再会

@motosawa8235

第1話 再開

雑踏のひしめく人々のにぎやかな会話。豪華な衣服に身を包んだ貴婦人の冷たい囁き声。孤独な浮浪者の奏でるギターの音色。商店を営む老人の愚弄する言葉。

それらの雑音を掻き消すように、リサは裸足のまま、雨に濡れた長い黒髪を乱暴に左右に揺らし、どたどたと走っていた。

「逃げても無駄だ!」

「おとなしく掴まれ!」

背後から聞こえる警官たちの罵声のような決まり文句。一人の警官は白の箒。もう一方は黒の箒に跨り、箒の先端に顎が付きそうなほどの前傾姿勢を保ちながらリサに接近する。

「誰が捕まるもんか!」

 リサは背後の警官たちに叫び返すと、ボロボロな酒場の角を曲がり、暗い路地裏に入った。

 路地裏には、酒飲みが嘔吐したであろうものや、残飯の廃棄用のごみ箱、そしてそれに群がる野良の獣たちがいた。

 酸欠だからなのか、リサは激しい頭痛とめまいに襲われる。ふと耳にしたギターの音色が耳に蘇り、脳内で鳴り響き続ける穏やかなメロディーは、リサに高揚と、いつかの望郷の感情を呼び起こした。

 意識を朦朧とさせながらも、リサはなんとかゴミ箱の前に立ち、狭まった視界の中で少し遅れて路地裏に入った警官たちを待ち受ける。

「やっと追い詰めたぞ。泥棒娘」

「きさまには、黒魔術による刑罰を下そう」

 黒の箒から降りた警官は、勝ち気な表情を浮かべ、腰にぶら下がった黒い杖を取り出し、その先端をリサに向ける。

「アヴァンダール!」

 黒い杖から稲妻が走り、リサの心臓を射る瞬間、リサの叫び声が響く。

「キュウ!」

 リサの後ろにあったゴミ箱から黒い影が飛び出し、その影は警官の突きつける杖の突端に指先でちょこんと触れ、もう一人の警官の頭に向けた。

「ぐああああああああああ」

 稲妻を脳天に食らった警官は呻き声をあげ、力が抜けたように足元に崩れ落ちた。

 警官の頭があった場所に杖を向けたまま、同僚を殺した警官はただ茫然と杖の先を見つめている。

「おらあ!」

 立ち尽くしている警官の顎に入るリサの拳。吹き飛んだ警官は路地裏から放り出され、驚きと狼狽、恐怖の色を浮かべる目をリサに向け、逃げるようにその場を走り去った。黒の箒には乗らないようだ。

 リサの頭に響いていたギターの音色が完結すると共に、意識と聴覚、視界が明瞭になる。

 聞こえてくるのは、自身の荒い息遣いと、路頭の喧騒、隣の酒場の男と女の笑い声だ。

 汚れたローブの陰から伺えるキューの虚ろな眼は、警官の死体を映した後、リサの拳を心配そうに見つめる。

「あはは。こんなんへっちゃらよ。それより飯にしようぜ」

 キュウは安堵の表情を浮かべる。リサはじんじんとする拳の痛みに耐えながら、キューと同じように汚れたローブの懐から乾いたパンを取り出す。雨に濡れないよう、丁寧に運んだ甲斐があった。リサはパンを両手に収めると、半分にちぎり、かすかに大きな方をキュウの両手に渡した。

 キュウは無言でパンを受け取り、路地裏の隅に座って、何日ぶりかの食糧をパクパクと貪る。ローブのかげから見えるキューの顔は、短髪の黒髪の隙間から、虚ろな眼にパンをいっぱいに浮かべ、頬いっぱいにパンを埋めている。リサはキュウの隣に座り、同じように虚ろな眼を浮かべ、パンを咀嚼した。口元から落ちるパンのくずを、獣たちが羨ましそうに眺めたり、嗅いだりしている。

