よりみちのウタ、探すたび。

月瀬澪

1.若者のすべて


 アスファルトにかかとを当てる音が、耳をつんざく。まるで深い夜のふちを歩いているような気がする。


 顔を上げると、切り取られた夜の闇を縫うように、ぽつぽつと頼りなく街灯が立ち並ぶ。その隙間で、オオバボダイジュの木が秋の風を誘うように、ハート型の葉っぱを揺らしている。深い紺色の空を流れる雲は早く、肌を撫でていく空気は冷たいけれど、頬は熱く火照っている。


 お酒を飲んだ後の夜の街は、なんだか特別な匂いがする。黄金色のビールや桃色のカシスオレンジ、透き通るほどに真っ白な日本酒の放つ光があちこちの窓から散りばめられて、街の底に香りを残している。わたしの靴の裏と地面との間には、ふわふわとした境界線があるのだ。アルコールが溶けて染み出して、現実の世界と夢の世界の狭間で磁石のように反発しているような気がした。


 今日はいつもと違う日だった。わたしは踵を止めて立ち止まり、今日一日を振り返るようにまつげを伏せる。






「すみません、月瀬さん。このページの公式、どういう意味だったでしょうか」



 午後一、小さな声が聞こえて、わたしはパソコンのモニターから目をそらした。まだ着慣れていないであろう白いブラウスと紺色のパンツスーツを身にまとった女の子が、わたしの横で申し訳なさそうに立っている。腕の中では、さっき渡したたくさんの資料が、今にも落ちそうにあふれていた。


 あっちの席で話そうか。わたしが指を差すと、「すみません」とまた小さく呟く声が聞こえた。



 彼女はまだ大学生三年生。わたしの働く会社に一週間ほど、インターンシップでやって来ている学生だ。わたしが午前中に教えていた物理学の基礎をもう一度教えると、目を泳がせながらも何度も頷いていた。



「今の説明でようやく数式の意味がわかりました。私、大学では四年生になったら環境衛生工学を専攻する予定で、あまり、物理学を学んでいなくて……。社会人って、難しそうなことばかりしているんですね」



 彼女は自信を無くしたように俯いた。なんだか、この世のすべてが終わるかのような顔をしている。大げさだなと苦笑する。



「そんなに気を張らなくていいよ。午後の作業は、あまり小難しいものじゃないから」わたしはオジロワシとイトウという文字だけが書かれた一枚の紙を差し出す。「あなたがとある町で、環境に配慮した仕事を、これからやると想像して。その町には、絶滅危惧種のオジロワシとイトウが生息していることがわかりました。住民にこの生物たちがいかに重要かを説明する資料を作ってみて」



 突然のわたしの提案に、彼女は不安ながらも顔を少しだけ明るくさせた。数字の呪縛から解き放たれたようだった。



「ネットで調べてもいいんですか? 自分の言葉でですか?」



「ネットで調べてもいいし、それをもとに、あなたが自分で考えた言葉で作ってみて。わたしたちの仕事は、小難しい計算ばかりしているわけではない。知識を持たない人たちに、わかりやすい説明をすることも仕事の一つ。だから、扱う技術って、やっぱり言葉なんだよ。簡単に言うと、言葉を説得力に変えて、相手を納得させる仕事だよ。数字は手段に過ぎない」



 わたしの言葉を聞いて、彼女は少しだけほっとしたような顔となる。



「これなら、私でも何とかできそうです。ありがとうございます」



 彼女はわたしが渡したペーパーを受け取ると、パソコンの前に戻り、ぎこちなく作業を始めた。






「お疲れさまでしたー」の声と一緒に、ビールやカクテル、サワー、日本酒など、色とりどりの花が指元から咲くようにグラスの音が重なり合う。



「今日一日で、社会人と言うものの基本を学んだ気がします」



 学生の子がわたしの部の上司たちに囲まれて、ウーロン茶を片手に緊張した面持ちで肩をすくめている。



「どうでした? 月瀬さん。今日一日、インターンシップの教師役になって」



 後輩が意地悪そうにわたしをからかう。「大したことは教えてないよ」と呟き、大きな氷の詰め込まれたハイボールが喉を通り抜け、しゅわしゅわとした炭酸が身体の中をリフレッシュさせる。



