せ持っており、また部下のこともよく見ている。クマさんの部下であることはある意味父親の下で保護されている子供のようでもあり非常に安心感があった。

そんなクマさんがいなくなってしまうというのは私にとっても只事ではなかった。うわさはうわさと切って捨ててもよいのだが、火の無いところに煙は立たぬともいうので、もどかしい思いをしていた。


また、仮にうわさが本当だったとしたら次の課長が誰になるのか? という疑問も浮かぶ。年齢的には昭和おじさんか、ハードウェア係リーダーの藤川さんか。そういえば昭和おじさんって会社の組織上はどういう立場なんだろう?


以前聞いた時には遊撃手ゆうげきしゅなんて相変わらずよくわからない返答だったけど。

もし、おじさんが課長になったらどんな課になるのかな? ちょっと想像がつかない。部下を守ってくれる......気はするな。でもしゃべることが時々、いやかなり意味不明だぞ。課定例なんかでしゃべる機会が増えると思うけれど、解読するのに時間がかかるのは困るな。でも楽しいかも......。

そんなことをしょっちゅう考えてしまい、業務が一段落したこともあって仕事になかなか身が入らなかった。


待ちに待ったボーナス支給日がやってきた。会社に着いてパソコンを開くと真っ先に給与明細のwebサイトを開いた。金額を確認する。

......50万円超! やった! プラス査定だ!

どうやら係の異動による査定基準の変化はなく、トラブル対応についてもプラスで評価してもらえたようだ。心配事のひとつが消え、朝から安堵する。なんだか嬉しさが込み上げてきた。そうだ、おじさんはボーナスで何を買うのかな? トラブル対応がプラス査定ならおじさんもきっと平均よりも多くもらっているに違いない。普段の私ならやらないことだが、その朝は気分がよかったこともあり自分からおじさんに近づいていった。


せっかく私から話しかけるのだから、ちょっと驚かせてやれ。そんないたずら心が芽生え、隣の島の席に座るおじさんの背後から忍び寄る。その時、おじさんのパソコンに映る画面が私の目にも飛び込んできた。

あ、給与明細webだ。さすがに盗み見は悪いよね。でも、おじさんなら許されるかな? いつもからかわれているし。躊躇ちゅうちょはあったもののおじさん相手ならという甘えもあり、私は足を止めるべきか瞬時に判断ができなかった。そして見てしまった。

250万円? 一瞬息が止まった。私はおじさんを後ろから驚かす予定を変更し、何も見なかったようにおじさんの後ろを素通りした。そして、そのままトイレに駆け込む。


ふたの閉まった便座に腰かけて私は考える。あれはいったいなんだったのだろう? 今夏のボーナスは組合員平均で2.1カ月の支給のはずだ。おじさんは年齢的に組合員ではないと思うけれどボーナスの支給月数はそんなに変わらないはずだ。そうすると単純計算でおじさんの月給は119万円? いやいや、そんな高給取りではないだろう、おそらく。でも、じゃあ一体あの金額は? 何かの犯罪? いや、犯罪なら給与振り込みなどないはずだ。私は混乱の渦から出られなかった。

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