 リサは自分のパンのまだ口のつけていない部分をちぎり、近づいてきた獣たちの足元に放り出す。

「これで三日は持つな。明日はなに盗もうかな。キュウ、なんか欲しいのあるか?」

 キュウは無言のまま、手元のパンに夢中のようだ。

 ふと路頭の喧騒の中に、また、リサの感情を昂らせ、同時に激しい喪失感を浮かばせるギターの音色が鳴り響く。リサは路地裏から抜け出した。

 路地裏のすぐ向かい側、くたびれた灰色のローブに身を包み、白黒のギターを抱える浮浪者の周りに、人だかりができている。

「あんた、ここで何してんだ」

 衣服に身を包んだ商人らしい若い男が、泥酔にまみれた汚い声で、浮浪者に尋ねる。

「その白黒ギター、壊れてるんじゃねえか?キンキンと甲高い、赤子の泣き声のようだ。なあじいちゃん。ここらは俺らの住処だ。商売の邪魔をされると困るんだよ。」

浮浪者はギターを奏でる手を止め、ローブの隙間から顔をのぞかせ、若い男の顔をゆっくりと見上げる。

浮浪者の顔には、無数のしわが刻まれており、その目からは、若い男の非難を受け入れながらも、その言葉の真偽を問うような、同時に、純粋な子供のする好奇の色が溢れていた。

やがて、止まったような時の中にいた浮浪者の目は、無言のまま若い男の目から外され、再びギターの元に戻されると、演奏が再開される。

「な、なんだよ。気持ち悪いじじいだな。けっ。明日もここにいやがったら容赦しないからな」

若い男は狼狽の声を上げて立ち去る。その様子を見ていた人だかりは、興味をなくしたのか、徐々に散らばり、最後には浮浪者とリサが残った。

リサは若い男の言葉に疑問を感じていた。リサは浮浪者の奏でるギターの音色が、赤子の泣き声のように聞こえず、むしろ、気分を高揚とさせ、また、子供の頃の懐かしさを思い出させる、純粋に良いものだと感じていだ。しかし、リサは心地よい感情の一方で、その音色により、再び軽い頭痛とめまいに襲われていた。なにか、暗雲に包まれた奥底の記憶を無理やりに引っ張り出されるような、同時に、自分の重要な何かを手放し、本来の手にすべきものを思い出せという、激しい焦燥感が湧きおこる。

リサは次第に朦朧としてくる意識の中、いつのまにか浮浪者のそばに立っていた。

リサは茫然と立ち尽くしたまま、浮浪者の奏でる音色とともに、数分間、或いは数時間にも感じられる時間の感覚にとらわれる。人々の雑踏は次第に聞こえなくなっていた。少なくとも、リサの耳は、ギターの音色に全ての神経が注がれていた。

ふと、ギターの音色が高くなると、リサの記憶の深淵から。いつかの悲痛な叫び声が蘇る。

「いやだ。痛いよ。」

「父さん、母さん!」

「助けて」

頭が痛む。

ギターの音色が中音になる。

「いつか抜け出す」

「パンが食べたい」

「くそくそくそ」

目から不意に涙がこぼれる。

ギターの音色が低音になる。

「魔術が使えないごみが」

「復讐復讐復讐」

「一人にしないで一人にしないで一人にしないで」

ぷつん。

リサはギターの音色が途切れるとともに、その場に崩れ落ちた。


リサが目を覚ますと、古びた木造の天井が温かな暖炉の明かりに染められている景色を捉える。背中には、ごつごつとした小石の散らばる地べたではなく、柔らかなクッションの包まれた毛布を感じた。

リサは咄嗟に起き上がり、周囲の環境を把握する。

まず、四方は天井と同じく古びた木造に囲まれていた。その広さは、ごく一般の一軒家に納まりながら、ある壁の一面には魔術本で埋め尽くされた本棚が並んでいる。また、ある壁の一面には白、黒、灰色、赤色、青色の色々な箒と、またただの掃除用の箒であろうものがずらりと並んでいる。天井を橙色に染めていた暖炉は、リサの肌身にその暖かさが包まれるよう、適当な場所にある。暖炉は壁の一部に奥行きを設け、その中で焚き木を燃えさせているが、煙を吐き出さず、灰になる気配のない木々がぱちぱちと鳴いている。

