【アップ】2024年9月29日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】2024年9月29日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zwEC5hJ6vJE


【ブログ】

ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12870252418.html



前奏

招詞 詩編127編1,2節

詩 編 歌 65編 2節

罪の力強し、されど神は

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

スコットランド教会新カテキズム

「人間の堕落」

こどもさんびか

わたしたちのつみのため[旧 38(1節)]

牧 会 祈祷

讃美歌 262番

聖書

使徒言行録20章32〜38節

詩編33編12〜22節

説教

「恵みの言葉にゆだねて

〜御国を受け継ぐ教会の歩み」

宮武輝彦

祈祷

讃美歌 271番下

みことばの交読文

イザヤ書 55章 9〜11節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 544番

祝 祷 《歓迎礼拝準備祈祷》

報 告



讃美歌~♬


十字架のもとぞ~讃美歌262番~

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=KHYE0f99u10


1) 十字架の下(もと)ぞ いと安けき

   神の義と愛の あえるところ

   嵐吹くときの 巌(いわお)の陰(かげ)

   荒野(あれの)の中なる 我が隠れ家


2) 十字架の上に 我は仰ぐ

   我がため悩める 神の御子(みこ)を

   妙(たえ)にも尊(とうと)き 神の愛よ

   底いも知られぬ 人の罪よ


3) 十字架の陰に 我は立ちて

   御顔(みかお)の光を 絶えず求めん

   この世の物みな 消ゆるときも

   奇(くす)しく輝く その光を


「いさおなきわれを」讃美歌271番B

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=fWaNwo2F8KM


1)勲(いさお)なき我を 血をもて贖(あがな)い

  イェス招き給う み許(もと)に我ゆく


2)罪科(つみとが)の汚(けが)れ 洗うに由(よし)なし

  イェス清め給う み許に我ゆく


3)疑いの波も 恐れの嵐も

  イェス鎮め給う み許に我ゆく


4)心の痛手に 悩めるこの身を

  イェス癒(いや)し給う み許に我ゆく


5)頼りゆく者に 救いと命を

  イェス誓い給う み許に我ゆく


6)勲なき我を かくまで憐れみ

  イェス愛し給う み許に我ゆく



2024年9月29日 礼拝説教 中心聖句


この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

使徒言行録20章32節


いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。

詩編33編12節 


はじめに

主イエスの御国は、福音の前進とともに証しされる。今日、その御業を信じたい。

「そして今、神とその[御自身の]恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と、別れの時、使徒パウロは、エフェソの長老たちに、最も近くあるお方は神であり、恵みの言葉を近くに生きるように激励する。「ゆだねる」とは近くに置くこと。さらに、「この言葉は、あなたがたを建て上げ、聖別されたすべての者たちの中で、あなたがたに嗣業を与えることができる」と言う。この「嗣業」とは、キリストにおいて約束された、御国の完成に至る永遠の祝福(エフェソ1章10~12節、2章19~22節)。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が(も)福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる(共に参与する者である)ということ」(エフェソ3章5,6節)。

続けて、「金も銀も衣服も望まなかった」と、使徒パウロは、言う。使徒ペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言い、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と足の不自由な人に命じ、主の恵みの業を見た(使徒3章6節)「あなたがたも知っているとおり、わたしのもろもろの必要(義務)とわたしといっしょにいた人たちのために、(漕ぎ手のように)この手(両手)で働いてきた」と証しする。パウロの働きは、いわば、物心両面にわたって、謙遜に群れと働き人を下支えするもの。

さらに、「万事についてわたしがあなたがたに示してきたことは、あなたがたもこのように働いて弱い(力の無い)者を助けるように」「主イエス御自身が言われた言葉、『受ける(入手する)よりは与える方が幸い(一層祝福されたもの)』を思い出すように、ということ」と伝える。この主イエスの言葉は、福音書に字句どおりの言葉は見当たらないが、主の言葉とその業が証したこと(たとえば、マルコ10章23~25,42~45節、51,52節)。

「このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った」。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まし根気よく(忍耐して)祈り続けなさい」(エフェソ6章18節)。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しいに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(ペトロ一5章9節)。「人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した」「特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った」。わたしたちは、ここに、主の深い憐れみと慰めを共にすることの感情の表出を見る。信仰の生活は、心からなる祈りにとどまらず、それが分かち合われるとき、深い慰めと希望を共にする。

おわりに

「いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し 人の子らをひとりひとり御覧になり 御座を置かれた所から 地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は 彼らの業をことごとく見分けられる」ことを心して覚えつつ、まことの王にして力あるお方、主と御言葉にゆだねつつ、福音を伝え続けたい。今日、主イエスは、わたしたちの内に、主の嗣業を見る備えと希望を与えてくださる。



(Mynote)


