第7話 5月③

朝の8時、私は羽田空港にいた。中国の子会社、上海にある音田有限公司を訪問するためだ。

早々とチェックインとセキュリティチェック、出国手続きを済ませてラウンジにいた。航空ラウンジで優雅な朝食とお茶、ここだけ切り取ればインスタに上げてたくさんのいいね! がもらえるだろう。だが、隣のテーブルには昭和おじさんが座っており何を思ったのか朝からビールを飲んでいる。ラウンジは基本的に食事も飲み物も無料だから、ここぞとばかりに食事の載った皿をいくつもテーブルに置いている。


「あの、面道さん、朝からお酒なんて飲んで大丈夫ですか?」

別に心配などしていないが、注意したというアリバイを作っておきたくて聞いてみる。

「ああ、大丈夫、大丈夫。向こうに着くころにはすっかり抜けちゃうから。ロハで食事と酒って最高だね!」

またよくわからない言葉を使いつつ、がはは! と豪快に笑う。

そうするうちにラウンジに放送が流れた。

「JX081便をご利用のお客様、搭乗手続きが始まりました。搭乗ゲートまでお越しください」

その放送を聞いて私は食器を片付けラウンジを離れる準備をする。おじさんを見るとまだ席に座ったままだ。どうするのか見ているとおじさんが視線を上げ、目が合った。

この食事どうしよう? と目を潤ませ無言で訴えかけているようだ。私は何を言おうかと口を開いたが思い直し、食事の載ったトレイを無言で持ち上げ、食器返却棚にぶち込んだ。


空の旅は快適だった。

さすがにおじさんとずっと隣り合ってというのは嫌だなと思っていたが、そこはおじさんも察してくれたようで私たちは離れた席に座った。上海虹橋ホンチャオ空港の入国ゲート手前で落ち合うと、おじさんは飛行機に乗る前よりも足元が怪しくなっていた。


「ちょっと、面道さん大丈夫ですか?」

普段なら放置プレイ一択だが、こと異国の地においては昭和おじさんが水先案内人だ。ホテルと中国オフィスの場所を確認するまでは生きていてもらわないと困る。

「ん? ああ。大丈夫、大丈夫。ほら、気圧が低いと酔いやすいって......」

おじさんが口を開いて言い訳を始めたとき、私はぶどうの匂いに気付いた。こいつ、ワインも飲んでやがる。

「ワインはおいしかったですか? 私、先に行きますね」

私は一人で生きていこうと決意し、速足で入国ゲートに向かった。後ろから不規則な足音が聞こえてくるが振り返ることはしなかった。


「ちょっと、ひどいよ。かおりチャン!」

ターンテーブルで荷物の受け取りを待っていると、昭和おじさんが再び現れた。

「あれ? 入国できたんですね。酔っぱらいはそのまま強制送還かと思ってました」

移動中とはいえ勤務時間中だ。これくらいの毒はむしろ優しいだろう。

「そんなわけないじゃん。ほら、すっかり元気!」

おじさんはそう言うが、私はおじさんの首元に吐瀉物としゃぶつの跳ね返りがあるのを見逃さなかった。おそらくトイレで吐いてきたのだろう。かすかに胃液の臭いもする。

「今年のぶどうはずいぶん酸っぱいんですね」

徹底的に毒を吐く。今日はデトックスデーだ。だが、暗に胃液の酸っぱい臭いがするといった嫌味はおじさんには通じなかったようだ。

「あれ、やっぱりかおりチャンもワイン飲んだの?」

と能天気な回答だったからだ。私はおじさんを冷ややかな目で見ながら

「そんなわけないでしょ!」

と一喝した。


中国は日本と時差があり1時間遅い。つまり、今は日本時間で14時だが中国時間だと13時となる。さすがにこの時間からホテルに移動してゆっくりするわけにもいかず、空港からおじさんと私は車をチャーターして中国オフィスに向かった。

「面道さん、質問いいですか?」

酔いのすっかり醒めた昭和おじさんに私は質問する。

「なに? かおりチャン」

車の後部座席、私から見て右側に座ったおじさんが答える。

「サンプルを増やすという作戦は理解できるんです。さすがに検査機関で使ったものを流用するって考えは私には思いつかなかったですけれど。でも、面道さんと私が中国に来る意味ってありますか? まさか私たちが現地メンバーに交じってテストするわけじゃないですよね?」

私は出張前からずっと抱いていた質問を口にする。

「そうねー。業務手順書とか設計プロセスだけを見ていたら出張のことなんか一つも書いていないし意味がわからないだろうね」

私は黙ってうなずく。

「でもそうだな、コロナの時を思い出してよ。ずっとテレワークだったでしょ? あの時と今を比べて仕事に対する集中度って同じ?」

おじさんが問いかける。

「それは......さすがに人の目があるぶん、今の方が集中しないとって思います」

私は素直に答える。

「そうなんだよね。今の中国メンバーも同じ。彼らは仕事を依頼している俺らがそばにいないからテレワーク気分が通常なの。だから与えられた仕事に対して結果は出すけれども期待を大きく上回ることはない。そんな中、日本から特定プロジェクトのために二人も日本人が来たらどうなる?」

あっ......と思ってしまった。確かに、そんなのがんばるに決まっている。だが、素直に驚くのも悔しい気がして別の言い回しでおじさんの意見を肯定した。

「こういう手を思いつくのって、やっぱり経験なんですかね?」

その私の発言に対しておじさんは言った。

「そ、経験経験。ところで......」

次の言葉を聞こうと私はおじさんの顔を覗き込む。

「かおりチャンは経験あるの?」

トトロに出てくるネコバスのような顔をして聞いてくる。今までネコバスについて好きとか嫌いとかはなかったが、今日から嫌いになりそうだ。


「そうですね。今まで殺人の経験はなかったですけれど、それも今日限りになりそうです」

そう言うと同時に右のこぶしをおじさんのふとももに振り下ろした。

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