暖炉のある壁一面には、家主が描いたものであろう楽譜と、森林や街の風景画が飾られている。どの絵画も、閑散とした雰囲気を醸している。

リサは、一枚の街の風景画に見入った。ふと、絵の中に見覚えのある建物があるのを捉える。その建物には、紙袋いっぱいにパンを詰めるお人好しそうな年配の男が、子供ずれの貴婦人と嬉しそうに会話する様子が描かれていた。

リサはパンを盗んでいたことを思い出す。

曖昧な記憶を取り戻すとともに、腹の虫がぐうと鳴る。その空腹感に襲われると同時に、自分の大切な何かが遠くに離れてしまったような空虚感が胸を満たす。

「キュウは。キュウはどこ?」

 リサは部屋の隅に階段が設けられているのを見ると、急いで駆け上がる。

 階段を上ると、階下の部屋と同様の木造の床と壁、天井が広がっている。部屋の中央にはらせん状の階段があり、その天井と接する部分は、他の部分よりも微かに古く変色していた。  

よくみると下から押し開ける為の取手が付けられている。

 部屋には白紙の紙が積み上げられたテーブルと机、様々な食糧の散乱する台所。

 そしてギターがあった。

 壁に掛けられたギターは一本しかなかった。

 また、この部屋が地上にあるということが、他の壁に設けられた窓の外に映される景色から分かる。しかし、それぞれの窓の景色の一つ一つは、奇妙なことに、一つの景色に収束せず、まるで異なる国々に繋がる異空間にいるような錯覚を覚えさせる。

 ある窓からは、街の大通りに面する建物からその住民の歩く様子を上から眺めることができ、ある窓からは、森林の奥地に流れる川を傍に眺めることができ、またある窓からは、極寒の吹雪が一面に広がる極地を目の当たりにすることができる。他にも、苔や茂みに覆われた戦争跡地、荒々しい海流を遠目にみる閑散とした砂浜、溶岩を流れる山々の麓の民家群が見られる。

 ここは、死後の世界なのか?私は死んだのか?

 リサはほとんどパニックに陥りながら、しかし、キュウと離れてしまったということによる強い不安感から、はやくここから出なければと、部屋の中央にある螺旋階段を駆け上り、外の世界に繋がっているだろう天井の取手のある部分を押し上げようとした。しかし、その取手は押しても引いても微動だにしなかった。リサは更に困惑した。

「いざなわれたか」

 不意に背後からかけられた声に、リサは驚きを隠せず、危うく階段を転げ落ちそうになりながら、なんとか持ちこたえた。

 リサが振り返ると、彼女が先ほどの寝ていた部屋から繋がる階段の上った先に、浮浪者がいた。

 わけが分からない。

 リサはまた困惑した。下の部屋には、外からの出入り口がなかったはずだ。目を覚ました時、この浮浪者はいなかったのに、一体どこから?そしてなにより、この浮浪者の発する存在自体が奇妙で、しかし、敵意を感じるには至らない程の弱弱しさを兼備えているということに、なぜか自分の存在があやふやになるような危機感を覚えた。

「お前、いったい何者だ!ここはどこだ!お前がここに私を連れてきたのか!私をどうするつもりだ!お前がそのつもりなら」

 リサはそこまでまくし立てるように叫びながら、徐々に言葉に怒気がこもらず、むしろ自暴自棄な色合いを含んでいるのを感じた。しかし、言葉が途中で止まったのは、リサの叫び声よりも、彼女の腹の虫がぐうとその声をうるさくしたからだった。

「腹減ってんのか。飯食おう。時間は少しかかるが、まあ待っとれ」

 浮浪者ののんびりとした声に、リサは自身の神経が逆なでされるように苛立つ。無論、自暴自棄になっているだけだが。

「飯?見ず知らずの赤の他人の飯なんか誰が食うか。とっととここから出してくれ」

「何を言っとるんだ。お前さんが本当にここを出たければ、そこの取手は勝手に開いて、とっくに外に行けるわい。それができないのは、お前さんの問題だ。わしゃ関係ないわい」