「いやいや、大したことですよ。インターンシップで学んだことって、社会人になっても結構覚えているものですからね」



 その言葉にわたしははっとする。わたしも学生の頃にインターンシップへ行ったことを思い出す。二週間だったけれど、ずっと緊張しっぱなしで、この世の終わりを告げられたかのように心臓が鳴り響いていた。確かに、その会社で作業したこともしっかりと覚えていて、社会人として働くこととは何かを学んだような気がする。


 フィールド調査の手伝いだった。胴付きというものを初めて着た日。そんなものは正直、父親が釣りに行く時くらいにしか着ないものだなと思っていたけれど、まさかわたしも着る日が来るとは夢にも思っていなかった。ヤチダモやヨシが生い茂る山奥で、川の中に入り、魚や泥の中の生物を観察する仕事だった。カワシンジュガイと呼ばれる珍しい貝もいた。不思議なもので、あれから数年経った今でも、分厚い長靴を履いていても伝わってくる水の冷たさ、流れる水に逆らう身体の重たい感覚でさえ、鮮明によみがえってくる。



 気が付くと、学生の子がわたしの前へやってきて、ぺこりと頭を可愛らしく下げた。



「あの、月瀬さん。今日は一日、ありがとうございました。私、インターンシップがとても不安でしたが、この分野の仕事にとても興味が持てました。理系の仕事って、自分が学んでいない分野だと、不利なんじゃないかと考えていました。でも、今日、月瀬さんの仕事をやってみて、わたしがこの会社へ就職してもやっていけそうな気がしました。この経験をもとに、これからの就職活動を頑張っていきたいです」



 彼女は若者らしく希望に満ち溢れた眼差しで微笑みを浮かべている。



「イトウってね。魚に鬼って漢字で書く。大きな鹿を食べるほどの大きなイトウが死んじゃって、川をせき止めて湖を作ったっていう伝説もあるくらい、どう猛な魚なんだってさ」



「あ、それ、私もさっき、ネットで調べていたら、同じサイトを見ましたよ。さては月瀬さんもさっき調べましたね」



「……ばれたか」



「自分が知らないことを教えてもらって、それを自分で調べるって、なんだか刺激的ですね。こういうちょっとした刺激が、きっと誰かの目を輝かせることになるんですね」



 屈託ない笑顔で彼女が言葉を紡ぐ。インターンシップの学生と触れ合い、「そうか、わたしも、誰かに教える立場になりつつあるんだなぁ」と月並みな感想を浮かべていた。



 将来のことは誰にもわからない。わたしだって、今はもうインターンシップで学んだことと全然違う仕事をしているけれど、初めての体験と言うものは鮮烈だ。その時の知識で、自分の頭をフル回転して考え抜いて、答えを出して実行する。ただそれだけのことなのに、頭の片隅にいつまでも焼き付けられている。だからこそ、次はもっと思考と行動のアップデートができる。






 夜を切り裂くような車のクラクションの音で我に返った。



 いつの間にか高架橋まで歩いていた。眼下の幹線道路を見下ろすと、加速度を上げた流星のような車が、摩天楼を渡す道路の上を一直線に走り去っていき、夜の煌めきへ紛れていく。まるで夏の終わりの花火のようだった。



 花火は弾けて輝く瞬間が、一番美しい。摩天楼の街は、深夜が美しい。



『何事も一回やってください。次にやる時は二回目になりますから』



 ふと、そんな言葉を思い出した。ネット上で流行っているネタかもしれないけれど、わたしはこの言葉が好きだ。


 わたしだって、今この瞬間が一番若くて、なんだって挑戦できる。止まっていた足を夜の先へ思いきり踏み出した。続けて、新たな二歩目を踏みしめる。



 行き先をいくつも選べることは、この上もなく幸せだ。

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