1‐2 犬も死体もありえない

 「よっす、古州ふるすくん」

「おはよう大川おおかわ

 ゆるいグレーのスウェットに肩に掛けたヘッドフォン。そして手には紙パックの安いレモンティー。文学科の大川だ。

 俺は適当に挨拶を返して、大川の丸メガネから視線を外す。

 空気がいかにも大学生を謳歌しています。というチャラいところが苦手で会話をなるべくならしたくないし、望むならよっ友以上の関係になりたくない。なれても授業内だけの関係でいたい。

「今日は迷わずこれて偉いじゃん」

 それから大川は「なにしてんの?」と真っ白なWordを覗いて、レモンティーを吸い上げた。透明なストローにレモンティーが登っていく。ストローが長いせいで、なかなか口の中に付かないらしい。何度も息継ぎながら、満足するまで吸い上げていた。

「ん。おはようの握手」と言って、大川は空いている左手をパソコンの上に差し出した。

 俺はその手を深い溜め息を吐き、内心拒絶を示しながらも柔く握り返す。

 右の口角を器用にあげて、目を細め、大川は柔く握った手をまるで握力測定のように力いっぱい握りしめて、大きく腕を振って喜んだ。

「でさ、古州はサークルとか入らないの?」

 さも当たり前のようにこの男は話の流れを作り始める。

 だからこの男が俺は苦手なんだ。距離感が近い。その証拠に俺がわざわざ開けた席にさも当然のように無許可に座っている。

 心理学の教授は変人だが、授業は面白いし、それ自体に文句はない。だが、唯一この男を被っていることだけが不満だ。純粋に距離感がバグっていて面倒くさい。

「何度もいうけど俺はバイト忙しいからやらないよ。この学校レポート課題も多いし。何より大体お前の入ってる天文サークルって飲みサーって噂しか聞かない」

「そっかあ残念だなあ。古州桐子ふるすきりこは硬派で一途だから女子人気高いのに」

「あわよくばおこぼれに預かりたい大川のダシにされるのは勘弁願いたいね。俺、女の人苦手だから前にするとどもっちゃうし」

「ばっかだなあ。そういうところが女性からしてみれば硬派で一途ってなるんだろ」

 胸の前で手を組んで遠くをぽうっとした表情で見つめる。お前の一見、夜遊びしているようで実はロマンチストなところこそギャップ萌えとかでモテるんじゃないのか。よく分からないけど。

 まあ、思ってても絶対にそんなことは口にしないが。

「とにかくそういうことに誘うなら俺以外のやつにしてくれ」

「まあまあまあ、授業で誰にも話しかけられないって寂しいだろ? 俺はお前と仲良くしたいんだよ」

「まあ、なあ」

 となんとも歯切れの悪い相槌を返す。

 完全にこの男を拒絶出来ない俺も俺で悪いと思う。

 理由は簡単で滅多なことで風邪は引かない俺でも風邪を引いてその日の授業が分からないということもあるかもれない。そういうときのために貸しを作っておくのが友人関係を長く続けるコツだと友人がよく言っているからでつまり、大半が仲良くしておいたら損ではない。下心ということだ。

 「なあ、古州に頼みがあるんだけどさ」と大川は神妙な面持ちで切り出した。

「なに?」

「金貸してくんね?」

 これが本題か。

 俺は、本日二度目の溜め息を吐く。それから、何も進んでいないWordファイルを保存せずに閉じて言った。

「俺はどんな友人にも金は貸さないと決めてる。頼むなら他のやつに頼んでくれ。たとえお前が十年来の親友でも無理」

「そっかあ、残念」とカラッと笑う。

 残念という割には落胆とか一縷の望みが潰えたといかそういう風には見えない。というかむしろその頬は緩んできている。

 そして大川は頬杖を付いて、首を傾げるとふんわりと微笑みこう言った。

「でも俺嬉しいよ。古州が親友とか友人とかいう言葉使ってんの。お前も俺以外に友達いるんだなあ。ほんと嬉しいよ」

 普通にそれは失礼だろ。

 というか大川の友達としてちゃっかりカウントされていることの方に驚きを隠せない。

 俺にだって友人とか親友とかこの大学には存在しないかもしれないけどしっかりといる。関係がないから話さないだけで。というかこいつに話したら天文サークルもとい飲みサーのダシにされて知らない友人が増えていそうだからどういう友人かは言うつもりはない。

 「てかさ、さっきから古州のスマホめっちゃ鳴ってんね」

 大川は机に伏せられたまま通知音を断続的に響かせる俺のスマホを指さす。通知が鳴って始めの方はちらちらと確認していたが、内容がろくでもなかったために途中から無視していたのだ。

 指摘されろくでもないからわざと無視しているなんてとても強気なことは言えず、俺はああ、とまるで話し込んでいて今気づきましたという風を装い連投されて一括りされている通知をタップして展開した。

『おーい、どうせこれ見てんだろ』

『おい、仕事入ったよ』

『え? もしかして寝坊? もうすぐ授業始まるよ』

『迎えにいくからいつものとこで』

『(スタンプ)』

『(スタンプ)』

『(スタンプ)』

 はあ、一体なんだこいつは。付き合いたての恋人かよ。

「彼女?」

「まあ、大体似たようなやつ」

「えーじゃあサークル誘うのもしかして迷惑だったか?」

 迷惑だったかと聞かれたらまあ最初の方から迷惑だったが、なにも言わず曖昧に笑ってこの場を誤魔化した。

 「紹介してくれよ」という言葉は聞こえなかった振りをして無視する。

 それから、やけに重い指でこの意味のない連投を繰り返している男に連絡を返すべくLINEを開いて、たった一言こう返した。

『うるさいぞ吾妻屋あずまや

 すぐに既読が付いたが、俺はそれを確認する前にスマホの電源を落として、トートバッグの中に滑り落とした。

 その間隣でずっと肩を揺する大川についてはもうなにも言うまい。

 あえていうなら俺は友達運がすこぶる悪いということだろうか。

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