「なんだと。そんなこといって私をここに閉じ込めようとしているんだな。そうなのだろう」

「知らん」

 浮浪者はリサの言葉を毛ほども気にせず、料理を開始する。リサはひたすらに浮浪者に喚き散らすが、浮浪者の調理はスムーズに進めており、鼻歌を歌い、少し上機嫌な様子を見せている。

 肉を油でじゅうじゅうと炒める音、野菜を千切りにトントンと刻む音、スープが熱を帯びて鉄の容器とふたがコトコトとぶつかる音、様々な調理の音が部屋に響くと共に、徐々に料理が完成に近づいているのが匂いで分かる。

「できたぞ。冷めないうちに食べようか」

浮浪者は慣れた手つきで料理を二人分の皿に盛り付けると、テーブルに大雑把だが規則ただしく並べ始める。

 リサは浮浪者に喚き、天井の取手にその苛々をぶつけるうちに、ほぼ力尽きてしまい、階段に座り込んでいた。

「腹が減っては何とやらだ。お前が席に着かんと飯を食えん。さあ、はやくはやく」

「…。」

 リサは返す言葉を探すほどの気力も失くしていた。同時に、食卓に並べられた、質素でありながら、丁寧かつ豪華に盛られた名前も分からない料理の品々に吸い寄せられるように目を見張っていた。

 リサは浮浪者の言葉に従ったふりをして、隙をみて逃げようという魂胆でありながら、やはりここは浮浪者のいう通りにすべきなのではという気持ちも偏在しながら、階段を崩れ落ちるように下ると、食卓にのろのろと足を運ぶ。

 リサが食卓に着くと、浮浪者は合掌し

「いただきます」

と一言いい、二本の棒状のものを器用に手に収め、料理をぽいぽいと口に入れ始める。

 リサは無言のまま様子を眺めた後、浮浪者の手元にある棒状の乱雑に持ち、恐る恐る料理を口に入れる。最初は、湯気のただよう様々な野菜が入った黄土色の汁物をかき混ぜ、食べる。

「あつっ」

 リサは舌を火傷した。そこで向かい側の浮浪者が同じ汁物にふうふうと息を吐いてから食べているのを目にすると、それを真似して汁物を口に含んだ。野菜の柔らかい食感と鼻を抜ける穀物の甘い風味が食欲を引き立てる。いつの間にか汁物を入れた容器は空になった。次にこれも湯気をまとう白い小さな粒のようなものがたくさん入った容器に目をつける。

 今度は火傷しないよう、息を吹きかけて口に入れる。白い粒は噛む度に甘さをまし、しかし、いつのまにか喉を通るのが不思議だった。この容器も知らぬ間に空になった。

「おかわりは自由だ。好きなだけたべるといい」

 浮浪者は嬉しそうに言いながら、台所に浮浪者自身の二杯目となる汁物と白い穀物を盛っていた。リサはそれに倣い、同じように二杯目の品を盛り付け、席に着く。

 浮浪者が食卓に並んだ品々に手を伸ばすと、リサは同じように手を伸ばし、口に運ぶ。

 徐々にリサの食べるペースは早くなり、浮浪者の真似をするには収まらない食欲が自然と溢れ、皿に盛られていた料理はちゃくちゃくと皿の顔を見せ始めた。時折、リサが棒状のものを放り、手で料理をたべようとすると

「こら。下品な食べ方は料理に失礼だ。」

と浮浪者に叱られ、棒状の二本のものの持ち方を教えられ、しかし、乱雑な持ち方をしたままでも食べられると反論し、食事を再開する。数分も経たないまま、すべての料理が二人の胃袋に納まった。浮浪者はまた合掌し、

「ごちそうさまでした」

というと、料理の皿を積み重ね、台所に運び始めた。リサは自身の容器をそのままに、天井に繋がる階段に急ごうとしたが、

「後片付けをせんかい。最後まで人任せにするな」

と浮浪者に叱られる。リサはカチンときて、何か言い返そうと言葉を探すが、うまい言葉が見つからない。うまい料理を食べさせてくれた浮浪者への恩と、どこかでまだ浮浪者に利用されるのではないかという疑心暗鬼の気落ちが渦巻き、やはり浮浪者のいう通りにしようと判断した。

 そしてなにより、リサは、これまで経験してきたことの全てを覆られそうな恐怖感と、今の自分の外の世界に対する無力感が心を蝕んでいた。

 皿洗いを終えると、

「チャでも飲もう。コーヒーもあるぞ」

と浮浪者から勧められる。リサはチャがなにか分からなかったが、コーヒーという飲み物が、よくパンを盗んでいた店のメニューに載せられていたのを覚えていた。

 そして、浮浪者の問いかけに発した声の調子には、リサの心を蝕む恐怖感と無力感に繋がる、いや、よりその感情の根本に差し迫るものを感じ、リサは半ば挑戦的に、

「コーヒーが飲みたい」

と答える。浮浪者は無言でうなずき、二人分のコーヒーを煎れ始める。

 浮浪者はコーヒーが入った二杯のコップを席に置くと、リサが席に着くのを待ってから一口啜った。リサは何かを受け入れる覚悟をもちながら、また、始めてのコーヒーの味に期待を持ちながら、一口飲む。

「おいしい」

 自然と口に出ていた言葉だった。

「そうか。煎れたかいがある。」

 浮浪者は少し間をおいていうと二口目を口にする。

「自己紹介が遅れたな。わしの名前はクウ。」

 クウは軽く一礼し、皺だらけの手を伸ばし、握手を求める。

「私はリサだ。」

 リサは警戒の色を緩めず、しかし落ち着いた口調で返答する。

「リサ。そこの壁にあるギターに、見覚えがあるじゃろう」

 クウは壁にかけられた白黒のギターを指さす。

「うん。私がここに来る前。あなたが弾いているのを目にした。」

「そうか。その音色は、赤子の泣き声のようではなかったか?」

「違うね。それを聞いていた若い男は、まるでそのように聞こえていたらしいけど、私にはとても楽しくて、だけど悲しくて。あと、誰かの声を聴いたわ。酷く絶望した声」

「ふうむ。その声は何種類だったかの?」

「三種類。子供の声。少女の声。あと、大人の女の声」

 リサの答えに、浮浪者は微笑みを保ちながらうなずいて答える。

「お前さんは運が良い。六つの世界ではなく、三つの世界の輪廻に囚われているからの」

 浮浪者の答えに、リサは戸惑う。

「三つの世界?輪廻?どういうこと?」

「まず、お前さんは神様を信じるか?」

「信じないわ。神様なんているわけがない。神様がいるなら、この手で殺してやりたいくらい」

「嘘じゃな。」

「え?」

 リサは浮浪者の指摘が、自分の思っている以上に図星であったのか、口に含んでいるコーヒーを吹き出しそうになる。

「神様がいないと鼻から信じていたのであれば、三つの世界で輪廻になる羽目にはならないからじゃ。つまり、おぬしはどこかで、おそらく三つ目の世界で、神様に対し、何か、よからぬこと、この世の真理に背くことを願ったのだろう」

「そんなことっ!」

 リサが拒絶するように椅子から立ち上がると、ぎいと天井の扉が開いた。

「ほおれ。お前さんは知っていたはずじゃ。自身の過去を。あの扉の先で、自身の過去の因果を見てくるといい。天は見ている。」

 放浪者は天井の空いた扉を眺めながら、呟くように話す。

「テン?なにそれ?」

「天とはこの世界の創造主であり、神様であり、この空間にわし達をいざなった者。即ち、天とは世界そのものであり、わし達なのだ。天は六つの世界をつくった。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界。天はそれぞれの世界の因果を俯瞰し、やり直しの機会を、あの扉を通じて与えてくれたのだ。」

