この恩が貸し付くところ
春日希為
1‐1 犬も死体もありえない
俺が私立
進学のために地元を出ることもなければ親元を離れることもなかった新しいスタートは
「いつまでも地元を憂えてないで高校生気分から脱却すべし」という校長先生からの送りの言葉は見事に裏切る結果となっている。
実際、じゃあ何が変わったのかと聞かれたら、住む場所が変わっただけだろう。
長くお世話になった養護施設を出て、一人暮らしのワンルームへとほとんど身一つで引っ越してきた。
先ほど親元を離れたと言ったがそれは嘘だ。親は俺が中学生に上がるまえに色々あって死んだ。それからずっと施設で暮らしてきたがまあ、なんとも濃い人生だったと思う。
大学から三駅離れた場所に家を借りて通学していることは地元愛が強いだとか憂えているだとかそんな立派な理由ではなく単純にこの辺の家賃が安いからという現実的で捻りのない理由だ。
こちとら、人生で詰めばあとがない背水の陣で生きている。堅実的にもならざるを得ない。
というわけで俺は奨学金を借りて、友人の仕事を手伝ってお金を稼ぎ、日々課題に追われる日々だ。
もちろん高校のことを思い出す暇もないくらい濃くて忙しい大学生活を送っている。
朝起きて、今日が週の真ん中の水曜日であることと一限があったことを思い出すと、俺は
コーヒーを丁寧に淹れて、ゆっくりと朝の支度を始めた。
こういう朝にゆっくりとする時間が愛おしいと思うのは大学生になったから知った。施設の朝はとにかく騒々しい。中学生と高校組全員が同じ時間に起床し、同じ時間に食堂で朝ご飯を食べるため、コーヒー片手に読書や、SNSをぼんやりと見る余裕はなかった。
飲み終わったカップをさっと洗って、逆さにして置く。昨日食べた皿を片付けるのを忘れていて、山のように積み重なっているうえ、今からそれら全部を拭く余裕はない。まあ、帰ってきてからでもいいだろう。
充電を差したままのスマホを引き抜いて、通学用のトートバッグにいれて、定期が中に入っていることを確認してから俺は家を出た。
三駅乗っている間にメールで五限の英語基礎が休講になったことを知った。
帰る前にどこか寄るのもいいかもしれない。駅前に出来た流行りのおにぎり屋さんで今日の晩ごはんを買おう。
午後の予定を立てていると電車は奈津大学前に到着する。
同じ車両に乗っていた奈津大学生がごそっとその車両が消えていく。俺もその一人で降車列に並びながら全員が同じ方向に向かう最後尾を浮足だった足取りで歩いていた。
休講かあ、最高の一日になるな、今日は。
奈津大学待ち合わせの代名詞手のひらのモニュメントを通り過ぎて、全面ガラス張りの新校舎まで一直線に向かう。途中、何人か知り合いに挨拶をして追い抜かして、B棟101教室の前に辿り着く。
ここが今日の心理学の開講教室だ。学校側の理由か教授の理由かは知らないがこの心理学の授業だけ教室が毎度違う。昨日はそもそも新校舎ではなかったし、人数がいるのに小さい部屋にギチギチに詰め込まれて大変だった。
学校側がこの授業だけ故意に変えているとは思いたくない。今後の大学生活を変な大学に入ってしまったと後悔したくないから。俺はどうにかして、教授が変人だからで納得したい。
まあ、今のところ理由の八割くらいは教授の変人で理由が付きそうだが。
この授業で困っているのは、俺の方向音痴だ。わざわざ待ち合わせして教室まで連れ添う人もいないし、最初の方はかなり苦労した。校舎に入るたびに案内板の写真を出して、左右を間違わないように気を使っている。
今日は対して迷わないで辿り着けて良かった。と101教室の重厚な扉の前でひと息つく。
時間も十分前でいい感じだ。これなら、昨日出された課題を進めてしまえる。
重い鉄の扉を前方に体重を掛けながら押して開けて中に入ると既に数人は定位置に座って作業をしていたり、突っ伏して寝ていたり各々自由に時間を潰していた。
この科目、取ってから知ったのだがなぜか人気の授業らしく他の授業とは生徒のやる気と出席率がまるで違っている。今日休講になった英語基礎なんてチャイムと同時に駆け込んでくる生徒が五人ほどいるというのに。
どの授業でも選ぶ定位置である、左の後端っこの席を見ると、既に先客が座って眠り込んでいたので仕方なく、なるべくその席に近い人との距離が空いている席に座ることにした。
この教室に文句をあえて付けるなら、机と椅子の位置が固定されている点だろうな。このタイプの席は椅子が硬くて長時間座っていると尻が痛くなる嫌になる。おまけに机の位置が低いためかなり前傾姿勢になるのも辛い。
新校舎なのだからそういうところに気を使ってほしかった。
今日全ての授業の用意が入っている、A4のトートバッグを机の上に置いて中からパソコンを取り出して置く。その隣にアイパッドを置き、ぐっと背伸びをして課題を進める心の準備を整える。
教科書の類は一切入っていない。ノートもない。授業に必要ではないものは500ミリの水と財布とスマホ、あとはイヤホンくらいでこのワンセットを見ると大学生をしているなあと俺は思う。
ノートも無ければ教科書も持ってこないなんて高校の時ならありえないことだ。
重い教科書も、使うと言われたのに使わなかった便覧もない。自分専用のロッカーに置き勉して、テストのたびに持ち帰るイベントもない。
教科書の全てはアイパッドで購入した電子書籍だ。
高校生の時は最新の機器を揃えて、大学図書館でノイズキャンセリングイヤホンで雑音を消しながら勉強するカッコつけたキラキラ大学生にはなるまいと思っていたのに友人に大学生になるならとか大学生祝だとか言われて環境を整備されてしまったので俺の持っている電子機器はかなりいい奴を使っている。
Wordで文字を打つだけなのになんと勿体ないことだろうか。今からでも返却したい。
ペットボトルの水をガブガブ飲んで、取り敢えずレポートを書くかとマックを開く。頭上がふっと暗くなり、前を見て俺はげんなりした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます