はじめての、えのぐ

梅干しいり豆茶

はじめての、えのぐ

 春も始まったばかりの頃。

 眠い目を擦り仕事へ行く途中、不意に視線を上げると、淡い青さの空が広がっている。

 その空は、あの日の空によく似ていた。



* * *



 誰もいない日。

 誰にも邪魔されない、一人だけの時間。

 一人は少し心細くはあるけれど。今日はどうしてもやりたい事があった。その高揚感の方が強い。


 やっと貰えた自分の部屋。買ってもらったばかりの、まだ大きく感じる椅子へ、登るように座る。机に向かうと少し偉くなったような気分だ。

 そして周囲を見回し、横にある窓から外を眺めた。

 初春の空は淡く、雲の白さが混ざり込んでいるようだった。


 机の上の物を端に寄せ、画用紙とパレットに筆、そして絵の具セットを中央に置く。

 筆洗いは、万が一倒してはと思い、床に置いた。


 徐に、セットの箱から青い絵の具を取り出し、厚めの白い紙に向かう。

 白い紙は表面に細かい凹凸があり、色を吸い込む様を想像させた。


 蓋を回し開けると、絵の具は得も言われぬ不思議な匂いを漂わせ、チューブの先から勝手に盛り上がっていく。


 昨日、初めて買ってもらった、四色入りの絵の具。

 赤、青、黄色、白、しかない。


「もっと多いほうが、いいんじゃないの?」


 母が顔を覗き込み、不安そうに首を傾ける。

 殆どの友人は、沢山の色が入っている絵の具セットを好んで買ってもらっていた。皆は色の多さを競い合っているくらいだった。

 けれども四色入りの絵の具セットに心惹かれてしまい、それ以外は考えられなかった。


 初めての授業。先生から、色の基本は三色で出来ている、と説明された。

 この話を聞いてから、この世界の色を自分で作りたくなった。それが出来なければ、色を使う意味がない気すらしていた。


 ゆっくりとチューブを絞り、プラスチックで出来たパレットに絞り出す。


 光を受けて輝く青は、思っていたよりも明るく、そして淡い色に感じた。

 少し多めに出てしまった絵の具を、水を含めた筆でそっと触れる。

 初めての感触に、胸の鼓動が早まり手先が震えだす。


 水と混ざった絵の具は、むせ返るような、独特の匂いをより激しく周囲に広げていく。

 青みを帯びた筆先が、そっと、白い紙に近付いていく。

 小刻みだった筆の震えが、大きく、そして激しく揺れ動いた。

 反対の手で持ち手を抑え、ゆっくりと、そして確実に、目標の位置へ移動させる。


 じゅわっ。


 音がした気がした。

 青い色が薄っすらと白い紙を染めていく。


「……空、みたいだ……」


 紙の上の淡い青は、窓の外の空とよく似ていた。

 改めて、紙の端を両手で摘み、視線と平行に手を伸ばす。

 たった一度、触れるか触れないかの筆。

 水を含みすぎた、青い色。

 それでも、初めて描いた絵だ。


 紙の上の空に、思わず顔が綻んでいった。



* * *



 何となく、子供の頃のあの日と同じように、強張っていた顔が緩んでいくのを感じる。


 毎日が同じの事を同じように熟すのが当たり前な、虚しい日々だと思っていた。

 だが、同じ日なんてものはない、と改めて教えられたような気がした。


 紙を染めたあの青が、他の色に変わらないように。


 あの日の青い絵の具が心を塗り替えてくれた気がし、いつもより背筋を伸ばし、職場へと向かった。

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