「ええと、つまり、あの扉をくぐると、外の世界に出られるの?」

「出られるかもしれんし、出られないかもしれん。」

 放浪者はそれだけいうと、コーヒーを一口すすり、静かに俯いた。

「出られる。出られたら、キューに会える」

 リサは半ば強迫的な焦燥感に駆られながら、急いでらせん状の階段を上る。天井の扉の先は空に浮かぶ雲が広がっていた。試しに手を伸ばすと、無重力の空間を漂うような感覚が手先に集中する。

 リサはふとクウの方に振り返り、尋ねる。

「クウは、なぜ私の前に現れたの?」

「さあな。天の決めたことだ。いずれ、また会うかもしれん。まあ、お前さん次第だ。」

 まあ、お前さん次第だ。

 クウの言葉が脳内に反芻し、リサは戸惑いを捨て、半ば強引に階段の最上段から上に飛んだ。無重力の空間が頭頂部から首、肩、胸を包んだあと、全身を内包した。

 周囲の空間と、自身の境目が曖昧になった後、激しい睡眠欲に駆られる。

 リサは眠るように、目を瞑った。


「次。334番。」

「はい」

「よし。次。335番」

「はい」

 大人の男の冷たい声に、子供の緊張した返事がつづく。

 リサが目を覚ますと、暗い教室の机に座っていた。周囲の子供の目は一切の光を纏わず、机の上の魔術書と黒板に刻まれた文字を反芻し続けるように、機械的に動いている。

「次、336番」

 少しの沈黙が空く。

「336番!」

「はい」

 少女の力の抜けた声が教室に響く。リサは、この声が自分の声であるということに気づくのに数秒を要した。

「よし。では今回の授業。皆、予習は済ませていると思うが、白魔術の基本動作、呪文詠唱の筆記、及び実習試験を行う」

 最前列から渡される先生のテスト用紙が目前に映る。

「よし。試験はじめ」

 周囲の同級生は血走った眼を走らせながら、次々と回答を済ませるように鉛筆を進ませる。リサは微動だにしない。

 魔術学校。この世を支配し、そして社会的地位に結び付く絶対的な存在、魔術。この世界に生まれてくる生命ないしは物体には白魔術と黒魔術、いずれかに適正する魔力をもっており、その基礎的な知識、経験を培うための教育機関。なお、魔術を有していない者に対する支援機関は存在するが、魔術の適正をもたないものはその社会的貢献度の見込みの低さから、常に差別と奴隷身分としての扱いを強要された。

 リサは目の前の白紙の試験用紙を漠然と見つめ、ついに自身の魔力の芽生えが来ないまま、試験日を迎えているという事実に震え、絶望していた。

 先生がリサの机を横切る度、怪訝な表情を白紙の試験用紙とリサに向ける。

 筆記試験時間が終わり、実習試験に映る。

 校庭に移動し、生徒たちが順番に箒に乗り、空中に飛ぶ中、リサの順番がやってきた。リサはいつになっても飛ぶことが出来ず、その場でぴょんぴょんと飛び、実習試験を終えた。

 学校が終わり、家に帰る。暫くすると、電話が鳴り響いた。その電話を引き受けた母は、半ば発狂した後、リサを無言で抱きしめた。父が帰ってきても、いつも家族で囲む食卓に母の料理は出なかった。父は部屋に閉じこもった母と口論をした後、ただひたすらテーブルに俯いていた。

 翌日、リサは魔術学校を退学し、いわゆる収容施設とも呼ばれる児童養護施設に移される。

 施設内の児童は、魔力を持たずに学校と家庭に追放された者ばかりで、その児童を担当する職員の態度は悲惨なものだった。なんら囚人と変わらない扱いだった。

「いやだ。痛いよ。」

「父さん、母さん!」

「助けて」

 何度言ったセリフだろう。職員の笑い声を自身の泣き声が繰り返し反響する。

 収容施設での生活が十年間に達した時、リサは自身の身体能力が周囲の子供より飛びぬけて優れているのを実感する。

 自由時間中、勝敗が決まらずに終わった相手チームの三つ歳上の男と喧嘩した際、リサは男に全治七か月の負傷を負わせた。その結果、リサは閉居罰として、独房に一か月幽閉された。飯はおろか、同僚との会話、その他全ての自由行動が厳しく制限された。

