第8話 5月④

車は上海の外れの工業団地の一角で停まった。音田有限公司おんだゆうげんこうじのビルの前だ。昭和おじさんと私は車を降り、ビルの入口に向かって歩き出す。先頭を歩くおじさんは左足を引きずりながら不自然な歩き方だ。先ほどの鉄拳制裁に対する抗議のつもりなのだろう。私はやれやれと思いながらおじさんに話しかけた。

「ずいぶん歩き辛そうですね? もしよかったら......」

そこまで言うとおじさんはぱあっと顔が明るくなり私の次の言葉を待った。

「右足の方も同じになるよう処置しますか?」

と言いながら右手を持ち上げ拳を握った。するとおじさんは

「大丈夫! 大丈夫、大丈夫!」

と言いながら普通の歩き方に戻った。


ビルの入口をくぐってすぐのセキュリティでおじさんは誰かを呼び出した。中国語と日本語が半々くらいの謎言語だ。とはいえ、私はそれを見ておじさんは中国語がしゃべれるんだったなと先日のキョ課長との会話を思い出した。

一分ほど待つと長身の男性が現れた。年の頃はおじさんと同じくらいだろうか? ただ、おじさんのようにお腹は出ていない。なにかスポーツをやっていたか、今もやっているのだろう。にこやかに日本語で話しかけてきた。

「ようこそ、中国へ! 面道は久しぶりだな」

おじさんも日本語で挨拶を返す。

「ご無沙汰しています、玉田さん。急な訪問ですみません」

どうやら、この玉田さんというイケオジとおじさんは昔からの知り合いのようだ。そして今の受け答えから玉田さんの方が少し年上だろうと自分の中の情報をアップデートした。

「で、今回の出張の目的はなんだ? 新婚旅行か?」

ぶっ! 思わず私は吹き出す。面白いからではない。初対面の相手からいきなりセクハラギャグをぶっこまれたからだ。

「ちょ! そんなわけ......」

と抗議の声を上げたが、その上からおじさんが被せてくる。

「いやいやいや、勘弁してくださいよ。玉田さん。まだ3年目の新人みたいなもんなんで大事に扱ってやってください」

それを聞いて、あれ? なんでか優しい? でも3年目じゃなくて4年目だけどな、なんてことを考えた。


オフィスを玉田さんと昭和おじさんの後について入っていくと、また玉田さんが話しかけてきた。

「昼飯まだでしょ? こっちで用意してるから。食べながら出張の話は聞こう」

そう言いながら私たちを20人はゆうには入れそうな会議室に案内した。会議室には玉田さん、昭和おじさん、私、そして少し遅れてから長身の女性が入ってきた。年の頃は20代後半から30代前半。髪の毛は黒の長髪で色白、端正な顔立ちをしている。美人といってよいだろう。その女性は中国語なまりの日本語で

「ヘッドフォンの評価リーダーを担当していますようです」

と名乗った。

食事は彼女を含めた4人で食べることになった。最初は中国の印象だとか日本の最近の様子だとか中国でどんなアニメが人気があるかという他愛のない話だったが、しばらくして出張目的の話になった。玉田さんに問われて私がさっき車の中でおじさんから聞いた話をそのまま再生しようとしたのだが、おじさんがそれを手で制してここは俺が、と話を始めた。

「出張の目的は遅れているヘッドフォンプロジェクトの挽回です。私と咲山は手弁当、ええとつまり無報酬でみなさんの業務のお手伝いに来たという立場です。テストでも質問でも、その他の困りごと何でも我々に言ってください。全員野球でこの難局を乗り切りましょう!」

全員野球が中国人に通じるのか? と思いつつ、私はおじさんの話が微妙に違っていることに違和感を覚えた。


昼食後、私はにわかに忙しくなった。最初に現場の評価ルームを訪問した時は挨拶が終わると静かなものだったが、一人が質問にくると、質問や要望が止まらなくなった。ピラニアの群れの中に落ちたらきっとこんな感じだろう、なんてことを思いながら次々と対応をしていった。おじさんはというと、時々評価ルームには顔を出すものの玉田さんや他の中国人メンバーと打ち合わせをしているようで、おじさんはおじさんで忙しそうだった。


怒涛の数時間が過ぎ、私はようやく解放された。中国人メンバーは残業前の食事や休憩を取っているようだったが、おじさんと私は初日でホテルにもチェックインしていないということで先に帰らせてもらうことになった。ホテルまでの車の中で私は先ほど感じた違和感を口にした。

「質問いいですか?」

「......ん?」

おじさんは面倒くさそうに返事をする。

「さっきの車の中で聞いた出張目的と会議室で聞いた出張目的が違って聞こえたんですが、同じことをしゃべりました?」

変な質問だなと自分でも思いつつ聞いてみる。すると、

「なんだ、そんなことか。簡単だよ。監視に来た、みたいなことを言いたくないだけ」

私はまたよくわからなくなってしまった。監視に来たのに監視に来たとは言わない? 納得がいってなさそうな私の顔を見ておじさんが続ける。

「中国人だって人間だからね。監視に来たって言えば身構えるし本音が聞き出せなくなる。表面上は仕事の依頼者と請負人の関係だけれど、そこを飛び越えてほしいと思ってるんだよね。かおりチャンには」


なんだろう、この人。

仕事ってそんなことまで考えるの? 悔しいけど少し、いやかなり納得してしまって、私は何も言えなくなってしまった。

静寂がしばらくの間、車内を満たした後、先ほどよりも深刻な顔をしたおじさんが口を開いた。

「たださ、全員野球はまずかったよね。中国で野球って人気ないんでしょ? 全員卓球って言うべきだったかな? かおりチャンはどう思う?」

それを聞いて私は、フンッ!と勢いよく鼻から息を出して窓の方に首を曲げ、ほんの数分前に感動した自分を呪った。

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