二〇二四年九月二九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝できる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「神様に造られたあの満ち足りた状態から人間はどうして堕落したのですか。」

「罪と不従順によってです。」

神様は万物を創られ、それ等を良しとされた。そして人間(アダム)を創り、女のエバをアダムの支えとして創られ、エデンの園でずっと過ごせる様にされた。しかし中央に木の実を置き、その木からは実を取って食べてはならないとアダムとエバに言われた。しかしその約束をアダムとエバは破った。その破る前から二人には堕落の心、即ち罪が具わって居り、神様の教えに背いたのである。人には選択の自由も同時に与えられて居り、どちらかを選ぶ事も出来た。しかしその点でエバが蛇(悪魔)に誘惑され、木の実を取って食べ、その経験をアダムにも話し、アダムにも神様の教えを破る様に仕向けたのである。詰り二人はその誘惑に陥らない選択もありながら、悪の道の方を自ら取った事になる。これが原罪とされる罪の原点に在り、人が初めから罪人である事を人自らが証明した事になる。

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第二〇章三二〜三八節)

『詩篇』(第三三篇一二〜二二節)

この両箇所は、神様と人との在り方・関係を教え、いつどこでも全ての人は神様に見守られる上、生きる為の(生かされる為の)正義を教えられ、信仰に依り正しい道を歩める事を教える。

神様はこの世の万物を創り、その内に人間も居り、自然も人間も全て神様の手の中に生かされ、存在させられる。

神様の国の福音は、パウロや十二弟子を始め、旧約の時代では各預言者達が成して来た様に、今や全世界に宣べ伝えられて居る。

「主(しゅ)をおのが神とする国は幸いである。主がその嗣業として選ばれた民は幸いである。主は天から見下ろされ、全ての人の子らを見、その居られる所から地に住む全ての人を眺められる。主は全て彼らの心を造り、その全ての業に心を留められる。王はその軍勢の多きによって救いを得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助ける事は出来ない。見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、その慈しみを望む者の上にある。これは主が彼らの魂を死から救い、飢饉の時にも生き長らえさせる為である。我らの魂は主を待ち望む。主は我らの助け、我らの盾である。我らは主の聖なる名に信頼するがゆえに、我らの心は主にあって喜ぶ。主よ、我らが待ち望む様に、あなたの慈しみを我らの上に垂れて下さい。」(『詩篇』第三三篇一二〜二二節)

パウロはそのとき周りに集った者達を始め、今や全世界の人々に対し、この旧約聖書に記された主(神様)への言葉・神様の教えを土台とし、教えた。

そこで「イエス様は受けるよりは与える方が、幸いであると教えた」事を改めて確認してそれを皆に伝え、信仰に生かされる上で「弱い者を助ける事の大事」を同時に教えた。

詰りは、神様が人に教えた全ての言葉(御言葉)を生活に於いて、いつでもどの状況でも守る事・聴く事が大事とし、人の主義主観や習慣に寄らず、その信仰が成長させられる事の重要を説いて居る。

金銀や衣服を貪る事は、所謂る異邦人が為す事にあり、俗世に生きようとしてその姿勢だけに頼り、この世に全ての価値を置く者達のする事にある。

ペテロは嘗て、足の不自由な人の所へ行き、イエス様の名に依ってその人に福音を宣べ伝え、その足を癒した。癒されたその人は立って歩き、帰ったのである。この時ペテロは金銀を持って居らず、持って居たのは唯一、イエス様との絆であり、神様からイエス様を通して与えられた聖霊である。この霊的な働きに依りその足の萎えた人は癒され、立って歩ける様になったのである。

人を本当に救うものはこの世のものに無く、神様から与えられる聖霊であり、信仰である。金も人の寿命に勝てず、どんなに高度な医療を以てもその人を助ける事が出来ず、やがてこの世(俗世)を離れるその人を、天に引き上げる救いを与える事も無い。これは人の持ち物にしても同じ事であり、人の生まれた原点・その本性を確認する上、人にとって真の救いが何か?に就いて本気で問い、知らねば成らないのである。

全ての人を救うのは、神様とイエス様と聖霊の働きである。その聖霊の働きは神様から与えられた信仰から成り、この霊的な働きは人の原点、神様から命を吹き込まれたその瞬間、神様から生まれたその真実から成る。

御言葉に仕える・信仰に生かされる事は、全ての人に仕える奉仕の姿勢と心に在り、全ての人がその信仰に生かされる事が当然に在り、この点に不平等があっては成らない。詰り人の間にステータスや内実による高低は無く、それを取り決めるのは人間の罪である。

全ての人は、神様から自分がどれほど大きな恵みを与えられて居るか、その恵みの上で生かされ存在出来て居るか、それこそ一分一秒毎の命とその命に必要なものが与えられて居るかを知らねば成らない。それに気付き、その事を考え続ける事も信仰への門と成ろう。