「いつか抜け出す」

「パンが食べたい」

「くそくそくそ」

 閉居罰を終えた一か月後、リサは収容施設から脱獄を果たす。同僚と職員の目を盗み、その超人的な身体能力を生かして、地中からの脱獄に成功する。

 脱獄後、リサは追っ手を振り切りながら、自身の苗字を使い、両親の居場所を探す。

 三日後、あるパン屋の店主に尋ねた。

「ああ。いつもうちのパン買ってくれるよ。毎日、よく飽きねえよなあ。まあ、たくさん買てくれる、ありがてえ常連さんだ。」

 リサは翌日の朝まで酒場の傍らの路地裏で過ごし、両親の通うパン屋に向かった。

「あっ!」

 リサの目に、温かい母親の後ろ姿が映る。やはり、大量のパンの詰まった袋を抱えていた。

 リサは母親の背後まで近付き、数年ぶりの再会の言葉をかける。

「あっ…おかあ」

「えっ?あっ…。」

 母親は驚いたような、また、哀しそうな目をリサに向ける。

 母親の膨らんだおなかには、はっきりと新たな生命が宿っていた。

「…。」

「あっ。あなたは…。」

 母親の言葉が言い終わらぬうちに、リサはその場を駆け出していた。

 その後数日間、リサは何も口にすることが出来ず、路地裏に一人、横たわっていた。

「魔術が使えないごみが」

「復讐復讐復讐」

「一人にしないで一人にしないで一人にしないで」

 それらの言葉を呪文のように唱えるうち、ついに身体と精神の限界を迎えたリサは、ふと眠くなり、意識が途切れる間際、願ってしまった。


 母から生まれる子供が、私と同じように、魔力が使えないごみでありますように。


 次の日、リサは空腹感で目を覚ます。頭が朦朧とし、記憶も薄れかける中、食べ物を漁ろうと路地裏のごみ箱のふたを開けると、残飯に埋もれた短髪の黒髪の男の子が目に入った。

「なんで。」

 リサは訳も分からず戸惑っていると、男の子のおなかの虫が自身のそっくりにぐうと鳴いた。

 何か食べさせなくては。

 リサは母親がパンを買っている店に出向き、その日初めて、パンを盗んだ。


 私は願った。

 この願いが、私の本当の気持ち?

 じゃあ、キューは私の何?

 すべて間違っている。

 私が?

 世界が?

 どちらも違う。

 世界はそのままだ。そこに意味はない。そこにあるだけだ。

 じゃあ、私は何を願う?扉の外の世界に何を見る?

 …。

私が本当に見たかった世界。

 そこがどんなに苦しくても、間違っていると感じても、私は還るのだ。何度、過ちを犯そうとも。あらゆる屈辱に塗れようとも。何度も。何百回、何千回、何万回も。

 ……。

 私は願う。

 ………。


「大丈夫?大丈夫ですか?」

 肩を揺すられ、リサは目を覚ました。ここは、あのパン屋の向かいのようだ。

「あの、大丈夫ですか?」

 リサは座ったまま、手元に何かを抱えていることに気づく。

 古びたローブから伸びた腕の中に、白黒のギター。

 リサは声をかけてきた中年の女性を見上げる。

 女性と目が合う。

 女性の目は驚いたような、また、哀しそうな目をリサに向けていた。

 そして、女性の隣には、なぜか見覚えのある短髪の男の子が立っていた。男の子は純粋な光の宿る目をリサに向けていた。手元には大量のパンの詰まった袋を抱えている。きちんとした学校の制服に身を包んでいる。

 リサは唇を強くかみしめ、知るはずもないメロディーに合わせてギターを弾き始めた。

 女性の隣の男の子が呟く。

「…お姉さん?」

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