福音とはグッドニュースに在り、その良い報せとは、神様と人間との恵みの関係に気付かせ、それを心に留めさせ続ける事に在る。十戒で教えられる事を守り続ける心と、イエス様を通して教えられた全ての事を守り、同じく心に留め、自分の生きる為の(生かされる為の)糧とする姿勢の維持が大事となる。その力は祈りに依って与えられ、人の自力では成らず、常に神様に近付こうとする歩の継続から成る。

教会はその人の中に在り、祈りを以て生かされる上では、いつどこでも神様との関係に気付け、そこで礼拝を守る事が出来るのである。

その為にも常に正しい信仰に歩める様に聖書に聴き、神様の教えを守れる様に自分が変えられる事を祈り願い、俗世の誘惑、罪の誘惑、悪魔の誘惑に陥らず、その強さを変わらず求める事が大事に在る。

神様の教えを守る事は、隣人に持つ物を与える事に成る。欲望と罪がそれを邪魔する為、その欲望・罪の淵から救い出される事が大事と成る。この欲望・罪から脱する事は人の力では成らず、神様に依り頼む上、その信仰の力に依り成るものである。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


『思記』~「山上の記(き)」より


少年の時、小学校六年生の時だったか。物凄いカーブを投げたことが一度だけあった。一度か二度。壁当てをして居る時に、どこへ飛んでも良いと思って、カーブのあの指で、思いっきり投げてみたのだ。そしたらぎょっとする程、自分でも本当にびっくりしたぐらい、信じられないほど曲がったのだ。あれがカーブか、と思った。そしてあのカーブを思う様に投げる事が出来たら、詰り自由に投げられたら、これはプロでも通用するんじゃねぇか?と思ったものだ。まぁプロで通用せずとも、高校野球ぐらい迄なら通用するんじゃないかと本気で思った。あのカーブは、本当に、はっきりボールが曲がる軌道が見えた。その曲がり方がえげつなかった。しかもボールは軟球である。軟球か硬球を使ってたかも知れない。しかもコントロールが良く、おそらくストライクゾーンに入って居たと思う。そう記憶して居る。あのカーブを本当に自由に投げる事が出来て居たなら。それだけの練習をして、自分のモノにする事が出来て居たら。これも少し悔やまれるところだ。リトルリーグに入れなかったあの当時、それも加味して思う事である。あの時のボールの軌道を、俺が投げて居たその姿とその結果を、ビデオか何かに残して誰かに見せたかった程である。見て貰いたかった。ビデオを撮って居なかったから、俺の目がビデオなのだ。でもハンディカメラで撮ったとしても、角度で分からなくなるから、記録に残す事は出来なかったかも。余程に良い角度で撮らなければ、あれは分からない?プロ野球中継や高校野球の中継で撮って居るビデオの角度は、余程に良い角度。あの時のあの瞬間は、俺にしか結局わからないものなんだろう。子供の時、こう言う瞬間があると思う。俺の目が記憶して居る。心が記憶して居る。勿体無い程の瞬間がある。小学校当時は、ピッチャーには殆ど興味が無かった。成ろうなんて絶対に思ってなかった。それよりも清原や秋山みたいな、強打者に成りたかったのである。それか石毛の様なトップバッター、一番バッターに成りたかった。だからピッチャーとして自分が壁当てをして居た時に、そのピッチャーへの無関心を打ち破る程の凄まじい強烈な印象と成果と、これならピッチャーで通用するかも知れないと思わせる程の奇跡的な光景を見せてくれたあのボール、それが当時の俺の中の常識を覆すほど凄かったかと言うのが分かると思う。小学校六年生当時のあの瞬間の出来事、思い出。子供の時のロマンでもあり、純粋な記憶に在る。それに「どこへ飛んでも良い」と言うほど思いっきり投げれたので、球速もそれなりに速く、ボールがシューッと言ってたのを何となく覚えてる。二度ほど、その塀の上の家の窓ガラスに当て一度は割って居たので、それで悉く謝って反省もして居た当時であり、あの思いきりは又、子供心の常識を超える奇跡に在ったのか。俺があの時投げたあのカーブの特徴は、落ちなかった。真っ直ぐと言って良い程、真横に曲がった。右投げで投げて居たから、左方向に真横に曲がったんだ。それも覚えてる。あれをカーブと言うのかどうか判らないけど、あのボールを俺は「カーブ」と呼んでモノにしたかった。あのカーブは俺の子供の時の野球人生で、もしかすると一番の快挙かも知れない。それほど、記憶に鮮明に残るほど凄かった。だってあれから約三十六年経った今でもはっきり覚えてるんだから。あのカーブをあの時に投げさせてくれた神様に感謝する。これも本当に感謝である。



榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw


"DEDICATION" 「献身」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MxKFmcXqI4Y


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%86/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

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